骨董商Kの放浪(28)

 「本当に……日本にあるの?」マダムは身を乗り出すと、顔を震わせそう尋ねた。

 その眼力(めぢから)に一瞬怯(ひる)むと同時に、ぼくはそのまま口を閉ざしてしまった。マダムの魂の込められた話しの流れに乗せられ、ふとそう発したが、まだはっきりした答えができないことに改めて気づいたからである。

 Saeのところで見たあの馬上杯が、確実にマダムの祖父のモノという証拠など、まだどこにもないのだ。

 ぼくは改めて言い直した。

「すみません。まだ、そうと決まったわけではなく……、もしや、あれかも、と思っただけで……」

 それを聞きマダムは、やや落胆した様子をみせ「はあ」と小さなため息を吐くと、再び椅子に腰かけた。そして、お茶を一口含んでから、気を取り直したように再びぼくに顔を向けた。

「じゃあ、それは、あなたの知っているひとが持っているのね?」

 ぼくは答える。――はい。

「その方は、コレクター?」――はい。

「東京に住んでるの?」――はい。

 ぼくは尋問に答えるかのような調子で「はい」を繰り返した。

 それを受け、マダムは黙ったまま何度か小さくうなずくと、少し安堵した表情を浮かべ、「わかったわ」と言った。

 

  「確かめてみます。すぐに訊けるので」

 ぼくは冷めたお茶を一息に飲み干すと、熱い視線で応えた。

 その言葉に、マダムは目を閉じ両手をテーブルの上に揃え、「どうぞ、お願いします」と言って深く頭を下げた。それを見ていたママが笑みを満面にあらわし、パン、パン、パンと、三度手を大きく叩いた。

「よかったじゃない! リョウコ。ひょっとして、それだったら、あなた!」

「うん!」マダムも元気よく返す。

 そして、上気させた顔をぼくに向け、「もし、それが祖父のモノだったら、その持ち主の方に、是非頼みがあるの――」と言った。

 

 その後まもなくしてレストランをあとにした。ぼくと才介が繁華街を中環の駅に向かって歩いていると、後ろから呼ぶ声がした。振り返るとママが立っている。どうやらぼくたちの後をつけてきたようだ。

「ねえ、あなたたち。もう少し飲んでいかない? どう?」

「はい」ぼくらは同時に声を出していた。

 

 そこは時代がかった小さな店で、ぼくらはカウンターに腰かけた。ママがメニューを見ながら甘そうなカクテルを三つ注文した。

「びっくりしたでしょ? リョウコの話し」ぼくらは無言でうなずく。

「あたしも、びっくりした。もちろん、知ってたよ。でも、あそこまで、あなたたちに話すとは思わなかった……」

「……」

「たぶんリョウコは、あなたたちのような若いひとに聞いてもらいたくて、全部話したんだと思う。こんな悲惨な出来事が、実際あったんだってことを」

 やがてカクテルが目の前に置かれた。ぼくらはそれに口をつけながら、ママの話しに耳を傾ける。それは、先ほどの話しを補足するものであった。

 夫の死からちょうど10年が経ち息子も大学四年生になり、ようやく生活も落ち着いたママと、ご主人の仕事が軌道に乗って、経済的にも時間的にも余裕の生まれたマダムは、今まで以上に頻繁に連絡を取り合い、そして年4回香港で会っていっそう交友を深めている。また、子宝に恵まれなかったマダムは、今東京に住んでいるママの息子を、実の子供のように可愛がっているようだ。

「マダム、お子さんいらっしゃらないんですね」

「うん。だからねぇ、息子が12歳のときに、パパ死んじゃったけど。それから、ずっと面倒みてくれてて。だから、今、息子、大学生で独り暮らししてるけど、リョウコが側にいるからあたし、安心だよ」

