淑琴(シュウチン)の押す車椅子が、ぼくとSaeの前を静かに通り過ぎていく。その先には馬上杯の飾られているテーブルがある。しかし、側には寄らず1メートルくらい前でとまった。マダムの祖母が自らの手で押さえたのだ。ぼくの方から、祖母の顔を窺い知ることができた。鑿(のみ)で刻まれたような深い皺の一つひとつに、先ほどの壮絶な人生体験が浸み込まれているように感じ、また、一瞬窓から入った強い日差しによりできた陰翳が、それをさらに強調しているように思えた。陽の明るさによるものなのか、脳裏に去来する過去を思ってなのか、老婦人は眼を線のように薄く細めると宙の一点をみつめ、ゆっくりと口を開いた。
「凉媛(リアンユアン)――。あなたのことは、景瑛(ジィンイン)から、それは何度もよく聴いていました。あの子の話の大半が、あなたのことだったような気がします――。家族がいなくなったあとも、あなたがたふたりで、手を取り合って生きてきたこと――。労改から戻ってきた父徳謙が亡くなったあと、あなたたちが、意を決して中国から脱出しようと、香港へ渡る商船に乗り込んだこと――。そのときに、自分だけがみつかってしまい、それを最後にお互いが離れ離れになってしまったこと――」そう言うと、祖母は唇を噛み締め眉根に力を込めた。ハンカチを握りしめた右手が小刻みに震えている。
「景瑛は言っていました――。妹はきっと、無事香港に辿り着くことができたにちがいない。だから、今もずっと香港にいるだろうと――。その後も、あの子なりに必死になって探したそうです。でも、あの子も生きるのが精一杯で……。常にあなたのことを思いながらも、行方はつかめぬままになってしまって……。癌に冒され余命の宣告を受けたとき、最後に妹に逢いたいと、それだけが心残りだと、毎日のように、この娘の淑琴に話しをしていたようです。そんな矢先のこと――、わたくしは、ようやく、景瑛と出逢うことができたのです」
祖母は濡れた瞳を馬上杯に注いだ。「この馬上杯は、あのとき壊されずに、紅衛兵たちの上役が持ち帰った――。おそらく、その価値がずいぶんと高いことを察知して、自分のものにしたのだと、だから絶対に壊しなんかしてはいない、いつかきっと出てくると――。景瑛は、そう思っていたそうです。そして、もし馬上杯が自分のもとに戻ってくることがあるのなら、そのときは、きっと妹にめぐり逢えるような気がすると――。最期まであの子は、そう願って………、徳謙、冠一のもとへと逝ったのです」マダムが再び両手で顔を覆って跪(ひざまず)き、「ああ、お姉さん……!」と、高いむせび声をあげた。
祖母が少しだけ馬上杯の方へ車椅子を動かした。「景瑛は、わたくしにその思いたくしたのです。つまり、わたくしには使命ができたのです。なんとしてもあなたに逢って、景瑛のその後のことを語るという――。それは一見、困難な使命のように思えるでしょうが、不思議と、そうは思いませんでした。わたくしは、あなたに出逢える気がしていたのです――」マダムの祖母は、さらに馬上杯に向かって車輪を動かした。
「中国本土で経済が急成長し、資産家が増大するとともに、美術品――特に自国の美術品を、彼ら新興成金がこぞって買い漁っている。それによりマーケットが急速に拡大し、海外のオークションで、ものすごく高値になっているというニュースを新聞で知りました。そんな折、あれは、景瑛の一周忌が終わった頃でしたか――。淑琴がインターネットでみつけたのです。『母もおばあさまも気にしていた、万暦銘の入った色絵の脚の高い杯は、これではありませんか?』と――」祖母はちらりと淑琴に目を向けてから、馬上杯に視線を戻した。
「パソコンの画面に映っている拡大写真を見て、わたくしは確信しました。赤い花文様の左上に、ぽちっと付いている緑色の釉(くすり)。――間違いない。わたくしが、居間で毎日みていた、冠一の父が、殊のほか大事にしていたあの馬上杯であると。景瑛の願っていた馬上杯が、ついに現れたのです――。わたくしは詳しい情報を淑琴から聴きました。いつ、どこで行われるオークションなのか――。幸いそのオークションは、これからロンドンで行われるものだとわかりました。しかしその日にちをみて、わたくしは慌ててB社に連絡を入れました。それが、競売の前日だったからです――」
