骨董商Kの放浪(27)

 10万で買ったモノが900万で売れたのだから、ぼくらは、はしゃがずにはいられなかった。オークション会場では、極力抑えていたものが、ホテルに帰ると爆発した。狭い部屋のなかで、何と枕投げが始まったのである。

 「ぎゃっ、はっ、はっ! やったぜー!」「愛してまーす! Lioちゃーん!」「誰だかわからない電話ビッド、セーンキュウー!」「禿寺ー、おまえが一番エライ!」「900マーン、俺は待ってるぜぇ! アッハッハ!」

 最後に思い切り投げた才介の枕が天井にぶち当たり、大きな音を立てた。「やばいよ、おまえ、ここボロホテルなんだから、壊れるぜ」才介は落ちてきた枕をつかむとまたベッドに叩きつけ、「ぎゃはは」と笑いながら、飛び跳ねるようにして窓に向かった。ガラッと開けるや顔を突き出し、「サイコー! ホンコーン!」と叫ぶ。ぼくも一緒になって叫んだ。「ホンコーン! サイコー!」

 ぼくらの大声に、雑踏のなかで振り向く何人かの姿が目に映ったが、すぐに日常のせわしない流れに戻っていった。ぼくは晴れ晴れとした気分で胸いっぱいに空気を吸い込むと、喧騒が行き交う尖沙咀(チムサーチョイ)の街中を見下ろした。狭苦しい路地を人々が慌ただしく動き回っているこの光景も、今日はなんだか都会的に見えてくる。そして、湿った海風によって立ち込める饐(す)えた臭(にお)いも、甘酸っぱい香りになって匂ってくるように思えた。

 

 「さてと、今日の食事は香港だったな」ペットボトルの水を一飲みしてから、才介は確認する。今晩の夕食は、ママが初日に連れて行ってくれた中環(セントラル)エリアにある有名な広東料理のレストラン。昨夜と同様で、マダム交えて4人の食事である。午後6時に中環駅前の広場で待ち合わせとなっていたため、午後のセールの終了後、ぼくらはいったんホテルに戻り、身支度を整えて再び香港へ向かうことにした。

 尖沙咀から中環まではフェリーが出ているので、ぼくらはそれに乗船。ヴィクトリア・ハーバーの夕風を気持ちよさそうに浴びながら、才介がぼくの方に顔を向け提案する。「あのさぁ……今日、おれらだいぶ儲かったじゃん。だから、お礼の意味も込めて、今日はママたちにご馳走しようかと思ってるんだけど。どう?」「うん! それがいい」ぼくは速攻で快諾。「今回は、いろいろとママには世話になったからな」そう言ってお互いにこりとうなずき合った。

 

 フェリーを降り、そこから歩いて駅前広場へ移動する。中環(チュンワン)は、英語名でセントラルというくらい、香港の中心地として栄えており、主要な大通りにはハイブランド路面店がずらりと並んでいる。東京で言えば銀座を彷彿とさせるが、ごった返しているようなこの人の賑わいは、新宿か渋谷に近い。その人混みを見て才介が「おい。いくらわかりやすい駅前広場っていっても、わかるかよ。この人で」と不安気な声をもらしたとき、大きな手を上げて小走りに向かってくる真っ赤なワンピースが見えた。

 「あなたたちー!」ママはぼくらに近づくと速度を落とし、そのまま大通りへと歩を進めた。「マダムは?」「リョウコは、先に、行ってるね」

 ――昨日の会話で、お互いの名前を日本名で呼び合っており、ママはマダムを "リョウコ" 、マダムはママを "ナツコ" と呼んでいた。

 「今日はねえ、うんと高いレストランだよぉ、ハハハ、良かったねぇ」そう言ってママは才介の肩をぱんっと一つはたいた。その顔は相変わらず快活だったが、はたかれた才介の顔は、完全にビビっていた。だいたい、これまでの値段がわからないし、どれも滅茶苦茶高いように思えるし。ぼくは腕でつついてささやく。「おい、最初に値段聞いといた方がよくねえか?」それに対し才介が「だな」とうなずいた。