「そうだったんですか」

「二人とも今年でちょうど50歳。だから、あとは、リョウコのお姉さんのこと、ね」

 ここ何年か、中国の知り合いを通じて八方手を尽くして調べているが、お姉さんの消息は依然不明のまま。

「だから、その頼みの綱が、万暦豆彩の馬上杯ってこと……」

 ママはグラスの細い柄の部分を指でつまみながら、カクテルを口に運んだ。

 才介はぼくの方に目を向けると、

「おまえが言ってた馬上杯って、ひょっとしてフレンチの屋敷にあるやつか?」と訊いた。

「世に二つとないモノと言われると、あれじゃないかと思ったんだ……」

ぼくはテーブルに目を落として答えた。「あとで、Saeに電話して訊いてみるよ」

 ママが笑いながら「わたしも、この仕事してるけど、モノのことはよくわかってないからね」と言ったあと、

「でも、オクション会社のひととか、たくさん中国陶磁買っているひとに聞いて回ってるけど、これまで、全然ないね」

才介がそれを受け「おれも、そこまで詳しくはないけど……本とかでも見たことないもんな、万暦豆彩の馬上杯って。やっぱり、そのフレンチのやつじゃないのかな」とぼくをみつめる。

「うん……」

 ぼくは目の前のカクテルを定期的に口に運びながらうなずくと、その手を止めた。マダムの言葉を、ふと思い出したからである。

「さっき……持ち主に、頼みがあるって、マダム言ってたけど、何だろう?」ママに訊く。

「わたしも、聞いたこと、ないねえ……。何かいい方法でも、あるんじゃない? ご主人とかに、相談してるから。今度訊いてみようか?」

「まあ、先ずは、Saeのところのモノなのか、確認します」

「そうだね。わかった。あなた、頼むよ」ママの唇が大きく動いた。

 それからしばらく三人で話しをしたが、何となく、陽気な雰囲気にはならず。席を立とうとしたぼくらに、ママが確認する。

「あなたたち、明日、何時の便?」――午後2時15分です。

「じゃあ、明日午前中は、いるね?」――はい。

「そうしたら、空港まで送ってあげるから、朝、あたしの店に寄りな」――わかりました。

 ――思わぬ展開となった香港の最終夜、ぼくの頭は、相当混乱していた。

 

 部屋に帰ると11時近くになっていた。時差が1時間あるから、日本は午前0時近い。ちょっと遅いかなと思ったが、とにかく、ぼくはSaeに電話をした。

 ほどなくしてSaeが出る。ぼくは、ここでマダムの一件を話すのもと思い、簡潔に「万暦豆彩馬上杯」の由来について訊いた。

 どのようにしてSaeの家のコレクションに入ったのか――その来歴について尋ねると、Saeは「わかった。パパに訊いてみるわ」と答えた。そして、少し雑談をして電話を切った。

「どうだった?」トランクに服を詰める手をいったん止め、才介が訊く。

「調べてみるって」「そうか……、そのモノだといいけどな」「そうだな……」

 今晩のマダムの話しがよほど堪えたのか、ぼくらは口数少なくそれぞれの帰り支度を続けた。

 

 翌日、チャックアウトを済ませると、荷物をホテルに預け、ぼくらはハリウッド・ロードへ向かった。

 滞在中香港は雨もなく快適な気候――と言はいっても、この独特の湿気である。上環(ションワン)の駅から坂道を20分上ると、汗が身体中にへばり付いて離れない。ママの店に入り、強烈に効いたエアコンの冷風を浴びると、あっという間に汗が引けていった、と思ったら、今度は急に寒気を覚える。

「しかし、ママ。どこいっても、クーラー効き過ぎでしょ」才介が腕をさする。

 確かにぼくもそう思う。長い間室内にいると、身体の芯まで冷え切ってしまうのだ。特にレストランとかは。

 「香港はねぇ、冷房だけだからね。そうそう、今年の二月、異常気象で寒波きたとき、2度とか3度とかになって、初めてよ、こんなに寒いの。老人、何人も死んだよ。ハハ」

「いやいや、笑い事ではないでしょ!」

「だからねぇ、真冬、暖房入れるところ増えたよぉ。でもそれ以外は、だいたい冷房かけてるね」

 そう言うとママは、はたと思い出したように立ち上がると、

「そうだ。あなたたちに見せたいモノ、あったんだ」と言って引き出しから小さな物体をつまんで持ってきた。

「あなた、ちょっと、手、出して」ママはそれをぼくの掌の上に置いた。

「なんすか、これ?」才介が覗き込む。ぼくも顔を近づける。ガラスのようだ。

「ガラスですか?」

「そう。中国の古代のガラス――」

 それは、径が2~3センチほどの球形のガラス玉だった。全体が群青色をしていて、黄と青と白の練りガラスによる円形文様が、飴細工のようにいくつも表面に施され、紐のようなものを通すのか、芯がくり抜かれた造りになっている。

