幅3メートルはある三代目の店の床の間とは違って、約1メートルの床に飾られている青手の大皿を、宋丸さんは先ほどから5分以上みつめたままだった。腕を組み少しだけ身体をよじりソファに背をもたせかけ顎を引いている。上縁だけが黒い眼鏡は微塵も動かず、口元もなんら揺るぎがない。置かれたお茶に手を出すこともなく、まったく同じ姿勢のままで、品物と対峙している。鋭い眼光は眼鏡の奥に隠れ横からでは確認できないが、眉間の皺は動くことはなく、ただ平然とみつめているのだ。しかし、その緊迫した空気感は怖しいほどで、むやみに言葉を発せられない状況だ。Reiも息を殺しているかのようにずっと後ろに立ったままである。かすかに聞こえる古い置時計の秒針の刻む音だけが、現実なものとして耳に入った。
さらに1分ほどしてからだろうか、宋丸さんが蘇生したかのように突如動いた。「かあぁーっ!」と叫ぶと思い切り両手を上に伸ばし身体をそらしたのである。その声にぼくはびくっとしてソファから跳ね上がった。宋丸さんは、さっとぼくに視線を投げた。「おいっ、これは、どこから手に入れたんだよ」
これは、ぼくが何か珍しいモノや手の良いモノを持ってきたときに、宋丸さんが必ずする質問だった。今日この皿をここに持ってきたときに、間違いなく訊かれるであろうこの尋問のような問いかけに対し、用意しておいた台詞を述べた。「実は、友人の親戚の……本庄という、埼玉県にあるんですが、そこの蔵のなかにあったものでして。そこは中山道にある宿場町として栄えたところで、加賀藩の通る道筋になっていて、この皿も前田藩のお姫様が泊る家に代々伝わったと聞いています」ここでやっと宋丸さんは目の前のお茶に手を伸ばし、スローモーションのような動きでお茶を口に運んだ。一口飲むと、かたっと茶托に置く。「なるほど、本庄か……。たしかにあそこは、前田藩の参勤交代の重要なルートだ。あながちあり得ない話じゃない」「ただ、そこにあった他のモノは、たいはんが江戸後期の伊万里の食器ばかりで」ぼくもお茶に手をつけた。「これだけなんです。そこにあったのは」ぼくは飾られている大皿に手を差し向けた。「でも、真っ二つに割れていたんです。それをこの間修理して、そうしたら、見違えるようになりまして」宋丸さんが背もたれから前屈みになって皿を注視した。「おい、割れてんのかよ」「はい。中央が真っ二つに」「ほおおぉ。わからんなあ。本当に割れてんのかあ?」ぼくは立ち上がり皿の側でしゃがむと、割れている箇所に指を沿わすように素早く動かした。「ここが、こう、すぱっと」宋丸さんが更に身体を傾けたので、お持ちしましょうか? と訊くと、いや、いいと言って、茶碗を手にしたまま再び背もたれに身を沈めた。「最近の修理は、ずいぶんとうまくやるなあ」「名人と呼ばれるひとがいるんですよ」彼の実直な態度を頭に浮かべながら、ぼくは少し自慢げに答えた。「もともとは綺麗に割れてるだけで、欠損箇所はなかったみたいです。一見すると無傷にみえますよ」その言葉が耳に届いているのかいないのか、宋丸さんは無言でただじっと皿に目を凝らしていた。
やがて宋丸さんの口元がふっと和らいだ。「キズがあろうが、なかろうが、こりゃあ、名品だ。なんてこったい」宋丸さんの笑顔がぼくに注がれる。「おい、おにいちゃん、そう思わないか?」「はあ、ありがとうございます」ぼくは素直に頭を下げた。「やっぱり、さすが前田藩だな」宋丸さんはそう言うと、後ろに立っているReiに首をよじり、「お嬢さん、渋いやつ、頂戴」と唐津風の筒茶碗を掲げた。Reiが、はいと言って茶碗を取って奥に下がる。それを見計らってか、宋丸さんがぼくに顔を近づけた。「きみ、これは、いくらって言うんだい?」特に小声でもないので、宋丸さんの野太い声は狭い部屋に筒抜けであった。しかし、ぼくも顔を近づけるようにして、強い口調ではっきりと答えた。「実は、これは、今度の骨董フェアで売るメインの品物なので、宋丸さんには売れないんです」
先だっての車のなかで、才介は、宋丸さんに値付けをしてもらってもよいが、獲られないように気をつけろと忠告をした。半ば冗談とはいえぼくはそれを念頭に置いていた。ずるずるいくと老商の思うつぼにはまってしまうので、最初からきっぱりと断ろうと思いそう答えたのだ。「なんだい、売りに来たんじゃなかったのか?」「はい」とぼくは背筋を伸ばした。「骨董フェアの目玉商品ですから、お客さまに売りたいと思ってます」「ほおぉ、そうかい。そりゃあ、そうしたらいい」「はい。だから、宋丸さんに、値付けをしてもらいに、今日はきたんです」「値付け?」はっ、はっ、はっ、と笑う宋丸さんの前に、Reiがお茶を置いた。「これの、値段かい?」宋丸さんが茶碗に手をかける。「はい。以前、天啓赤絵の虎の絵の皿を200万と値決めをしてもらい、ぼくはその値段で売りました。それが、ふさわしい値段だと言われたので。みんなから高過ぎると笑われましたが、その値に従いました。今回この名品を売るにあたって、いったいいくらにしようかと迷ったので、この際宋丸さんの付けた値段にしたがって値札をつくろうという結論に達しました。よろしく願いいたします」ぴんと伸ばした背中を深く折り曲げた。