 

 レストランは、「うんと高い」を地で行くような豪奢なつくりで、何卓も置けるくらいのだだっ広い個室に、ぼくらは丁重な扱いをもって通された。すでにマダムが座っていた。今日は、濃紺を主体としたシックな衣装。首元を飾るエルメスのスカーフのビビッドな黄色が眩しく映る。マダムはぼくらの姿を確認すると、スカーフを取って立ち上がり「こんばんは」と挨拶した。ぼくらも頭を下げるが、ついゴージャスな室内に目がいってしまう。そして、才介を見る。その顔がかなり硬直しているのがわかった。もちろんぼくも同様で。

 ぼくらが腰かけると、ママがテーブルに両腕をのせ、身を乗り出すようにして訊いてきた。「今日、どうだった? オークション、何か買ったか?」「いや、いや、ぼくらは単なる見学で……」取り敢えずそう言ったあと、「しかし、凄かったですね。成化豆彩杯」それにママが即座に反応する。「あれね、上海のひと買ったよ。あたし、よく知ってる」「ええっ!  知ってるひとですか?」ぼくらが目を丸くしていると、「知ってるよぉ。時々電話くるよ」ママは平然と答えた。流石の人脈に、ぼくらは唖然とママをみつめるばかり。「そのひとね、最近、オークションの一番高いモノ、みんな買ってるよ」さっき、三代目もそんなことを言っていた。ママがにやりと意地悪そうな目を向けてきた。「あなたたちが、売ったんじゃない?」「何バカなことを言ってるんですか!  そんなん、持ってるわけないでしょ!」ぼくらが真剣に取り合うと、「アッ、ハッ、ハッ!  冗談よぉ!」ママは大笑いした。そのあとまた探るような目つきで、「でも、何か売れたでしょ? 高く売れた?」と訊く。「いや、まあ、少しは売れましたけど……」「そうかぁ、よかったじゃない。で、いくら儲かった?」「それは……まあ、そこそこは……」ぼくらは目を合わせてにやりと歯を見せる。「そうかぁ、儲かったか! よしっ、あたし、いくら儲かったか、当ててみようか?」ママは実に愉しそうだ。うーん、と腕を組みぼくらの顔を交互に観察。そして、指を一本立てた。「1億円くらい、売れたか?」「いや、いや、いや! そんな、儲かるわけないっしょ!」と才介が大げさに指をさし反応すると、ママはまた大笑いして、「じゃあ、1千万くらいか?」「……」えっ? 結構近い……。ぼくらは見つめ合い少し固まる。「じゃあ、3百万くらいか? ハハハ」からかうママを見て才介は居住まいを正し、「まあ、いくらかは儲かったので」と頭をかきながら、「それでお礼のつもりで、今日の食事代はぼくらが持とうかと思って」と言うと、ママは「本当か!」と手を合わせた。そして、また意地悪そうな目をして、「ここねぇ、鮑が美味しいのよぉ。一番高いの、一ついくらかわかる?」と、また愉しそうに訊いてきた。「う~ん」ぼくは考える。中華で鮑となると、前菜のなかにあるスライスしたやつを宋丸さんからご馳走になったことはあったが、丸まる一個となると皆目見当がつかず、「1万円か2万円くらいですか?」と、どうせ高いだろうと思っている値段を言ってみた。それを聞いて、ママはにやにやしながら、「ここで一番高い鮑ね……」と言ったあと、充分な間をもたせてから、「1個200万ね」「…………」ぼくは目が点になり、そのままゆっくりと顔を才介の方へ。才介も同様にぼくに顔を動かし、そして目が合う。「マジっ‼」それを見てママが「アッ、ハッ、ハッ!」とのけ反って笑ったかと思ったら急にぼくらに顔を近づけ、「じゃあ、今日は、それ、頼んでみようか?」と、またまた意地悪い目を向ける。ぼくらは慌てふためき両手を伸ばし、「だめ、だめ!」「ノー、ノー!」「勘弁!」と声を重ね合わせてそれを制する。その恰好がよほど面白かったのか、ママが「アハハ」と愉しそうに何度も手を叩いた。その光景を見ていたマダムが、「よしなさいよ、ナツコ。今日はわたしの奢りだから」と、このやりとりに終止符を打った。マダムの言葉を聞き、才介が胸をなでおろすのが見えた。