「綺麗でしょぉ、ほら」と言って、ママはぼくの掌からガラス玉をつまみ上げると、陽の当たるところにかざした。

 なかの群青色が光を通して、澄んだ輝やきをみせている。

「このぐるぐるした白と青の部分、トンボの目に喩えて、トンボ玉っていうの知ってる? 日本人から教わったよ」

「トンボ玉って言うんですか? たしかに、目みたいですね」

 才介が顔を近づける。ぼくもしげしげと見る。色のコントラストが冴えている。

「へえー、綺麗なモノですね」

「どう?あなた、これ、買わない? 安くするよ」ママは再びぼくの掌にガラスをのせた。

「……しかし、お金がないですよ」

  ぼくは150万のうち、定窯碗130万とママのところで黒釉の碗を13万で買っているので、残りは僅か7万円になっていた。

「安いよ。2万円でいいよ」

「えっ? そんなに安いんですか?」

「うん。お土産に買っていったら。あっ、そうだ! 彼女のプレゼントにすればいいじゃない」

 ママは、妙案を思いついたというしたり顔をぼくに向けた。ぼくは一瞬たじろぐ。

「彼女なんて……」と言ったところで、才介が厭味な笑みをみせ、

「ひっ、ひっ、どっちの方にあげるんだい?」と茶々を入れた。

 それを聞いたママが目を剥いて、「何、あなた、ふたりもいるの?」と嬉しそうに身を乗り出してきた。

「ちょっと、待ってよ。いるわけないでしょ!」と言いながら、ぼくは一瞬考える。

 すると才介が「まあ、そりゃあ、フレンチの方だろう。なあ、K?」

 ――たしかに。今回は、そうだろう。

「うん……」ぼくがうなずくと、「当然だろ! 姉御ってわけにはいかねえわな。アッハハ!」才介が高笑いする。

 姐御って……。そうかあ。才介は、まだReiの存在を認識してないんだ。なるほど――。まあ、それがどうこうというわけではないが、才介のずれた発想がおかしくて含み笑いをしていると、ママが、

「よーし! そうなったら、きちんとしないとねぇ!」と急にはりきり出し、奥の棚をごそごそかき回すと、白い小さなボックスのようなものを取り出してきた。

 「これに入れたらいいよ、そのガラス」

 それは、パカっと口の開く指輪用の箱だった。

 ぼくがそれを見るなり、「やめてくださいよ! そういう仰々しいことは、やめましょうよ!」と力んだ声を出すと、才介が手を叩いて大いにはしゃいだ。

 「それが、いい! 絶対、そうしろ、K!」

 それを見てママが、「そうだよぉ、骨董品ってのはね、こういう体裁も大事だからねぇ」と妙に核心を突いたコメントを放つ。

「ママ、わかってますねえ。いわゆる、はったりってやつですね」にやつく才介に「それ、重要」とママが即座に指をさす。

「ちょっと、待ってくださいよ。それって、贋物売るときの方策でしょ?」それに対し、

「そんなことないよ」と二人はきれいにハモった。

 

 ぼくが財布から2万円を出すと、「あっ! そういえば、どうだった? 馬上杯?」ママの真剣なまなざしに、ぼくは昨夜の電話の内容を伝えた。

「そうか。返事待ちってことね。リョウコに言っておく」

「うん。帰ったらすぐに行ってみるよ」

「それが、彼女のところか。ハハハ」ママの笑い声に、横から才介が

「そういうことっす」と顔を突き出した。

「それじゃあ、だいじじゃない。このガラス玉」

 祈るように箱に額をつけるママを見て、

「それは、あまり関係ないかと」ぼくが笑うと、「だってぇ、リョウコの人生かかってるんだから」

「そうだ、K!おまえはかなり大事な役回りだぞ」

 たしかに。Saeのところにあるモノがマダムの祖父の旧蔵品だとしたら、マダムは持ち主にお願いしたいことがあると言っていた。その内容までは知らないが、ファーザーに取り次ぐ橋渡しとして、ぼくは重責を担っているかもしれなく。