祖母は、Xiaに目をやった。「Xiaさんが、対応してくれました。わたくしは訊きました。馬上杯に関してのことを――。わたくしの記憶によれば、あれはたしか、同じものが二つ入る、日本では支那(しな)箱といった中国製の布張りの箱に入っていたはず――。お義父さまが、時折りしまわれることがあったとき、わたくしは横でみていた――。『もとは、二つあったんですね』と尋ねると、『一つは失われてしまって、今はこれしか世の中にはないんだよ』と言っていた――。Xiaさんは答えました。『――はい。そういう箱に入っています』と。それで、わたくしは、決めたのです――」
それまで、うつむいたまま身じろぎもしなかったXiaがすっと首を立て、祖母の話を受け継ぐように話を始めた。「――はい。奥様からお電話をいただいたのが、セールの前日の朝早くでした。馬上杯の情報を訊かれ、答えられる範囲でお答えしました。そして、最後に訊かれました。馬上杯が競りにかけられるのは何時くらいになるのかと――。わたしは、だいたい始まって2時間くらいかと思いましたので、日本時間で午後8時頃とお伝えしました。すると奥様が、それなら自分で競るので電話を繋いでくださいと仰られたのです。わたしは奥様に尋ねました。いくらまで競るおつもりかと――。すると……、『いくらでも――』という答えがかえってきたのです」
Xiaがマダムに顔を向けた。「わたしは、内心戸惑いました。マダムの、なんとしても買いたいという思いがわかっていたからです。もちろん、奥様とマダムの関係など知る由もありません。本来ならお伝えする必要はないのかもしれませんが、そういうわけにはいかないと思って、下見の最終時間を見計らって、Saeさんに伝えたのです。強い電話ビッドが一本入ったということを――」車椅子の向きが変わった。Xiaは、老婦人とマダムに、交互に顔を動かしながら話を続けた。
「わたしは、せめて日本語で話しているのがわからないようにと、右手で隠すようにして受話器を持ち、真っ直ぐオークショニアと正対する姿勢を取りました。会場内とマダムとの競り合いが終わったことを告げると、奥様による電話ビッドが、満を持していたかのように、始まりました。『いくらでも――』と言われたとおり、マダムのビッドが終わるや否やすぐにビッドの意思を示し、わたしはそれに応じてチャアマンに向かい手を上げ続けました。ビッドが進むにつれ、マダムの反応が遅くなっていくのがわかりました。ぎりぎりの選択を迫られているのだろうと――。わたしはそちらを見るのが辛かったので、正面を向いたまま、電話に『もう、終わるかもしれません』と伝えました。そして、マダムが落胆の声をあげてパドルを落としたのが目の端に映ったとき、奥様に言ったのです。『これで、こちらに落ちます』と――。チェアマンがハンマーに手をかけたときでした。今度はSaeさんが、パドルをあげたのです。――20万ポンドと言って、値を吊り上げたのです。わたしは電話口で言いました。『これは、まだ、続きそうです――』と。すると、奥様は『そう』と言ってから『続けて』と仰られたので、わたしは左手をあげようとした、そのときでした。『ちょっと、待って――!』と」
老婦人は車椅子に手をかけ、少し前のめりになると、マダムの顔に視線を合わせた。
「――そう。わたくしは、ビッドしている相手のことなんか、どうでもよかった。だって、馬上杯を手に入れることが、わたくしの目的であり、使命だったのだから。いくらでも買うつもりでいましたから。でも、あのとき――、ふと気になったのです。どうやら、同じ人がずっと競り続けているように思われる――。そのひとも、この馬上杯にかなり執着を持っているのだと――。だから、いったいどんなひとが競っているのかと気になり、訊いたのです。Xiaさんは答えました。『今、パドルをあげたひとは、日本で有名な中国陶磁コレクションを持っている方のお嬢さんです』と。わたくしは納得しました。