 

 四人は円卓を囲み、ママの右に才介。マダムの左にぼくと、昨夜と同じ配置。やはりママとマダムの会話が中心だったが、時折りぼくらにも話しが振られた。そのときは、当然日本語。ぼくらもそれに応じ、話しが盛り上がる。

 「明日、あなたたち、帰るでしょ?」ママの問いに「はい」とぼくら。「じゃあ、今日が香港、最後の夜か」うなずくぼくらの顔を見て、マダムが優しい目を向けた。「どうでした? 初めての香港は?」先ほどからぐいぐいと紹興酒を飲んでいる才介が、「いやー、最高っす!」とくだけて答える。「おまえ、顔赤いぞ」ぼくのつっこみに、「これ、美味いわ」と小さな盃を掲げにっと笑った。確かに、この紹興酒はコクがあってうまい。ぼくもいい気持ちになっていた。

 着いた早々有り金を失くしたときは、どうなることやらと思っていたが、ママやSaeのおかげで、最後は僥倖(ぎょうこう)にも恵まれ、毎日がまるでジェットコースターに乗っているように過ぎていった。今は、「捨てる神あれば拾う神あり」というSaeの言葉が頭を巡っている。

 ぼくはマダムに尋ねた。「年に何回来られるんですか?」マダムは深い笑みを湛えて「4回ね」と答えた。「4回?」「そう。年4回、香港ではオークションが開かれる」それを聞きぼくは、マダムの顔を覗くように再び尋ねた。「それじゃあ、オークションに参加してるんですか?」マダムは薄い笑みを浮かべると、「参加はしないけど、それには意味があるの」と答えた。

 ――どんな? と、言葉を発しようとしたぼくの顔にちらりと視線を送り「それは、あとでね」とさえぎるように言うと、れんげを動かし、いろいろな具の入った酸味のあるスープを口に運んだ。

 

 三品目の料理の前、それぞれの席にナイフとフォークが置かれると、ママが両手を合わせ、「来たよぉ、鮑ぃ~」とにやにやしながら声を震わせた。まもなく、オイスターソースに煮込まれた大きな鮑の皿が目の前に出された。「これ、美味しいよぉ」ママが才介の鮑に目を向ける。それを見て半分酔っている才介が、「これですかい、ママ、200万は?」と調子づく。それを聞いてママは大笑いしながら「そうかもよぉ、ハハハ。今日は、お金持ちのひとのおごりだからねぇ」「ちょっと、よしなさいよ」即座にマダムがたしなめる。ぼくも笑いながら、ナイフで端っこを切って口に入れる。「!」途端に感動。鮑がこんなにも柔らかいということをぼくは初めて知った。「絶、品、です!」と思わず一言。「だろう?」ママは酔っているのか、急に男言葉になっている。あっという間に食べてしまったぼくにママは驚き、「そんなに美味しいか?」と訊く。「はい!」と勢いよく答えると、「でもねぇ、今日はねぇ……、あげないぜ」とママはまた男言葉になった。

 

 ココナッツミルクのたっぷり入ったデザートが終わった頃、さっきまで快活に笑っていたママが急に神妙な顔つきになった。

「リョウコ、この子たちにも話してみたら? あなたが探しているモノ……」「そうね……」

「それもあって、今日、個室にしたんでしょ?」「そうね……」

 マダムの微笑が、急に重くなっていく。

 