「だからねぇ、ちゃんと、しないとねぇ」と笑みを浮かべながら、ママはデパートか何かの洒落た水色の包装紙を取り出して軽快に包み始めると、最後にピンクのリボンを巧みに掛けた。それを見てぼくが

「ちょっと、ママ、やり過ぎですよ」と言うと、

「何たって、リョウコの人生がかかってるんだからねぇ」

そして、「はい」と言ってぼくに手渡す。

 その大きな蝶結びをじっとみつめて、「了解しました」とぼくは答えた。

 

 ママとのやりとりが終わると、才介が手鞄を持ち上げ、「おい、まだ時間があるから、もう一仕入れしようぜ」とママの店を出た。まだ少し持ち金が残っている才介は積極果敢だ。ぼくらは、キャット・ストリートへ。

 まだ午前10時を過ぎたところだが、大体の店が開いている。そこで、才介は最後の仕入れをしたあと、階段を駆け上がりハリウッド・ロードへ向かった。

「おいっ、まだ仕入れるのかよ?」

 二、三歩後ろから声を投げると、才介が口元を緩めながら振り返った。

「おい、最後にLioちゃんの店に行ってみようぜ」

「なるほど」

「昨日のお礼を言わなくちゃ」と言って足早に向かう才介の腕をつかんで引き戻す。

「ちょっと、待てよ。そんなことしたら、あれ、おれたちが出品したことばれちゃうじゃん」

 才介はぼくの顔を見つめ「あっ、そうか」と頭に手を当てた。

 そこでぼくは考える。「でも……別にわかっても、支障はないか……」

 そう思いながら、

「いや、そういうことは、あまり伝えない方がいいかもな」と結論づけると、「そうだな」と才介は相槌をうった。

 

 Lioの店の扉は開かなかった。

「まだ来てないんだな」「残念だけど、帰るか」

 ぼくらが文武廟の方向にハリウッド・ロードを歩いていると、向こうから長身の若い女性が歩いてくるのが見えた。

「あっ、あれ、Lioちゃん、じゃない?」才介の声にぼくも目を細めて確かめる。

「そうだ、Lioちゃんだ」目に映えるライトグリーンのワンピースにウエーブのかかった長い髪がだんだんと近づいてくる。向こうもこちらに気がついたのか、笑顔になって手を振ってきた。

 「ハロー」と言うLioに、ぼくが今店を訪ねたことを知らせると、彼女は「ソーリー」と手を合わせた。そして一緒に歩き出す。ぼくらは再びLioの店の前に立ち、今度はなかへ入った。

 Lioが冷房のスイッチをオンにし奥へと下がると、ぼくらは店内の飾りを見回した。一昨日とほぼ変わっていなかったが、1点だけ新しい品が並んでいるのに気がついた。

 ぼくは近づいてそれをじっと見つめた。

 漢時代の副葬用のやきものだろう。

 低く小さい四つ脚の付いた深い受け底をした炉のような長方形の容器の上に、3センチほどのやや厚みのある楕円形状の物体が5つ串に刺されたような状態で二つ並んでいて、両端に半円形の提げ手が付いている。この手の部分と、串刺し状の部分には緑釉が、炉のような容器には褐釉が掛けられている。

 緑と褐の二色の釉が併用されている例は、紀元前後の頃に見られるが、数の少ないモノ。幅が20センチ、高さが10センチくらいの大きさ。

「変わったもんだなあ」と才介も一緒に見つめ「漢くらいかね?」と訊く。

「おそらく」ぼくが答えると、Lioが近寄ってきた。

ぼくが何かと訊くと、「シケイダス」と答えた。

「シケイダス?」「何? シケイダスって」

 才介がぼくの顔を覗く。ぼくは首をひねってその単語を思い出そうとするが、出て来ない。その様子を見たLioは、いったん奥へと引っ込むとメモ用紙とペンを持ってきて、漢字を書いて見せた。