宋丸さんは、再び上半身を斜めによじり、遠目でみるような恰好で青手をみつめた。そして、手にした茶碗をゆっくりと一口ごくりと飲み込んだ。「かあぁーっ」Reiの淹れたお茶が相当渋かったせいではなかろう。宋丸さんは口端を緩めながら顔をしかめると、腕を組んで皿に目を向けた。「この青手の良さは、どこにあると思うよ?」いきなり核心をついた質問が投げかけられる。ぼくは眉間に皺を寄せしかめるような顔つきで大皿を睨んだ。様々な箇所が頭に浮かんだが、一番心を打たれたところを素直に口にした。「文様の大胆さだと思います。特に、鳥の翼――」ぱっと見強烈なインパクトを与えているのが、見込み中央に描かれている二羽の鳥の異様ともいえる大きな翼の形だった。「この翼の極端に広がっているところが、なんか惹きつけられます」それを聞いて宋丸さんは軽い笑みを浮かべ「そうかい」と言って片方の手を顎の下にあて、幾度かさすりながら、眼鏡の奥の眼を細めるようにしてしばらく見入った。そして、ゆっくりと口を開く。
「この渡り鳥は、いったいどこへ向かっているのかなあ……」自分に問いかけているような物言いに、ぼくはなんと返したらよいか戸惑ったが、とりあえず考えてみた。藍色に染まった二羽の渡り鳥の背景には、細い黒線で波濤文様を描いたぶ厚い黄色の釉(うわぐすり)が載っている。この深い黄色が塗り込まれた大海の上を、渡り鳥たちは力強く飛んでいるのである。宋丸さんは眼鏡をはずし、ぽんと放るように右手のソファの上に置いた。「ぼくの故郷は富山県の片田舎でなぁ。冬になると大雪が積もって、何か月も遠くに出れないんだよ。みんな、じっと、我慢しているんだ、狭い家のなかで。雪が溶けて春になるまでなぁ」宋丸さんの首がこちらに動いた。「おい、この色を見て、なにか気がつかないかよ?」「い、色、ですか?」相変わらず唐突な質問に首を傾げ、改めて皿を見る。一般に余白といわれる部分には濃厚な緑が敷き詰められている。だから〈青手〉というのだろうが、とにかくこの緑色が圧倒的に主張しているのだ。ぼくは、その緑からあえて眼をはずし、他の色に注目して見た。細緻且つ大胆な描線の黒、見込みに施された黄と藍と、そして、雲をあらわしているのか、若干の白色が見える。このとき、この白に目が留まった。中国陶磁にも色釉だけで構成された作品はみかけるが、多くは白磁の白が基調となっている。ぼくは答えた。「白の部分がほとんどない……。ところですか?」すかさず、あっ、はっ、はっ、という笑い声とともに、ずずっという茶を啜る音が響く。
「もう一度、よく見てみろよ。この独特な色絵を――」「色絵……?」ぼくは〈色絵〉といわれて察しがついた。〈色絵〉は〈赤絵〉ともいう。なるほど――。素早く宋丸さんの顔をまっすぐみつめた。「赤が使われてないです」中国陶磁でも日本陶磁でも、色絵というと赤が主役である。青手には、その赤がいっさい使われていない。全体的に重々しく感じられるこの色彩のメカニズムをこのとき理解した気がした。ぼくの返答に宋丸さんは愉しそうにニヤニヤと笑いながらお茶を口に運んだ。そしてそれを飲み切るといったん息をとめ、鼻からゆっくりと吐き出し、静かながら語気を強めて言った。
「これが、北陸の色だ――」このいわゆる寒色系の色を組み合わせた彩りは、夏であってもどこか厳しい長い冬を引きずっている、北陸の空気を纏っているように思えた。重く沈んではいるが清く澄んでいる、その独特の緑の色をみつめながら、ぼくはロンドンの空を思い起こしていた。鬱屈した鉛色のまにまに見える綺麗な青の色――。それはある種対照的な〈青〉ともいえた。しかし、青手の〈青〉も、ロンドンの空をイメージしたPDFの官窯青磁の〈青〉も、うつくしさという点においては、何ら変わりなく同じであるような気がした。
「――それから、この黄色い海は、日本海だ。おい、きみ、日本海を見たことかるかい?」いったん青手に移していた目を再び宋丸さんに戻した。「日本海……、ですか?」大学2年の冬休みに石川県の山中温泉に行ったことを思い出した。「はい。たしか、上越から北陸本線に乗ったとき、ずっと車窓から日本海を見ていました。でも真冬の夜で、おまけに雪のような雨が降りしきっていて、それが激しく窓にあたっていたので、よく見えませんでしたよ」ぼくの苦笑いを宋丸さんは高笑いで返した。「あっ、はっ、はっ、そうかい。真冬の日本海だったかい。そりゃあ、いいもんをみたな」その光景を思い浮かべていた。暗闇のなかで吹きすさぶ風雨に、荒れ狂っているかのような波の空恐ろしさ。岩山に砕け散るその轟音が聞こえてきそうで、思わず身が引き締まった。
「渡り鳥だから真冬ではなかろうが、晩秋の冷たい風が吹き荒れる日本海を翔(と)んでるんだろう、休みなく、南に向かって」宋丸さんは側に置いた眼鏡を再びかけるとじっと皿に眼を置いた。「だから、この極端に大きい翼の表現は、単なる誇張じゃないんだ。現実的なものなのかもしれないなぁ。頑張って翔んでるんだ、この鳥たちは――。ああぁ、泣けるねえ」そう思ってみると、番(つが)いの鳥の翼の重なる部分は、強風から離れないようにと、しっかりと手を繋ぎ合っているようにみえた。