 このまま解散かと思っていたぼくらは、思わぬ急展開にお互い顔を見合わせ姿勢を正した。

 何の話しをするのだろう。探しているモノって――。

 マダムは、宙の一点に視線を向けたまましばらく動かなかった。やがて、給仕の男性が卓の中央に置かれた大きな白い急須を手に持ち、それぞれの碗にお茶を注ぎ始めた。宴のあとの妙な静けさのなか、その注ぐ音だけが、かすかに室内に響きわたった。

 注ぎ終え給仕が部屋から静かに出て行くと、凝然としていたマダムの姿勢が崩れ、膝の上にあった両手をそっとテーブルの上に移した。と同時に、重い口が開かれた。

 

 「ごめんなさいね。せっかくの愉しい食事の後に、深刻な話しをしちゃうけど……」テーブルに置かれたマダムの左手の甲がぼくの目に入る。「まあ、あなたたち、聞いてあげてよ」ママが笑顔でお茶を一口啜った。この空気に酔いが醒めたのだろう、先ほどから才介が、真剣な目つきでマダムを見つめている。マダムは顔をゆっくりと、ぼくと才介に交互に向けてから、話しを始めた。

 「わたしはね、ずっと探している骨董品があるのよ。これから、その話しをするわ……」

 円卓の真上にある豪奢なシャンデリアの光りが、一瞬すうっと暗くなったような気がした。

 

 マダムは北京で生まれる。曽祖父は清王朝末の官僚。祖父は金石(きんせき)学の研究者として名を馳せた人物。その祖父が、当時北京に住んでいた富裕な日本人と結婚をした。つまりマダムの祖母は日本人。1924年にマダムの父が誕生し、曽祖父母とともに一家五人、北京で平和に暮らしていたが、マダムの父が10歳のとき、祖母は実家の事情で帰国を余儀なくされることになる。このとき息子を連れて日本へ帰ることになり、祖父とは離れ離れの生活を送ることになった。それから3年が経ち、ようやく中国へ帰る段取りを始めた矢先の1937年、支那事変が勃発したことで、帰国が否応なく伸ばされることになる。やがて世は大東亜戦争へと突き進み、戦況の悪化にともない祖母たちの帰国はいよいよ困難になっていき、中国に祖父を残したまま終戦を迎えることになった。

 マダムの父は、東京で大学に入り、終戦後も大学で機械工学を学んだ。祖母は家族の反対もあって、戦後も日本に留まることになったが、父は、自分の学んだ技術を祖国で活かしたいとの一途な思いがつのり、1950年、26歳のとき単身で中国へと帰ることになる。その頃中国では、こうした有為な青年を破格な待遇で歓迎し、父も鉄鋼会社で勤め励む充実した毎日を送った。そして帰国の翌年、同じ会社で働く台湾出身のしとやかな女性と結婚した。マダムの母である。翌年二人の間に長女であるマダムの姉が誕生。その三年後の1955年、マダムが次女として生を受けた。その後、曽祖父母は相次いで亡くなったが、祖父を含め家族五人の幸せな暮らしが続いた。祖母の帰りを待ちながらではあったが。

 しかし、国内の気運は急変し、反右派闘争が始まると、やがてそれは、文化大革命へと舵が切られていった。会社の中核となって指揮をしていたマダムの父は、一転して右派分子として「走資派」のレッテルを貼られ、批判闘争大会で吊し上げられ、不遇な扱いをされていったのである。

 

 淡々として進んでいくマダムの話しは、「文革」という言葉の登場とともに、吐く息に異様な力が加わっていった。

 

 「忘れもしない。いや、忘れたくても忘れられない、1966年の12月。わたしは11歳だった。北京では一段と寒さが増したその日、六人の紅衛兵(こうえいへい)が突然家に押し掛けて来た。彼らは、造反有理! 革命無罪!と叫びながら、父を家から引きずり出し、街中で跪(ひざまず)かせ、両腕を後ろに上げさせ、『反動分子、妖怪変化』と書かれたプラカードを首に掛けた。そして、三角帽子を被せると、周囲の人々に向かい雄叫びあげるかのように騒ぎ立てた。父はなすすべなくそれにしたがい、母と祖父が父をかばうように必死に後を追うと、紅衛兵のひとりが二人を何度も蹴飛ばした。わたしと姉は恐ろしさのあまり震えた身体を寄り添うようにして、その光景をただじっと見ていた」