 そこには「蝉」とある。

「あっ、そうだ。蝉だ」合点がいくぼくに、「せ、蝉?」と才介は目を丸くする。

 器の上に五個ずつ並んだ緑釉の掛かったモノの正体は蝉であった。たしかに釉の下にかすかに見える線刻が蝉の姿をあらわしている。

「これが、蝉?」才介は指さしながら、

「何か、幼虫っぽいな……」「たしかに」ぼくは反応。

「しかし、何で蝉が並んでるんだろう?」ぼくが尋ねると、Lioは「バーベキュウー」と言った。ぼくらは顔を見つめ合い「蝉のバーベキュウー!」と驚く。その様子を見て、Lioが笑みを湛え「Yes」とうなずいた。

「えっ、えっ、でも、どういうこと?」

 悩むぼくらにLioは、中国では古来より蝉を食べる習慣があり、それは現在もそうだということを平然と説明した。

 そしてメモに「浙江省」と書いて見せる。どうやらここが名産らしい。

 それを聞き「……マジ、か……」と渋面でつぶやき合うぼくらの姿を見て、Lioは不思議そうな顔をして首を傾けた。

 

 ぼくは再びモノに目を移した。

 たしかに、これは、深い受け底に炭などの燃料を入れて、上に渡した串に蝉を置いて焼く、いわば方形の七輪だ。側面には空気穴があらわされている。

 漢時代の副葬品は、日常生活の一コマを題材にした作品が多いので、これもそうしたモノだろう。漢代らしい風情を備えている。蝉を食するという問題はさておき、作品的にはなかなかの出来栄えと思い、ぼくは手にして細部を確認した。大きな損傷はないようだ。

 「買うの?」と訊く才介に、ぼくは「いや」と答えて、もとに戻そうとしたその瞬間、頭のなかに総長の顔が浮かんだ。

 ――そうだ。この、いかにも当時の生活感溢れるユニークさは、まさに総長好みだ。ぼくは、これを見たときの総長の、モノに吸い込まれていくようなあどけない笑顔を想像した。ぼくの大好きな顔である。そうしたら、どうしてもこのモノが欲しくなってしまった。

「How much?」と訊くとLioが、ベストで10,000ドルと答える。

「15万かあ」ぼくの残金は5万円。……足りない。才介に顔を向けると、

「いや、いや、いや」と顔と右手を何度も横に振っている。才介もさっきの仕入れで、ほぼ予算を使い果たしたようだ。

 どうしよう……。香港ドルも僅かだし。ママに借りようか……。

 ぼくが額を手で擦っていると、Lioが名刺を差し出した。見ると名刺ではなく、そこには振込先の銀行名が記されてある。そして、送金は帰国してからでよいので先にモノは渡す、と言ってくれた。ぼくは感謝のまなざしで彼女を見つめた。

 「That`s very kind of  you」Lioは「No problem」とクールな笑みで応えると、すぐにパッキングに取りかかった。

 

 Lioから買った荷物を手にしてママの店に戻ると、

「何? あなた、お金あったの?」と驚きの表情。僕が事情を話すと、

「あなた、ラッキーじゃない。他の店だったら、絶対無理よ。お金払う前にモノ渡してくれるなんて」

「ママ、僕らはLioちゃんに、信頼されてるんですよ」と才介がにたつく。

「なあ、K?」それに対し僕は「まあ」と少し考えてから、「そういうことにしときましょう」と結をとると、ママが目を細め、

「何かあやしいねぇ。あなたたち、あの娘に何かした、でしょ?」

「いや、いや、そんなことするわけないでしょ」

「ほんとぉ?」ママの訝し気な目を見て、才介がにやりとしながら軽く手を合わせた。

「いや、ちょっと待て。直接的には何もしないけど。間接的には…、したな?」さっと顔を僕に向ける。

「うん。たしかに、した、した。ただし、彼女は気づいてないけど」僕もにやにや笑いながら答える。するとママは、少し離れた丸い目を線のように細め眉間を寄せた。その顔が面白く僕らが爆笑していると、急に真顔になり、

「行くよ!」と一声。「わかりました!」僕らはママの車へ向かった。

 

 車は途中でホテルに寄り、僕らの大荷物を積んで空港へと向かう。出発ロビーに到着すると、ママが「今度は荷物、大丈夫でしょ?」「大丈夫!ちゃんとチェックイン・カウンターで確認したから」僕が笑ってそう答えると、ママはグーポーズを取って微笑んだ。