「さて――、値段だが」宋丸さんが床に目をやりながら、ゆっくりと一口お茶を飲んでから言った。「完品なら数億。しかし、真っ二つとなれば、そう値は付くまいが、とはいえこれは、たいそうな代物だ」宋丸さんが人差し指を力強く立てた。「一本で、いいんじゃないか」一本……? まさか百万ということではなかろう。そうしたら、一千万ということか。ぼくは目を丸め問うた。「い、一千万円……ということでしょうか?」宋丸さんは、そうだと言わんばかり深く肯いた。「……はあ」ぼくはゆっくりとうなずいた。才介は、普通は200~300万だが宋丸さんなら500万くらい付けるのではないかと予想していたが、その倍の数字である。これが宋丸さん流の、品物に対する失礼ではない値段なのだろうが、いつもながら想像を遥かに超える。言葉の出ないぼくに向かい、宋丸さんは確(しか)と目を当てた。「いいか、絶対、下で売るな」「はい……。わかりました」ぼくは厳粛な気持ちで、艶やかな緑色をじっとみつめた。
世間では夏休み真っ只中の8月の中旬に入っても、ぼくと才介は来月下旬に開催される骨董フェアに向け、毎日忙しくしていた。「設営の方は、大丈夫なんだろうな」西日の強く入る才介の部屋のなかで、ペットボトルを片手に才介が訊いた。テーブルの上には、先日出来上がってきた図面が広げられている。「設営は、俱楽部に出入りの業者がやることになっているから、任せていいだろ。特別手の込んだものにはしないから」ブースは間口が2メートル、奥行きが5メートルで、そのなかに陳列スペースを設けることになる。ぼくは図面の一箇所に指をあて才介に目を合わせた。
「この正面に置かれる二つの陳列台が重要だな」「そう。間口が狭い分だけ奥行きがある。だから、入ったときに最初に目に入るのが、奥だ」才介も図面を叩いた。「ここに、あの大皿2枚が、がつんと置かれる」青手と安南が並んだ姿を想像しぼくはにやりとした。「こりゃあ、すごいぞ! だから、この飾り台は見映えのよいものにしないと」「そうだな」ぼくと才介はうなずき合った。「あとは、両脇だな」才介が顎下に指を這わせる。「ほんとうは、枠取りの窓形にしたいけど、費用かかるし。両側は奥行きも限られているから、普通の、高さ70センチくらいの横に長い壁面ケースにするか。左右で10点ずつ、20点は置けるだろう。あとは奥行きだ」ブースの横幅が2メートルだから、両脇50センチとると実質の幅は1メートルとなる。一人通るなら充分だが二人となると少々きつい。「人の行き来を考えると、両脇の奥行きはせいぜい35センチから40センチくらいだな。50センチだと、ちょっと窮屈になる」ぼくの提案に、「そうだな。まあ、35センチあれば、飾れるでしょ。そんな大きなモノないし」才介は腕を組んで答えた。両側には、主に本庄の蔵で手に入れた南京赤絵や古染付の皿と、Reiから預かった緑鈞の皿や香港で買った鉅鹿の鉢など、どれもそう大きいものではない。
かなり強めのエアコンのせいか、才介が大きなくしゃみをしたのを潮に、ぼくらは図面を片づけた。ひと息しようと、才介が冷えた日本茶のペットボトルを手渡す。本日二本目。キャップをねじって、ぐいと喉に流し込むや強めの視線を投げた。
「しっかし、あの値段で、本当に売れんのかよ――」先日宋丸さんの値付けした青手の大皿の件である。実はぼくも半信半疑であった。「まあね……」「言っても、五、六百だろう。一千っちゃあ、かなりハードルが高いぞぉ」「でも大御所がそう言うんじゃあ……」「それに、値引きするなってんだろう?」ぼくは小さく肯く。「買いそうなお客に値引きを要求されたら、多少は引かないと、逆に失礼になるぞ」「でも大御所がそうしろと言うんじゃあ、それに従わんと……」才介は、チっと舌打ちをすると、「値引きをしないがために、お客を逃したって話は仰山あるぜ」と後頭部を掻いた。「宋丸さんくらいの業者だとそれでいけるのかもしれないけど、おれらは、お客に合わせんと。五、六百だって、充分利益出てんだからさぁ」
お客の気分を取るか、美術品の価値を重んじるのか――。商売を考えれば、無論前者だろう。おおよその商人が極力お客に合わせる。しかし、真の骨董商たるや、後者を貫くのかもしれない。ただそれは、業界内でも格上の商人に限られよう。ぼくらはまだまだ半人前だ。鷹揚に構える余裕などない。とはいえ――、今回の値付けに関しては、宋丸さんに従おうと二人で決めたのだ。才介がしぶしぶ「わかったよ」と言って拳に掌を合わせ何度か叩いた。「一番は、値切らずに、正札(しょうふだ)で買ってくれるお客がいればいいってことだな。美術倶楽部に来るお客なら、そういう方々がいるだろうし」「そうなるのがベストだね」才介が意地の悪い笑顔を浮かべた。「もし売れなかったら、あの爺さんに責任とってもらおう」「でも、一千じゃあ買わんだろう」「そこで初めて、多少お値引きさせていただきますって、頭下げればいいじゃん」才介はペットボトルを飲み干すと、ステンレスのゴミ箱に向けしなやかな手さばきで放り投げた。空のボトルは一回転宙を舞うと、吸い込まれるようにゴミ箱におさまって、軽快な音をたてた。
濃厚な色をした眩い青空もエネルギッシュに沸き立つ入道雲も、いっときのピークを超えた感じをみせる九月の初旬。ぼくはSaeに誘われて、港区にある個人美術館の常設展示を観に来ていた。戦後の高度経済成長期に観光業などで財をなした有名な蒐集家の別宅跡地に、近年開館した白亜の殿堂。近現代日本絵画、西洋絵画、日本古美術、中国陶磁といった多岐にわたる分野の展示室が一階の贅沢な空間に並んでいる。そのなかの日本古書画の一室で、ぼくらは展示品に目をやりながらゆっくりと一歩ずつ歩いていた。なかは展示品にのみ照明が当てられているため、それなりに暗い。Saeの艶やかな長い黒髪も真っ白な水玉のワンピースも、ともに陰に覆われ色彩を曖昧にしていた。