 

 マダムの壮絶な話しは続く。テーブルに置かれた左手はいつの間にか拳になっており、それがかすかに震え出したのがわかった。

 「それから、別の紅衛兵たちが家に入っていくのが見えた。祖父は急いで戻った。母とわたしたちも駆け出した。家に入ろうとしたら、祖父の、やめろ! という怒号が耳に入った。紅衛兵たちは居間に乱入し、そこに飾られていた品々を次から次へ木製の棒で叩き壊した。それらは、曽祖父が清末の官僚時代に、親しい上のひとから譲り受けた骨董品であった。祖父も金石学者だったので、自分の父親の蒐集した骨董品を殊のほか愛(め)で大切にしていた。わたしも毎日のようにその姿に接していた。文革は、旧来の文化遺産をことごとく破壊することをスローガンにしていたから、祖父の愛蔵品も当然その標的となった。祖父は、紅衛兵にすがって、やめてくれ、やめてくれ、と泣き叫んだ。母とわたしたちは、必死の形相で懇願する祖父に抱き着いて、一緒に泣いた。とてもとても怖かった……。紅衛兵たちはわたしたちを振りほどくと、わめきながら壊していった。母は立ち上がるや大声で怒鳴りながら、紅衛兵の赤い腕章を掴んだ。その紅衛兵は勢いよく母を突き飛ばし、棒切れを持ってガラスケースの方へ向かっていった。そこには、祖父が最も大事にしていたモノが飾られていた」

 

 握りしめられたマダムの拳がわなわなと震え出した。

 「それは、色で絵が描かれた小さな盃だった。居間の一番日の当たる場所に飾られていて、いつも綺麗に輝いていて、わたしもお気に入りの品だった。祖父は必死にその紅衛兵の足元にすがりついた。わたしも一緒にすがりついた。しかし紅衛兵は、大股でその前に進むと、手にした棒を振りかざした。――やめろ! という祖父の叫び声と同時に、ガラスケースは大きな音を立てて粉々に砕け散った。そのとき、飛び散ったガラスの破片が私の左手に刺さった。泣き叫んでいたわたしは、痛みなど感じなかったが、血が流れていくのがわかった。跡形もなく壊れたガラスケースのなかのモノは、奇跡的に壊れずに床に転がった。それを見るや否や、祖父は這いつくばってその小さな盃に覆いかぶさった。紅衛兵は、叫声を上げながら祖父の背中を蹴り続けた。母が祖父の背中に被さると、今度は母の背中を何度も蹴った。その音が恐ろしくて、わたしと姉は、やめて、やめて、と大声で泣きわめいていた。

 そのときだった。紅衛兵の後ろから、中年の人民服を着た男が現れ、母の背中を蹴飛ばしている紅衛兵を制した。その男は、こう言った。そのモノは、壊さないから、わたしに預けろ。あとのモノも壊さないので、皆預けろと。悄然としていた祖父は、仕方なくそれに応じ、その男は紅衛兵に命じて、残った骨董品をすべて持ち去ってしまった」

 

 マダムは握った左手の拳をじっと見つめた。親指と人差し指の間に見える細長い傷痕が、生き物のように浮き上がっていくように見えた。

 マダムはそこで一つ間を取るように、お茶に口をつけた。そして、眉根を寄せて目を閉じ、ゆっくりとその続きを語り始めた。話が進むにつれ、マダムを見つめていたぼくの眼は、だんだんと遠ざかっていき、焦点を失ったまま朦朧と彷徨い、最後は目の前に置かれたお茶に仕方なく向けられた。

 