やっぱり、あの馬上杯の価値を知っているひとは、そういう方なのだなと――。すると、Xiaさんが言ったのです――。でも、それまでずっと競っていた方は、違うひとだと――。今競り始めたお嬢さんの隣りに座っているお連れのひとが、ずっと競っていたと――。そしてXiaさんは続けたのです――。『そのひとは、チャイナドレスを着ていて、胸元に大きな翡翠のブローチをしている――』と。わたくしは息を呑み、すぐに年恰好を訊きました。するとXiaさんは『年は、40歳代後半から50歳くらいでしょうか。中肉中背のうつくしい方です――』と。わたくしは、受話器を持つ手が震え、一瞬頭のなかが白くなりましたが、――いや、そんなことはない、と思いました。チャイナ服を着て翡翠のブローチをつけている、その年齢のお金持ちの中国人なんてたくさんいるんですから。すると、Xiaさんが付け加えるように言ったのです。『その翡翠のブローチは、お母さまの形見であると、その方は仰っていました――』と」
――ええっ、まさか……。えっ…………、……凉媛……? わたくしが受話器を握ったまま黙っていると、Xiaさんが、『どうしましたか? 続けてビッドしてよろしいでしょうか?』と訊いたので、わたくしは、はっとわれに返ると、頭のなかを整理するために、そのひとについての情報は他にないのかと尋ねたのです。そうしたら、Xiaさんが思い出したように言ったのです――。
『その方のパドル番号は17ですが、なにやらこれは、かつてご自分の住んでいた北京の家の番号だと――。自分の家だけが、17番地だったと――』それを聞いてわたくしは、愕然とし、受話器を落とすと両手で顔を覆ったのです。――――ああ、なんということか。なんという……。わたくしは言葉を失い、そして――、神に感謝をしたのです。間違いない――。それは、凉媛だ――。凉媛が、馬上杯を競っていたのだと――」
老婦人は、小さな吐息を漏らすと、再び背もたれに身体を預け、ステンドグラスの方を見やった。
「わたくしは、競ることを辞めました。だって、わたくしの本当の目的は、馬上杯を手に入れることではなく、凉媛に逢うことだったのだから。そしてついに、凉媛と繋がることができた――。電話口で、わたくしは、目を閉じ、深く首(こうべ)を垂らすと、流れる涙を頬に感じながら、景瑛に報告をしたのです。ようやく、凉媛と逢うことができるのですよと――」
Xiaがぼくらの方へ向かい、一歩踏み出した。「ビッドが終わってすぐ、奥様から訊かれました。――いつ、馬上杯は、買主のところに届けられるのかと。輸出のための書類の準備や梱包作業などで、一カ月くらいかかるだろうとお答えしましたら、お願いだから、急いでしてくれと――。そして、到着する日程が決まったら、知らせてくれと――。そのときに、馬上杯をずっと競っていたチャイナドレスのご婦人も、一緒に来てくれるようにと――頼まれました」
移ろいやすかった窓からの陽が、雲が遠ざかっていったせいか、安定した明るさを取り戻したようだった。ぼくの目は老婦人に向けられていたが、同時にその背景にあるパステルカラーの壁紋様も視界に入っていた。すると次の瞬間、その花柄が流れるように動いた。突然、婦人が車椅子をマダムの方へと動かしたからだった。それをみて淑琴が、あっと口を開いて腕を伸ばし進み出る。その手がハンドルに届いたかというときに、老婦人は自ら車椅子をとめた。目の前に立っているマダムを凝視すると、指先に力を込め胸の前で手を組んだ。その手がわなわなと震えている。
「ああ……、凉媛……」老婦人は深く目を閉じた。「わたくしの所業は……、あなたがた家族を見殺しにしたようなもの。恨まれてあたりまえ。赦(ゆる)しを請うなどもってのほか。でも…………、これだけは、させてちょうだい」婦人はそう言うと、組んだ両手をほどくと膝の上に置き、これ以上にないほど深々と頭を下げた。「ほんとうに……、ごめんなさっ……ぃ……、う、うっ……」語尾はもはや、嗚咽と混じり聞き取れなかった。淑琴がしゃがみ込んで、祖母の背中に手を当てた。それをみるや、マダムが跪いて祖母の痩せた手を両手で握った。「いいえ、いいえ。おばあさまのせいではありませんよ。わたしは、そんなふうに思ったことはありませんでしたよ。今の話を聴いても、恨むだなんて……、そんなこと……。そして、今わたしは、幸せですよ。おばあさまに逢えて……」マダムは、重ねた手のなかに顔をうつぶせた。車椅子の銀髪が何度も大きく揺れるにしたがい、お互いの泣き声が、広間に染み入るように響いていった。隣にいるSaeから、すすり泣く声が聞こえる。