ふと、Saeが立ち止まった。それに応じぼくも立ち止まる。目の前には、軸装された平安時代の古筆が掛かっている。「日本のかな文字って、ほんとうに、きれいねぇ」うっとりとみつめながらSaeは言った。三行にわたって記された細い筆の縦線と行間は、計ったような正確さは持ち合わせてなかったが、思いのままにまかせた自由さがあり、それがどこか絶妙なバランスとなって息づいているようにみえた。――いったいどんな歌なのか。解説の書かれたキャプションを読もうと一歩踏み出したとき、Saeが前を向いたままの姿勢で話し始めた。
「実は、今日、わたし、お別れにきたの――」「えっ!?」ぼくは目を見開き、すかさずSaeをみつめた。「どういうこと……?」「わたし……ほんとう、甘ちゃんだと思ったの。マダムの一件を目の当たりにして」Saeがさっとぼくに視線を合わせた。「だって、そうでしょ。マダムの壮絶な人生をみて。わたし、恥ずかしいくらい、自分の考えを持ってなくて、のほほんと暮らしていたなあって。父の傘の下で、ぬるま湯につかって、自分の将来と真剣に向きあっていなかったって。あぁ……、だから、あれから、ずうっと考えてたのよ。このままじゃだめだって。だから……、決断したの」Saeの黒い瞳が、薄暗い室内ではっきりとみえた。「父の子会社が、ドイツのベルリンにあるの。わたし、しばらくそこで揉まれてこようかと思って。自分を鍛えるっていうか。取りあえず、動かないと、何かをしなくちゃって。こういうの、思い立ったが吉日って言うじゃない。マダムの一件に関わって、自分を変えなきゃって、そう思ったのよ」
「…………」ぼくはうつむいた。マダムの出来事は当然忘れることはないが、今は目の前のこと――俱楽部のフェアに向けて集中していたこともあり、頭の中心からだんだん遠ざかっていたのは確かだった。しかしSaeは、この三カ月少しの間、絶えずそのことだけに支配され思い悩んでいたのだ。そして下したSaeの英断に対し、ぼくは心の底から敬意を表すべきだと思ったのだが、思もよらない報告に頭のなかが混乱してしまい、すぐに言葉を発せられなかった。胸の奥底がざわついていて、どう答えてよいかわからない――。「…………」
やがてぼくはおもむろに顔を上げるとSaeではなく、古筆をぼんやりとみつめた。かなりやつれた萩色を思わせる紅紫の表装が眩く目に入る。薄くやけた紙に流麗なかな文字が記されているが、いったい何と書かれているのか――。ぼくはなす術もなく朦朧とした思考回路で、解説文の最初にある本文に視線を移した。
〈白雲の こなたかなたに 立ち別れ 心をぬさと くだくだびかな〉――どうやら、これは別れの歌らしい。次に内容の方へ目を動かそうとしたが、ぼくは気力を失っていた。どんな時に詠んだ歌なのか。それを知るのがなんだか怖い気がしたのである。再び文字を口ずさんだ。〈白雲の こなたかなたに 立ち別れ……〉――
このとき、ロンドンのメイフェアにある小さな公園のベンチに腰かけ、Saeと二人で眺めた空が頭になかに浮かんだ。ちぎれ雲がいくつもあり、これらはこれからどこに向かって流れていくのだろうかと、ぼくは、自分がここにいるという不思議な気持ちを抱えながら、ぼんやりと考えていたのだった。このときSaeは、心情を打ち明けるかのように言った。ぼくやマダムと会っているときは、自分は生きていると感じるが、それ以外は生きていないような気がすると――。敷かれたレールの上に載って生きていっていいのだろうかと――。そして最後に、わたしはいつも不安なのだと――。少し苦笑いをしながら語ったのだった。
ぼくは、茫漠とした心持ちでしばらく黙っていたが、この沈黙に頼っても仕様がないと思い、口を開くことにした。「――いいんじゃないかな。きみがそう決めたのなら」発したあと、何て陳腐な返答だと思ったが、気持ちが動揺してうまい言葉がみつからなかった。でもとりあえず、彼女の決断に賛同する意を示したのである。それに対し「ありがとう、Kさん――」とSaeが微笑む。「忘れないわ、一生。あのロンドンの一週間。わたしはずっと胸が躍ってた。毎日、毎日、楽しかったし、たいへんなことはいくつもあったけど、でも、生きているって感じがしていた。あのときの充実した時間こそ、わたしは、今度は、自分の力で手に入れたいのよ。自分自身の力で――」Saeは最後の部分を強調するように目に力を込めた。そのあと一回ふぅーと息を吐くと、再びぼくをみつめた。なんともいえない優しいまなざしがぼくの瞳に注がれる。「Kさん、わたしは、あのとき起こったすべてのことは、わたしのなかで、永遠にすてきな思い出として消えないわ。永遠に。――Kさんのことも」
それはぼくにとっても、同じことだった。これからどんな風に「骨董」に携わっていくか見当はつかないが、自分の人生を振り返ったときに、胸のうちに深く刻まれたあの日々の貴重な体験は、絶対的に信頼できる揺るぎない確かなものとして、何かギリギリのところで自分を救ってくれるような、そういうものである感じがしていた。
ただ、このときSaeの言った〈永遠に素敵な思い出〉というフレーズが、今ぼくの胸にずしりと重く沈んでいたのである。