 ゲート前まで送りに来てくれたママに、僕らは「ママ、いろいろとありがとう」と言って、交互に握手を交わした。「あたしも、息子に会いに時々日本いくよ。連絡する」「絶対ですよ!」「それと、あなた、お願いね」と僕を指さした。「わかってます。馬上杯の件、すぐに知らせますから」「うん。わたしもねぇ、人脈使って情報探るからね」「ママの人脈、半端ないから」「ハハハ。気をつけて帰りな!」「はーい!」「バイバーイ!」ママの屈託のない笑みを背にして、僕らは帰路についた。

 

 機内での食事が終わると、才介はすぐに眠ってしまった。僕は独り窓から青い空を眺めながら、何と中身の詰まった三泊四日だったろうと、この出張を振り返っていた。

 初日は、到着するや持ち金全部取られ、いきなりどん底に突き落とされたが、ママの励ましやSaeの手助けで何とか乗り切り、二日目は、三代目のおかげで良い仕入れができ、三日目は、E氏の計らいで中国陶磁市場のスケールの大きさを肌で感じられ、そして何といっても、あの筆筒が爆発的な値段で売れて、その夜は、マダムの壮絶な話しを聴き、そして毎晩美味しい料理をいただいて、今日はLioの親切で面白いモノが買えて。考えてみれば、助けられてばかりだな、と僕はしみじみと感じていた。隣を見ると、才介が椅子からこぼれ落ちそうな恰好で寝ている。「まあ、こいつにも、助けられたな」僕は感謝の笑みを向ける。

 それに対し、これから僕が出来ることはどんなことだろうか、と考えていた。それは、僕が仕入れたモノを、それを喜んでくれるひとにおさめること。これが僕のやるべきことだ。この出張で、僕は気に入ったモノを何点か仕入れることができた。今度はこれを売るのだ。以前、宋丸さんに売った高麗青磁の小皿は、ネエさんの勧めで入手したものであり、Saeが買った色絵の皿は、犬山からただでもらったモノであった。Saeから借りた金を使った形になってはいるが、今度は自分の眼で手に入れたモノである。それを売ることは、すなわち僕にとっての初めての商売ということになり、本当の意味で、骨董商としての第一歩を踏み出すことになるのだ。

 そしてもう一つ、マダムの件である。乗り掛かった舟ではないが、あの話を聴いた以上、自分が役に立つことができるのなら尽力しようと、強く胸に誓った。ママとマダムのために。

 

 東京に到着すると、もうすでに暗くなっていた。到着ロビーを出たところで才介と別れ、ぼくはバスに乗るため、おもてに出た。

 初冬の冷気が首元をかすめる。ぼくは、香港との気温差を感じながら、両手を上着のポケットに突っ込み、肩をすくめるようにしてターミナルへと向かった。何台もの大型バスが連なる広い歩道を歩いていると、今しがた帰国をしたのだろう、これから家路へ向かう若者の集団とすれ違った。大学生だろうか。5、6人の男女が笑いながら賑やかにはしゃいでいる。ぼくの目は自然と彼らに注がれていた。

 すると向こうの方から、「ちょっと、待ってぇー!」と大きな声が聞こえてきた。そちらに目を向けると、「待ってよー!」と声を張り上げ駆け出して来る若い女性の姿が映った。おそらく同じグループの大学生だろう。彼女は、何の屈託もない笑顔で何度も手をふり、左右に身体を揺さぶりながら飛ぶように走っている。そして、その一団に追いつくや奇声を上げると、皆と一緒になって、今度はゆっくりと歩き出した。ぼくはしばらく、彼らの後姿をみつめていた。そして、また前を向き歩き出したそのときであった。走っている若い女性の姿とオーバーラップするように、ぼくの脳裏にある映像が、鮮明に映し出されたのである。

 

 ――それは、生死をかけて香港に辿り着くや否や、噴き出す汗を拭うこともせずに、必死の形相で駆けている、22歳のマダムの姿であった。

 

(第29話につづく 12月19日更新予定です)

緑褐釉蝉炉 漢時代(1世紀)

ガラス玉 戦国時代(紀元前3世紀頃)





 

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