「ありがとう……。凉媛。わたくしは景瑛に逢ったとき、これと同じことを言ったのです。そうしたら――今、あなたとまったく同じ言葉を返してくれて……、赦してくれました――。ああ、ありがとう……」
やがて、婦人が顔を上げるのをみて、しゃがんでいた淑琴が立ち上がり、肩に掛けていた小さなポーチのなかから、小ぶりな透明なシートを取り出した。なかには、10センチ四方の、なにやら折りたたんだ白い布が入っている。淑琴は、それを両手で大事そうに持って、マダムの前に立った。それに応じてマダムが立ち上がる。淑琴は手にしたものを、そっとさし向けた。
「母の……、叔母さまへの形見はたくさんあります……。でも、母から、もし叔母さまに逢うことができたら、先ず、これをわたしてくれと、ことづかりました」淑琴の白い手に、泣きはらした目が大きく見開かれる。「こ、これは……、ハンカチ……」マダムは透明なシートから白いハンカチを取り出すと、「お姉さんが大事にしていた……。わたしが何度も欲しいと言ってもくれなかった……」と言って、手を震わせながらそれを広げた。このとき、そのひと隅に赤い刺繍が施されているのがみえた。その刺繍の文字を見てマダムは再び跪き、ハンカチを胸の真ん中で引き裂かんばかりに握りしめると、「ああぁっ!」と太く短い叫び声をあげた。そして、身体を震わせハンカチに顔をうずめた。
――そこには、「凉景」の二文字が記されていた。淑琴が赤い眼をうるませて言った。「母は、亡くなる前に、自分の『景』という字の上に、『凉』の字を、同じ赤い糸で縫いつけました……。これで、思いが届くだろうといって……」
それが聞こえているのかいないのか、マダムはうつろな眼を宙に浮かせたまま、しばらく放心したように呆然としていた。無音がしばらく部屋を包んだ。すると突然、壊れていた玩具が何かの拍子に突然動き出したように、ハンカチを握りしめた右手を高く振りかざすと、狂ったように、床に拳を幾度も叩きつけた。
「なによ! お姉さんったら……、ハンカチは別れの印(しるし)になるからって、くれなかったくせに! ねえ、なんで、なんで……今、くれるのよ……」叩いていた右手が徐々に弱まり、やがて床の上でとまった。「なんで………、……死んじゃったのよ……お姉さん!!」泣き崩れるマダムをみかねて、Saeが近寄りその背中に抱きつくように覆いかぶさり、顔をうずめた。「マダム……、マダム……」しかし、その次の言葉が出てこなかった。ぼくも目を瞑ったまま、ただうつむくしかなかった。淑琴がマダムの側に寄り添い、「叔母さま……」と言って、マダムの右手から皺にまみれたハンカチを抜き取ると、丁寧に四つにたたみ直し、自分の掌のなかで皺をのばした。それをみて、祖母は大きく息を吸い込んでから言った。「ハンカチを贈ることは、中国では縁を切るという別れの意味がありますが、決してそれだけではないのよ。これには、――自分だけのものですよ、という意味もあるのです。『凉』の字を縫い付けたのは、このハンカチは、景瑛と凉媛の二人だけのもの、という意味でしょう……」
もうすっかり雲が切れたのだろう。窓から入る日差しにいっさい翳りはみられなかったが、それは何か西日に近い気だるさを漂わせており、場を重苦しいものにしていた。ずいぶんと長い間、マダムの抑揚のない泣き声が、まるで長雨の音のように、止むかげもなく室内にさめざめとひたり続けている。オークションセールの終わった晩の食事の際、マダムは、思いを込めた最後のビッドが通じなかった瞬間、わたしは天を恨んだ、と言っていたが、今もそう思っているのかもしれない――。ぼくも今それを痛切に感じ、どうしようもない悲しみの置き場を、こころのなかに探していた。マダムの背中に寄り添ってしきりと撫で続けるSaeの左手が、むなしく繰り返し再生される映像のように、ただひたすらに悲しく目に映った。Xiaも淑琴も一様に下を向いており、この陰鬱な気分になす術がないようにみえた。悲しみの木霊(こだま)と化し、どこまでも広がっていくマダムのすすり泣きに、車椅子がぐいと動いた。