Saeの存在はぼくにとって、本来は遥か遠くに在るものなのだろうが、ふと気づくと常に横にいるような、そしてぼくに不思議な安心感――それは、彼女の育ちの良さからくるものなのか持って生まれた性分なのかわからないが、年齢はぼくより下なのにずっと年上のひとが持っているような安心感を、その悠然とした態度をとおして与えてくれたように思う。いざというときに発せられる彼女の悠揚たる言葉に、ぼくは何度も助けられたような気がしていた。ロンドンで彼女を抱いたときも、それはいたって自然な流れのなかでの出来事であり、お互い言葉もなくありのままに受け入れることができた。彼女の強引さに引きずられることはあっても、まったく嫌な気は起らなかったし、むしろぼくらしさを導き出してくれたような気もする。それは、相性がいいというのか、馬が合うということなのか――。しかしぼくはこのとき、〈とき〉がきたことを悟った。ぼくは自分に問いかけ、そして以前から漠然と持っていたその解答と向き合った。出会ったときから彼女は、自分とは違う存在なのだということを判っていたはずだったのに、移りゆく時間(とき)の経過とともに、どこかでなにかを期待していた自分がいたのかもしれないということを――。
ぼくは目をつむり、一つ大きな深呼吸をすると、幾分か気持ちが冷静になり、改めてSaeの方へ目を向けた。Saeは古筆をみつめていた。その横顔は相変わらずうつくしかった。長い睫毛と大きな瞳。すっと整った鼻筋の下にある豊かな唇。そして、その赤い唇がゆっくりと動いた。「これって……。別れの歌なのね……」Saeは感慨深そうに解説文を読んだ後、ぼくの方へ向き直った。「この時代は、永遠の別れなのかもしれないけど、今は世界の果てにいようと会おうと思えば会える。Kさん、知ってる? ドイツには優れた東洋美術の美術館がいくつもあるの。中国陶磁もよ。わたしの行くベルリンだって、それからケルンだって。古くから入っている名品がたくさんある。あの馬上杯以上のものもあるかもしれない。とっても楽しみだわあ。だから、絶対に来てね!」ぼくは頬を緩め、うん、と答えた。「じゃあ、しばらくはドイツにいるんだね」「そう、修行に行ってくる。そして、将来は、美術に関係する仕事を興したいと思ってる。まだ、雲をつかむような話だけれど。わたし、もっと知りたいの。美術品について。その価値について。そして、それに関わったコレクターとかディーラーについて」
Saeは3年ほどベルリンにいて、そのあとロンドンの大学院に入りそこで美学を専攻しキュレーターの資格を取得した。それから数年してアート・ビジネスを始めたのだ。彼女の家に代々伝わる中国陶磁などのコレクションを活用し、世界の富裕層に向けて、国内外の美術館でガラスケース無しの展覧会を定期的に企画したり、またときには惜しげもなく作品を実際に手に触れさせることで、その価値を認識してもらう類(たぐい)の啓蒙活動を繰り返した。そして名品がマーケットに出たときは、こうして育てたアッパークラスの人たち――いわゆるパトロン的コレクターに資金を拠出してもらい、購入後は日本を含め海外の美術館に寄贈なり寄託をしてもらった。こうしたやり方で美術品の崇高さを世に示し、またその行く先を護(まも)った。〈護った〉というのは、投機的に美術品を軽々に動かそうとするバイヤーがどの時代も跋扈していたからである。ただ金のために流転をすることは、本当の価値ある美術作品にとっては至極悲しいことなのである。名品は名品にふさわしい場所に帰するものなのだという原理原則というべきもの、またそれは真理といってもよいかもしれない、その役割の一端を彼女たちが担ったといえるだろう。
今、彼女たちといったが、この仕事はSae独りの力では到底成しえない。そのバックにはSaeの父の資金もあっただろうが、そこには重要不可欠な人物の存在があった――。オークションハウスB社にいたXiaである。世界の大富豪や美術館を識るXiaの人脈と、Saeの大胆且つ高貴な雰囲気が完璧に融合し、またそうした文化事業的なビジネスに賛同する学識者の参画もあって、現在では世間に認知されるようになったのである。しかしそれは、彼女がビジネスを立ち上げてからだいぶ先の話であり――。まあ、ぼくもその事業が軌道に乗ったときに、ずいぶんと手を貸してあげた(笑)。主要な国々へ引っ張り出されては、中国陶磁の魅力をいろいろなひとに向けて説いて広めた。学者ではない、単なる骨董商の生の経験を活かして、というか。
「ねえ、Kさん。こういう和歌って、返歌というの? それをまた歌にして返すっていうじゃない?」古筆をしばらくみつめていたSaeが突然尋ねた。「まあ……返歌って、きくよね。そういうの」首を傾げるぼくに、「でも、こういう場合――、別れの歌でしょう。もう一生会えないひとに、なんて返すのかしら」とSaeが真剣に訊いてきた。「そりゃあ、あれじゃない、やっぱ門出を祝う、みたいなやつじゃない?」ぼくは頭の脇を掻きながら答えた。「門出を祝うって……、もう金輪際会えない別れでしょう」「まあ、そうだけど……」「わたし、そういうの堪えられないわ。どうせ深刻な重い感じの内容でしょ?」「うん、でも……、それが和歌なんじゃないの?」少し間を置いてからSaeが言った。「今回の場合――わたしが旅立つわけじゃない?」「うん……。そういうことだね」「そうしたら、わたしに、エールをおくってくれないかしら。歌にして」「ええっ! 歌って、和歌にしてってこと?」Saeは屈託のない笑みを浮かべた。「そう。ただし、重いのは嫌よ!」「ちょっと、待ってよ、急に、そんなこと……」「Kさん、前に、和歌好きだって言ってたじゃない?」「そんなこと言ってたかぁ?」「言ってたわよ、ロンドンで」ぼくは天井を見上げた。「すぐにじゃなくて、いいのよ。紙に書いて、渡してくれる。この古筆みたいにして。縦書きで、三行で」と楽しそうに言ったあと冗談交じりに、「表装はいいから」と声を立てて笑った。「それをベルリンに持っていくわ」――ぼくは、まいったなと思いながらしきりと額をこすった。