 紅衛兵が乗り込んできた事件の後まもなく、マダムの父は、日本から帰国したことを理由に、日本のスパイという名目で逮捕され、公安の地下監獄にぶち込められ、翌年辺境の地にある労働改造所(労改)に送られ、帰って来なかった。そして、何ということか、マダムの母も、台湾出身というだけで、台湾のスパイ容疑で逮捕された。70を過ぎていた祖父は、そのショックもあり、文革の嵐が吹き荒れる1968年の初春に亡くなった。マダムと姉が農村へ送られようとされたとき、日本にいる祖母の尽力で、祖母の親友の家に保護された。逮捕された家の子供たちの凄惨な状況を目の当たりにすると、まだ自分たちは幸せだと感じたそうだ。しかし、祖父が亡くなった翌年に、地下牢に閉じ込められていたマダムの母が息絶えることとなる。もともと病弱であったマダムの母は、劣悪な地下牢の生活に耐えられなかったのだろう。マダムの父が労改から解放されて戻って来たのは逮捕されて8年目の1975年の秋だった。しかし、労改の荒んだ環境のなかで、50を過ぎた父はかなり衰弱しており、翌年の1976年に帰らぬひととなった。

 

 「文化大革命は、それまでのわたしたちの人生を無茶苦茶にした。父が亡くなったとき、夢も希望も何もかも失ったわたしたちは、自由だけを求めて中国を出ようと心に決めた。海を泳いで命がけで香港へ渡る若者の話しを聞き、わたしたちは、香港へ行く商船に乗り込もうと計画した。それは、上海や天津の港から出ていたが監視が厳しく、一番安全な場所が江蘇省の港であることを知り、わたしたちは汽車に連結された石炭の積まれた車両のなかに身を潜(ひそ)め、一日かけて港に到着すると、何とかその船に乗り込むことに成功した。しかし、船のなかで隠れていた姉が、船員の一人に見つかってしまった。わたしが姉に駆け寄ろうとしたとき、姉の叫び声が聞こえた。――わたしは独りで乗り込みました! 他には誰もいません! と。連れがいるはずだという船員たちが、あたりを探しに回るのがわかると、わたしは木製のコンテナの隅に身を隠した。姉の泣き叫ぶ大きな声と船員たちの足音が次第に遠ざかるにつれ、わたしは『お姉さん、お姉さん』と心のなかで何度も叫び、唇を嚙み締めた」

 

 先ほどの給仕が部屋に再び現れ、卓の中央にある急須にお湯を注ぎ足した。そして少し間を置いてからゆっくりと手に持ち、それぞれの席へついで回った。ぼくはその間じっと下を向いていた。横目に入る才介も、同じように俯いていた。注ぐ音だけが静かに耳に入ってきた。

 

 「空腹に耐えながら、わたしは船が停泊するのを待った。乗り込んで二日目だったろうか。船は香港の港に着いた。わたしはひとの気配に耳をそばだてながら、静かに船を降りると、一目散に駆け出した。どこに行けばよいのか、頭のなかはまっ白だったが、ただひたすらに走った。わたしは疲れていたが、自分の勘だけを頼りに必死になって身体を動かし続けた。やがて小さな町に出た。振り返ると、港が遠くに見えた。わたしは近くの公園に行き、水を手で何度もすくって飲んだ。そのあと再び、わたしは駆け出していた。湿った空気に次から次へと汗が吹き出しているのがわかった。わたしはそれをぬぐうこともせず、歯を食いしばって駆けながら、何か胸が熱くなっていくのを感じていた。――22歳の春だった」

 

 隣の個室から、食事が終了したのであろうか、騒々しい物音が聞こえて来た。椅子を引いて立ち上がり、大きな声を出し合って帰り支度をしている人たちの笑い声が、砂浜に打ち寄せる波のように断続的に聞こえた。

 