「しっかりしなさい――! 凉媛!」暗澹たる空気を一閃するような鋭い声が放たれた。「凉媛……。わたくしが言える立場ではないことは重々承知しています。しかし、酷なようだけど……、あなたの祖母として、言います。――しっかりなさい!」マダムが驚いたように顔をあげた。涙の粒がまだ瞳のなかで揺れ動いている。「……凉媛」祖母の眼が薄く和らいだ。その眼をマダムがじっと見据え、「……はい」と答えた。「景瑛は……、わたくしのなかに、淑琴のなかに、そして、あなたのなかに……、生きています。景瑛は、生きているのです……」祖母は、淑琴からハンカチを受け取ると、「景瑛は、きっと、わたくしたちのことを、見守ってくれているでしょう」と言って、しゃがみ込んだマダムの膝元に車椅子をつけると、ハンカチをそっと差し出した。少し落ち着きを取り戻したマダムが、自らのハンカチで頬を拭いながら、祖母の顔を見あげて、白いそれを受け取った。そして、自分に言い聞かせるように二度三度とうなずいてから、涙で濡れた自分のハンカチをしまい、姉のハンカチを胸の前のまえにもっていくと、やがて、かすかな微笑を浮かべ、そっと目を閉じた。
「……ありがとう、……お姉さん」マダムは白いハンカチに刻まれた赤い二文字を、両の掌で包んだ。それをみて、Saeがマダムの肩に優しく手を触れ立ち上がる。祖母も顔を緩めると、首をプラタナスの緑葉を反射したアーチ形の窓の方へ動かした。そのまましばらく、外の景色を眺めるようにじっとしていたが、やがてゆっくりと、マダムの方へ戻した。このとき、その顔から笑顔は消えていた。そこには、何か覚悟めいた厳しさが漂っていた。祖母は、強いまなざしで、車輪にかけた手に力を込めた。
「さあ――、これからが、わたくしの本当の使命です――」一同の眼が老婦人に注がれる。婦人は、これまで同様、言葉の節々に老齢さを感じさせない物言いで、毅然として言った。「あなたは、さきほど、わたくしを赦してくれましたね……」それを聞いてマダムが「……はい」と、一つうなずく。「それをもって、改めて、あなたにお願いがあります――」マダムは屈んだまま姿勢を正した。「なんですか? おばあさま」祖母は右の掌をすっと上に向け合図した。「さあ、立ち上がって――」マダムが立ち上がる。
「わたくしの最初で最後のお願い――」マダムの瞳に目を据え、祖母は口を開いた。「あなた……、お子さんはいらっしゃるの?」それに対し、「……いいえ」と、マダムは首を横に振った。「そう……。わたくしは、もう老い先が短い……」そう言うと、祖母は細い手で横に立っている淑琴の腕をつかんだ。「どうか、この子を、あなたの子供にしてもらえないかしら――」
マダムは、祖母から右へと視線を移した。艶やかな長い髪を持った細面の女性の姿があった。白いブラウスの上に掛けられた薄紅色のカーディガンが、午後の光りを受けて鮮やかに色を強めている。マダムは、淑琴のつま先から頭の上まで眼を動かすと、柔和な眼で尋ねた。「あなた……、おいくつ?」淑琴は、小さくうなずくようにして答えた。「今、二十五です……」それを聞いてマダムは、思わず唇を噛み締めた。口元を震わせ、深く二三度首を縦に振って目を閉じると顔を上に向け、「はあぁっ!」と大きな息を吐き出した。睫毛が震え、涙が頬を伝って流れていく。マダムは、そのままの状態で一度深く息を吸い込むと、次の瞬間、力いっぱい淑琴の身体を抱きしめた。淑琴のうつくしい緑髪が、跳ね上がるように宙を舞った。