その会話がひと段落すると、Saeはそこから別の展示室へと向かって歩き出した。ぼくの手を引っぱっていく。「こっちにね。わたしの好きな絵があるのよ」そこは西洋絵画の部屋だった。室内はやはり薄暗い。その奥の方にいかにもヨーロッパの油絵らしい豪奢な額が飾ってあり、Saeはその前で立ち止まった。19世紀の終わりか20世紀の初めくらいの作品だろうか、藍色をした陶器の花瓶に、赤、白、黄、ピンク、青といった色をした花々が、とにかく豪勢に生けられている。寸法も大きいため、より華やかにみえ圧倒された。「誰の絵?」キャプションをみると、知らないフランス画家の名前が英語表記で記してあった。ぼくが首をひねっていると、「ルドンの絵」とSaeは言った。
一種幻影的にみえるその絵をぼくは惹き込まれるように見入った。近くに寄ると、一見はっきりしてみえる花びら一つひとつの色がかすかにかすんでいて、輪郭線があるようでないような感じがした。それは、実際につまれて飾られた花というより、イメージして創られた様々な種類の花が生けられているような印象を与え、それらが大小バランスよく花瓶に盛り込まれていた。そして、とにかくそれぞれの花の色が柔らかく麗しく、なんとも心地よい感じなのだ。色の種類も豊富で、同じピンクであっても濃いものと薄いものと、またこんな色があるのかという透き通ったラピスラズリのような青色をしたものもあった。それらが見事に調和している。花の種類については、とんと詳しくはなく興味のないぼくであったが、こんな花が家に飾ってあったら気持ちもやすらぐことだろうと思った。
「きれいな花だなあ」しばらくみつめたあと、ぼくは一言感想を述べた。「いいでしょう?」Saeも顔を綻ばせる。そのゆったりとした大らかなSaeの笑顔は、非現実性を帯びながら優雅に咲き誇っているこの花の絵とどこか繋がっているように思えた。またそれは、先だって《これが北陸の色だ》と宋丸さんが譬えた古九谷の青手の濃厚な色彩にも、一脈通じているような気もしてきた。まったく対照的な色合いなのに、どこか雄大で温かく包み込むようなうつくしさを持っている――。そんな気分でぼくはSaeの顔をじっとみつめた。そしてこのとき、ぼくは彼女に出逢えた喜びが身体中を駆け巡っていくのを感じていた。
ぼくは笑顔で再びその花の絵に目をやり眺めながら、そういえば、今日最初に入った中国陶磁の展示室に、やはり花の絵を描いた青花の大皿があったことを思い出した。明(みん)時代初期15世紀の永楽(えいらく)年間につくられた作品で、大きな見込み中央に、蓮の花や葉や実、慈姑(くわい)の葉などを束ねた一般に〈束蓮(そくれん)文〉と呼ぶ文様である。この花束文様は、〈吉祥〉を意味するとキャプションに書かれていた。吉祥――――。なるほど。その瞬間、ぼくの頭のなかにぱっと浮かんだ。
「きみへのエールの歌、ひらめいた!」Saeが目を丸めてぼくを見返す。「えっ、もう? つくってくれたの?」ぼくはこめかみに人差し指を当て、「ひらめいた、だけ……。あとでちゃんと修正するよ」と言うと、Saeが、いいから、早くおしえてと詰め寄る。ぼくは、かなり困った。しかし、そう言ってしまった以上はしかたがないと、恥ずかしながら歌を詠みあげることにした。
「新生活 踏み出すきみに うつくしき この世の花を 全部贈ろう」ぼくは頭の後ろをとにかく搔きまくった。「いやはや、なんとも、かなり、気障……、しかも、字余り……、それに、和歌でもなんでもないや、……短歌っていうの、こういうの? ハハハ」Saeは、うんうんと大きくうなずくと、周囲を気にも留めず手を叩いた。「とっても、素敵よ、Kさん。修正なんかいらないわ、そのままで全然OKよ。わたし、ドイツに行くのが楽しみになってきたわ」「まじ……、でも、あとでまたやり直すよ。もう少し、ましになるように。即興みたいになっちゃったから」「いいわよ。即興というのが、気持ちが一番入っているものじゃないかしら。それになにしろ、明るい気分になれる」とSaeは言うと、両手で口を覆いながら身を折り曲げ声をあげて笑ったあと、「Kさんて、やっぱり、おもしろいわね」と、まじまじとぼくをみつめ、そして今度はくすくすと笑った。