 「三日間何も食べていなかったわたしは、いつの間にか倒れていた。気がつくと、そこは柔らかなベッドの上だった。カーテンの掛かった小窓から夕陽が差し込んで、窓辺に飾られていた小さな花が黄色く輝いていた。かすかに揺れるカーテンの花柄模様をぼんやりと見つめていたわたしは、はっとわれに返り慌てて跳ね起きた。そのとき、部屋の扉が開きひとりの中年の女性が入って来るのが見えた。その瞬間、わたしはそれが母のような気がしてならなかった。もちろん母ではないことはわかっていたが、その女性がベッドの側の椅子に腰かけ、優しい笑みでわたしを見つめたとき、わたしは思わず『お母さん』とつぶやいていた。すると、涙が自然と頬を伝い流れた。これまで決して流すまいと思っていた涙を、わたしは止めることができなかった。女性はわたしの背中を温かい手でゆっくりと何度もさすってくれた。その度にわたしは、肩を震わせむせび、涙を流し続けた……」

 

 ぼくの心を激しく揺さぶるような話を、マダムはそれほどの感情の高ぶりをみせずに、まるで台本を読むように語っていった。それゆえ余計に悲しみがつのっていくのを感じていた。ぼくも才介もただ項垂れていたが、おそらくその内容を知っているであろうママだけが、少しだけ顔を上に向けていた。ぼくがそっと顔を上げたとき、うるんでいたママの瞳から一筋の涙が頬を伝って流れていくのが見えた。

 

 「その女性は、わたしの母になってくれた。そして名前を授かり、わたしはその家で、新たな香港での生活を始めることになった。衣食住、何の不自由もなかったが、わたしの心は晴れなかった。来る日も来る日も、中国での出来事が頭から離れなかったからだ。紅衛兵がやってきた日のこと、祖父の死、父の逮捕、母の逮捕、そして、母の死、父の死、それから、何といっても姉のこと……。わたしは、毎日、尖沙咀(チムサーチョイ)からヴィクトリア湾まで行くと、東に向かって歩いた。この先には、わたしが着いた九龍(カオルーン)の港があるのだと思うと、無性に姉に会いたくなったのだ。でも、最後は虚しく帰途に着いた。

 そんな日々のなか、いつものようにヴィクトリア湾を望む舗道に佇んでいると、いきなり後ろから声を掛けられた。振り返ると、わたしと同い年くらいの女性が立っていた。彼女は、わたしに大声で『笑いなよ!』と言って満面の笑みを浮かべた。わたしはびっくりして、彼女の顔を見つめた。だた、その屈託のない笑い顔を見たとき、わたしの胸に何かが突き刺さった。わたしは久しぶりに、本物の笑顔というものを見た思いがしたからだ。すると、わたしの目から熱いものが次から次へと溢れ出した。香港に着いた日から、どんなに辛いことがあっても、もう二度と人前では泣かないと心に誓ったわたしだったが、彼女の天真爛漫なその笑顔を見て、これこそが、わたしの失っていた、そして最も大切なものだということに気づかされると、わたしは彼女に抱きついて大声をあげて泣き続けた。わーん、わーんと、本当に、久しぶりに、子どものように泣いたのだった」

 声がかすかに震え、それを押し殺すように大きく息を飲み込んでから、マダムは言った。「わたしは、ナツコの笑顔に救われた」

 ぼくの正面に見えるママの大きな眼(まなこ)から大粒の涙が溢れ、それが、ぽたぽたと、次々に卓の上に落下した。うつむいて左手で涙をぬぐっている才介の姿が横目に入った。ぼくも鼻をすすり涙をこぼしていた。

 

 「それからナツコとわたしは親友になった。わたしの過去も、ナツコの台湾での過去も、一緒にいると不思議なくらい、淡く朧なものになっていくような気がした。わたしは、父から教わった日本語を、ナツコも両親から学んだ日本語を使って、わたしたちは、上流階級の日本人が交流する俱楽部のような場所で働き始めた。その仕事はとても楽しかった。そしてお互い25の時に、ナツコは大手企業の重役と結婚し、わたしは日本のIT企業の支社で勤めることになった。29歳のとき、わたしは今の主人と出会った。彼は、その会社に派遣で来ていた有能な人物だった。わたしは彼に父の面影をみた。そして話しをしてみて驚いた。何と彼は、東京で父が通っていた大学の卒業生だったのだ。わたしは縁を感じた。そして、30歳のとき、わたしたちは結ばれ、東京で生活を始めることになった。ナツコも同じ年に、ご主人の転勤で東京に住むことになり、わたしたちは大いに喜び合った。その後二人とも日本に帰化し、それからお互いを日本名で呼び合うようになった」