「あの頃の、お姉さんと、おんなじ……。香港行きの商船に乗り込んだときの……。ああ……、お姉さん。わたし…………、間違えちゃったじゃない……。お姉さん……」マダムはそう言いながら、淑琴の背中を何度も叩いた。母を思い出したのか、淑琴は高い声を出してマダムにしがみつくと、肩に顔をうずめ泣き声をあげた。Saeが、何度も洟をすすりながら、両手に力を入れぼくの腕をつかんだ。Xiaが口元に手をあて眼をつむる。
やがて、車椅子の動く音が聞こえた。「凉媛……。わたくしのお願い、受けてくれるかしら――」マダムは淑琴の髪をなでながら、答えた。「――もちろんです」
すると、マダムは淑琴の両肩に置いた手を離すと、さっと身を動かして、祖母の側にしゃがみ込んだ。「おばあさま。わたしは、今、おばあさまのお願いをききました」祖母に向け澄んだまなざしを送る。「だから、今度は、わたしのお願いをきいてください」涙目の祖母は、マダムをじっとみつめ首を傾げた。「なにかしら……? わたくしにできること?」マダムは祖母の皺枯れた手を両手で包み込み、「どうか……おばあさま」と言って頭を下げた。「……長生きしてください」その言葉を聞いて、祖母は眉をさげ瞼を閉じた。「……そう」と言うと、マダムの左手を取り、自分の膝の上に引き寄せた。そして、甲の傷痕を皺枯れた指先で優しく撫でまわしながら言った。「そうね……。頑張ってみるわ」マダムは、その指の上に自分の右手を重ね合わせ、「絶対ですよ」と言って微笑んだ。
「――さあ、皆さん……」Saeが指で何度も涙を拭いながら「これより……」と言って、壁に掛かっている時計に手を向けた。針は3時を指している。「エリタージュ・ハウス……」Saeが洟をすすり、瞳を濡らして笑顔をつくった。「アフタヌーンティーの時間です――」そう言いながら、小走りに奥のテーブルへ向かっていくと、椅子を一つ引いてにっこり微笑んだ。「一緒に、お茶しましょう!」
淑琴に代わって、マダムが車椅子を押していく。窓から入る陽光が白いテーブルクロスに反射し、二つの馬上杯の色彩をより鮮明なものにしていた。当然うつくしいに違いなかったが、このうつくしさは、単に作品の持つ美性だけではないとぼくは感じていた。生まれ持った魅力ゆえに、それに取り憑かれ、翻弄されながら流転を繰り返し、そのたびに織りなす物語を抱え、今に至っているという――美術品のもう一つの重要な一面も、このうつくしさのなかに在るのだ。「鑑賞」とは、その背景にあるものも含めて、「みる」ことなのだろう――。そしてぼくは、自分に言い聞かせていた。やはり、この物語は後世に残さなければならないということを――。
「とても、きれいだわ」老婦人は、馬上杯に向け目を細めた。自分の役割が首尾よく済んだという安堵もあったのだろう、それは胸の内から出た純粋な言葉のように聞こえた。「ねえ、ちょっと、取ってくれないかしら」婦人はぼくに向かって言った。「右の方でしょうか?」ぼくが、今回届いた、マダムの祖父の旧蔵品に手をさし向けた。「そう。17番地にあった方――」そして、そっと目の前に置く。「ああぁ……。なんか、あのときより、きれいにみえるわ。なぜかしら……」婦人は皺のたたまれた手のなかで、感慨にふけるようにしばらくみつめていた。「……80年ぶりねぇ。わたくしは、ずいぶん年老いてしまったけれど、これは、ちっとも変わらないのね。きっと、そのせいかしら……」そして、テーブルの上に戻すと、ステンドグラスを見上げ、つぶやくように言った。
「わたくしが、死の淵でみた……この馬上杯を胸に掲げていた若い女性は、沈麗華さんだったのね……」マダムの胸元にある翡翠のブローチが、今まで以上に鮮やかに輝いたようにみえた。
その後、マダムの祖母は、3年間生き、104歳で天寿を全うされた。マダムの願い通り、長生きをされたと思う。マダムの家で、孫夫婦と曾孫と暮らした最後の3年間は、祖母にとって、17番地で暮らしたときと同じくらい幸せだったようで、亡くなる前に何度もそう言っていたということを聞いた。そして、オークションで入手した馬上杯であるが、このあとすぐにSaeの方の計らいで、マダムに贈られたのである。そして、Saeの依頼した職人たちの手により仕上げられたガラスケースのなかに置かれ、それを囲むように、マダムの姉、父徳謙、祖母の夫冠一、冠一の両親の写真が飾られたのだ。まさに、17番地の居間がそこに再現されたのであった。その後ぼくは、何度もそれを見に行っており、マダムとおばあさまの嬉しそうな顔をみている。――それからのち、馬上杯は、マダムの家からSaeのところに返されて、現在は、ある美術館の展示室に一対で飾られている。