「で、いつから、行くの?」出口に向かう広いエントランスのところでぼくは尋ねた。「まだ、先よ。年明けくらいになるかなぁ。いろいろ準備があるし、12月に入るとヨーロッパは慌ただしいしから」「よかった。じゃあ、今月下旬のフェアには来てくれるんだ?」「もちろんよ。だから、ちゃんとインビテーション頂戴ね」うん、とばくはうなずいた。時刻は夕方だったがまだ空は明るく、エントランスの高い窓から入る光がSaeの黒髪と純白のワンピースを際立たせている。「すごいのを、出すんでしょ?」その問いかけに、ぼくは、まあねと口元を緩ませた。「わたしでも、買えるかしら?」「う~ん……。でも、今回の目玉の二点は、中国陶磁では、ないんだ」「へえぇ……、じゃあ、日本? それとも韓国? あっ、ひょっとして、オリエント?」「答えは……日本とベトナム。しかも、両方とも大形サイズの皿。大皿の競演!」「ふうん。なんだかわからないけど、楽しみになってきたわぁ」Saeはそう言うと、「Kさん、目が輝いてる」と指をさした。「……まあ、今日はちょっと……、ショックだったけどね」ぼくは笑いながら正直に答えた。それに対しSaeはゆっくりと一度大きく瞬きをした。「でもね……、それが正解だと、思うのよ――」その声を聞いて、ぼくは目を細め、かみしめるように小さく何度もうなずいた。そして今度は、Saeの瞳を見据えて言った。「きみの目も、輝いてる――」それに対しSaeは、「そぉ?」と言うと、左の口端をキュッと上げるいつもの笑顔で返した。
それから数日して、フェアの図録が十五冊手許に届いた。「ようやくかよ! めっちゃ、ギリギリじゃん!」文句を連発する才介をよそに、ぼくはそのなかから一冊取り上げると、すばやく頁を繰っていった。出品番号50――最後の頁で手が留まる。と同時に、両手に力を込めて思い切り頭上に突き上げた。「やったぜぇー!!」「おい、おい、ちょっと、みせろよ!」才介が右手を伸ばして取り上げようとする。「そっちの、みりゃあいいじゃん」図録の束を指さすと、「ばかやろう、これは、皆さんに差しあげる分だろ」と言って奪い取るや足早にテーブルの方へ向かった。そこで改めてぼくらの頁を開き、二人でじっくりと目を落とした。一店舗1頁が割り当てられており、一番上に〈4F 50〉とブース番号があり、そのすぐ下に店舗名〈青渓庭〉が目立つような大きさで、その右にそれより小さいフォントで〈SEIKEITEI〉と英語表記がある。ぼくらの視線は先ずその店名に注がれた。そしてすぐ、その下のメインの写真部分へと走る。頁の半分くらいを使って、青手大皿の見込みが大画面で、その右下部分には裏面の写真が三分の一くらいの大きさで載っている。写真のすぐ下には名称と時代と寸法が記されている。――〈古九谷青手飛鳥文大皿〉〈江戸時代(17世紀)〉〈口径41.2cm〉。
「おおおおおぉー」二人して抑揚なく言葉を伸ばすだけ伸ばし、同じリアクションをとった。色校正は一度切りだったが、仕上がりは文句なく満点だ。つがいの鳥の藍色が、飛び出すかのように鮮やかに映えている。才介の興奮度が一気に高まる。「ちょっと、ちょっと、めっちゃ、すげえぇ、すげえよ。名品だよ、名品、これ、これっ!」指で何度も写真部分を叩く。ぼくは、半ば放心状態でしばらく図録を漫然と眺めていた。気分はもちろん喜びで満ち溢れていたが、なんだか夢をみているような錯覚をおぼえたからである。自分たちの店の名前が書かれ、名品の写真が載っている――。ほんまかいな――。朝靄のなかに青手の緑色が浮かんでいるように映る。――――いや、これは、現実だ。ほどなくして、ぼくはしゃきっと黒目に戻すと、新しい図録を一冊掴んで出口へ向かって走り出した。「おい、どこ、行くんだよぉ?」ぼくは振り返らずに、右手に持った図録を掲げ、「先ずはこれを渡したいひとのところへ持っていく」と言って、才介の部屋の扉を勢いよく開けた。
昨年壊れたエアコンの修理をしないままこの夏を乗り切ろうとしている犬山得二の部屋は、想像以上に蒸し暑かった。開け放たれた窓は、もはや逆効果のようにみえる。よく生きてたな、というぼくの問いに、「地球温暖化ってのは、人類の切なる問題だぞ、まったく」と扇風機を目の前に置き激しく団扇を仰ぐと、今度はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を丁寧に拭った。広い額の上を、これ見よがしに動くハンカチの青色がやけに目立つ。「似合わねえなぁ、なにそれ」と指をさすと、「おまえも、相変わらず、時代についていってないね。ハンカチ王子と呼んでくれよ」「ハンカチおう……」と言ったところで、気づいた。先月の夏の高校野球決勝――早稲田実業と駒大苫小牧の激戦で、早実の斎藤佑樹投手が汗を青色のハンカチで拭う様が注目され、〈ハンカチ王子〉という愛称がついたのだ。今や斎藤佑樹は、若者はもちろんのこと初老のおじさんたちのハートをもつかんでいる。といっても、犬山はぼくと同い年だ。しかし……、おじさん臭い。ぼくは言った。「ハンカチおうじ、じゃなくて、ハンカチおやじ、だろ」「なんとでも言え。だがな、彼は、おそらく、プロには行かず進学するだろう。そうしたら、おれの後輩ということになる。ハハ」犬山は、二年浪人した末、早稲田の商学部を出ている。「頼もしき後輩を持つ身となるこの晴れやかな心境は、暑さなんかとは次元が違う。なんとも清々しい気分だ。おい、そう思わないか!」テレビの画面には、おそらくどこからか手に入れてきたDVDだろう、先ほどから流氷が音もなく映っている。テレビ台には、これもおそらくどこからか手に入れてきたのだろう、ホラー映画のDVDケースが三つ四つ重ねて載っている。開いた窓の上に引っ掛けられているさっきからいっこうに鳴らないガラスの風鈴をみつめながら、こいつも相当無理しているなと、ぼくは思った。