 

 さっきまでボロボロと涙を流していたママが「そうだったねぇ」と笑みをみせ話し始めた。「あたしは、夫と齢(とし)、離れてたから、早くに死んじゃったけど、そんなときでも、リョウコが側にいてくれたから心強かった。あたしも、リョウコの芯の強い優しさに何度も助けられたよ」「お互いにね」ようやくマダムが笑みをつくる。そしてお茶を一口啜ると、話しの続きを始めた。

 

 「わたしは、今は本当に幸せ。でもいくら幸せになっても、消えない傷はある」そう言って、左手の甲を見つめた。

 「わたしは、この傷痕を見るたびに思い出す。姉のことを。そして、祖父の骨董品が壊されていった悪夢のような日のことを」マダムは大きく深呼吸をした。

 「わたしは、いつの日からか、祖父の大事にしていたあの品が、紅衛兵の上役が持ち去ったあの品が、ひょっとしたらまだどこかにあるのではないかと思うようになった。そして、それが何か姉と繋がっているような気がしてならなくなった……。だからわたしは、どうしてもそれを見つけたくなったの。今、わたしは裕福になって、近年の中国バブルもあって、骨董品の値段も高騰してきて、多くのモノが市場(マーケット)に出て来るようになった。わたしはチャンスが到来しているような、そんな気持ちになっているのよ。――だから、わたしは、世界中で行われているオークションに注目している。ナツコもそれを願って、この仕事を始めた。わたしは、そのモノに、何となく出会えるように思っているの」

 

 マダムのその熱い言葉を受けて、才介が大きくうなずくのが見えた。ぼくも同じような気分になっていた。

 「それは、どういうものですか?」ぼくはマダムを見据えて訊いてみた。マダムな優しいまなざしをつくり、「それはねえ、そう、今日のオークションでとても高く売れた杯があったでしょ?」「成化の豆彩の杯ですか?」「そう。あれは寸法の小さいものだったけど、もっと足が長くて背が高くて、このくらいの」と言ってマダムは右手の親指と中指でそのサイズを示した。高さ10センチくらいだろうか。

 「その杯の部分に、豆彩で花の絵が描かれていて、赤、黄、青花とか、足が長くて、祖父はよく、”馬上杯”(ばじょうはい)って言ったわ」

 ぼくは一瞬唾を呑み込んだ。「……成化の馬上杯ですか?」「いいえ、成化ではない。ワンリー(万暦)の銘が入っていた。万暦豆彩の馬上杯。祖父が、これは世に一点しかないものだとよく言っていたわ。だから、最も大事にしていた……」

 ――万暦の豆彩の馬上杯

と聞いて、ぼくはそれが、Saeのところにあるものではないかと思った。

 先日見た……、E氏も「世界に唯一点のもの」と言っていた……、それを見たとき何故か意識が遠のいていくように感じた……、あの色絵の馬上杯ではないか――。

 

 「ひょっとして、それは……」ぼくはそう言って一瞬口をつぐんだが、思い切って言葉にした。「日本にあるモノかもしれません……」それを聞いたマダムは、挑(いど)むような眼をして、ぼくの顔に焦点を当てた。見開いた目のなかの瞳が揺れ動いている。

 「あなた……、もしかして……し、知っているの……?」

 マダムに見つめられたぼくは、まるで術をかけられたかのように固まっていた。ママも才介も、驚きのまなざしでこちらを見つめている。

 

 「…………たぶん」ようやく口から出たぼくの言葉に、マダムが両手をテーブルに思い切りついて立ち上がった。そのとき、ぼくの目にその左手甲の傷痕が入った。

 それは、今まで以上にはっきりとした形状を成していた。

 

(第28話につづく 12月9日更新予定です)

 



 

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