そして、この出来事から20年ほど経ったのち、ぼくは、あるカルチャースクールで、中国陶磁の文化講座を10年近く受け持つことになるのだが、万暦時代の講義をするときは、必ずこの馬上杯一対を取り上げることにしている。そして、その芸術的魅力を解説することに加え、このモノの流通にまつわるエピソードも話すのだ。なんというか、これが、ぼくの使命だと思って――。
帰り道は、Xiaと二人だった。あたりはすっかり夕暮れどきを迎えていた。公園を過ぎたあたりから、高層ビルの狭間から入る夕日が眩しく目に入ってきて、その茜色で、Xiaの濃紺のスーツが、まるで万暦時代の青花を思わすような艶やかな色合いをみせていた。それまで言葉なく歩いていたXiaが、西日を避けるようにしてうつむいたのを潮に、口を開いた。「わたしの会社は、国際的で、規模も大きく、優れた作品をたくさん取り扱っていますが、自分の仕事は、なんて薄っぺらいものかとつくづく実感しました……。Kさん仕事の方が、ずっと重いです……」今日の日を体験し、なにか厳粛な気分で歩いていたぼくは思わず吹き出しそうになった。「なに、言うんですか? Xiaさんの仕事の方が、全然重大じゃないですか」「いいえ」Xiaの短髪が左右に揺れる。「オークションハウスは、売り手から委託された品をセールに掛けて売るという仕事で、売れた額によって、買い手と売り手から手数料をいただく、そういうしくみです。Kさんたちディーラーのように、身銭を切って品を買い、お客様に売るのとは性質が違います」「はあ……。それは、そういうことだと思いますが……。でも、扱う金額が圧倒的に違うじゃないですか。それは、大きな仕事ですよ」「はい。そう思って、美術品と向き合って、自分なりに真摯にやってきたつもりです。でも……」
道が左へと曲がり、西日が遠ざかったが、Xiaは顔を上げなかった。「……自分は本当に、美術品を扱っているのかというと、なにか、そうじゃないのかもしれないと思ったりもして……。ビジネスという枠のなかだけで、美術品をみているのではないかって……。Kさんは、好きな美術品を選んで買って、それを好む方におさめているじゃないですか」Xiaがこちらに目を向ける。ばくは笑って答えた。「それは、ぼくに資力がないからですよ。欲しいと思っても、ない袖は振れないし。だから、自分の懐具合のなかで、絞らざるを得ないんです。それも、ちっちゃい懐のなかで。40億円のものなんか、夢の夢の、またその夢ですよ。Xiaさんは、世界を相手にそれができるんだから、ぼくは、よっぽど、うらやましいです」今度はXiaが笑った。「……はい。だから今日、わたしは、心に決めました」正面を向いたXiaの表情は、何か充実としたもので満たされているようにみえた。「セールに出品される美術品一つひとつに、めいっぱいの愛情を注いで取り扱おうと――。だいじに、たいせつに、向き合っていこうと――。そして……」Xiaは、最後にこう付け加えた。「うつくしい物語をつむぐ、ささやかな黒子になれるように――」それを聞き、ぼくは深く肯き、「そうですね。ぼくも一緒です」と答えた。
後ろを振り返った。緑の奥で夕闇に埋もれていく赤煉瓦の建物が、粛然と佇んでいた。
Xiaと別れたあと、ぼくは、自分ひとりでは抱えきれない体験をしたこともあり、犬山得二のところにでも行こうかと地下鉄の階段を降りかけたとき、携帯電話が鳴った。Miuからの着信だった。「Kさん、たいへんです!」声が慌てている。「どうしたの?」Miuが一呼吸入れてから答えた。「この間、埴輪を買っていただいた、あの数学博士が……、亡くなったそうです」「ええっ、教授が!」思わぬ知らせに、ぼくは受話器を耳につけたまましばらく固まった。
(第50話につづく 2月28日更新予定です)