「ところで、なんだよ。クーラーないんじゃ来ないって言ってたやつが、突然」犬山は丸眼鏡をはずして鼻の上をハンカチで拭った。ぼくは、少々間をおいてから、じゃーんと言って、手にしていた図録をテーブルの上に置いた。「ようやく、できたんだよ。フェアの図録がさ」犬山は再び眼鏡をかけると、「ほおぉーっ、ついにできたか!」と言って手許に引き寄せるとすばやく頁をめくった。「どこに、あんだよ。おまえんとこ」「一番最後。50番」「なんだい、一番、けつかよ」犬山はしげしげと図版を眺めたのち、ほおぉーと感心した声を出して、「これは、見事なモノだな。本当に、あそこの家にあったのかよ」「――あったんだよ」ぼくは蝶子婆さんの顔を思い浮かべる。
犬山は最初からパラパラと頁をめくっていき、もう一度最終頁で手を留めた。そして少しずれ落ちた眼鏡をまっすぐに正すと、おいっ、と言うとやや強いまなざしをぼくに向けた。「おまえらんとこが、飛び抜けて、いいな。他の店は、まあ、いいモノ出してるんだろうけど、そう大したことなさそうだ」「――ほんとか!」ぼくは身を乗り出した。「ああ、図抜けていいよ」急に身体中が熱を帯びてくる。こいつの部屋の蒸し暑さのせいだけではない。「そう思うか――。おれはまだ他の店の出品物みてないけど、そんなにいいかよ」「だから、抜きん出ていると言ってるだろう。いやあぁ、名品は違うねぇ」犬山は再び図録を、目を皿にようにしてみてから、「ほんとうに、真っ二つなのか、これ」と訊いた。ああ、とぼくは答えると、写真の上から下へと指を這わせた。「こういうふうに、完全に真っ二つ」「はあぁ~、ふう~ん……。うまく直すもんだな。写真じゃ、全然わからんな」「そりゃあそうよ。肉眼でもわからないんだから」ぼくは、今度は名人の顔を思い浮かべた。
「それで、いくらって、つけたんだよ」肝心の値段について、当然のごとく犬山は興味深そうに尋ねてきた、と思ったら、「ちょっと待て」と掌を向け、「拙者が、当ててしんぜよう」と、正座をするとバタバタと激しく団扇を動かしながら、上目遣いでしばらく考えていた。そして、よしっ! と言うと、団扇の先端を思い切りぼくに差し向けた。「――750万円!」「ぶっぶー。残念でした」と答えると、「――800万円!」とまるで競りをしているかのように、声を張り上げる。「――それじゃあ、売れないね」ぼくのにやついた顔に、「まじかい! そんなに、すんのかよ」と犬山はやや怒気を強めた。ぼくは正解を告げる。「答えは……、いっ、せん、まん、えん、です!」犬山は溜息まじりに、はあぁ、と言うと団扇を放って腕を組んだ。「しっかし、真っ二つだろ?」ぼくは首を大きく縦に動かしてから「値引きはいっさいなし」と言って左右に振った。「まいったな。大台かよぉ。そんな値段で、買うひとがいるかねぇ。おれも値段についちゃあ、プロじゃないけどさぁ、素人でもないから、なんとなくはわかるぜ。今おれの言った値段は、コレクターからみた最高値だと思うよ」「おれもそう思うんだけど。これに関しては、大御所に従わんと……」「……ふうん、なるほど。あのじいさんか」「イエス」と言いながら、今度は宋丸さんの顔を思い浮かべた。
犬山は膝元に放った団扇を手にすると、またあおぎ出した。「そうすると、結局、おまえの、例のあのご令嬢が、買うしかないんだろうなぁ」そして今度は、Saeの顔が目に浮かぶ。「でも、中国モノじゃないから、買わないと思うよ」「ふうん……。とぉ、なると……」犬山はせわし気に団扇を動かしながら、流氷の映っているテレビ画面をしばらくみつめていた。おそらく北極から流れてくる海氷が、ときには水面に潜るようにして、海面を雄大に進んでいる。ぼくもついそちらに視線を留めていたが、残念ながらちっとも涼しさは感じられなかったので、図録をめくりながら他店舗の出品物に目を通していた。昨今流行り出した現代アートを掲載している店も散見されたが、やはりお茶道具屋と画廊が多い。その他、日本特有のアートフェアよろしく多種多様な分野の店が参加しているので、経験値の少ないぼくにとっては、その価値の判らないモノがほとんどだった。あるギャラリーの頁に載っているかぼちゃの油絵をしきりと見ていると、犬山がこちらに向き直った。
「その価格だと、まず同業者は買わんだろうし、コレクターだって、500万なら出すひとがいるだろうが、大台となると、ちょっとやそっとじゃあ、いないな、いねえ。それに値切り無しだというわけだから、可能性はほぼゼロに近いね。たった三日間の開催で、そう簡単に売れはしねえよ――というのがおれの感想だ」犬山は再び青色のハンカチで頬を拭うと、「ただし!」と語気を強めた。
「その値段で買うというコレクターがいたら、それは、本物だ! イコール、その御仁は、おまえの今後にとって、最も重要な顧客となる。――オークションハウスでいうと、そういう顧客は、なんていうんだ? 〈ヴイ・アイ・ピー〉っていうのか? 〈プロミナント・コレクター〉っていうのか? とにかく、そういう御仁だ」このときぼくは犬山の言葉を、「ふうん、なるほどね」と、他人事のように半分うわの空で聞いていた。
しかし――――、ぼくはその御仁と出会うことになるのだ。それは、会期も大詰めを迎えた最終日の午後のことだった。
(最終回につづく 8月31日更新予定です)






