骨董商Kの放浪(46)

 それから一時間ほどして全ロットが終了した。と同時に、緊張から解かれた人びとの話し声が方々からどっと耳に入ってきた。面白い映画か手に汗握るスポーツを観戦したあとの満足気な表情が、彼らの顔に漂っている。今日のセールが織りなしたドラマがそうさせているのだろう。中国古陶磁のレコード・プライス達成に、会場に詰めていた国内外のマスコミが早速チェアマンのもとへと群がっていった。主役の壺の撮影をお願いしているのか、いったい誰が購入したのか、どこから出てきたものなのか、などなどいろいろと情報を得ようとしているのだろう。チェアマンは笑顔で応じながら、マスコミを引き連れオフィスへとさがっていった。その光景をぼんやりと眺めていると、「コングラチュレーション!」と白く細い手がぼくの方へ伸びてきた。目を向けるとLioが笑っている。ぼくがその手を握ると、「ナイス・ファイト」とLioが力を込めた。「今度日本へ行ったとき、もう一度みせてください」Lioの満面の笑みに、ぼくは「シュア(Sure)」と大きくうなずいた。その後ろから、「ブラボー、ブラボー!」と力強く手を叩きながら近づいてくるDの姿がみえた。「すごいなあ! 初めて見たよ。ウーさんに勝ったひと! いやー、すげえや、やるねえ、きみぃ!」Dはえらくご機嫌だ。「快挙だよ、快挙!」Dの拍手に反応したひとたちが、笑顔で手を叩きながらぼくらの側を通っていった。

 ――「さあ、行きましょうか」マダムの言葉でSaeも一緒に立ち上がった。二人の顔はほころんでいたが、疲労は隠せなかった。ある意味死闘を繰り広げたのだから、当然のことだろう。安堵とともにやってくる言い知れぬ疲れが、同様にぼくを襲っていた。パドルを返しに受付に向かうところで、Xiaが足早に駆け寄ってきて頭を下げた。「このたびは、どうもありがとうございました」黒い綺麗な短髪がさっと揺れた。ぼくは訊きたかった。誰が競っていたのか、なぜ途中で止まったのか――。しかしそれは、ここではすぐに尋ね辛いことであった。また、訊いても容易に答えてくれないであろう。

 マダムもSaeも、Xiaに手を差し伸べた。「Xiaさん、本当にありがとう」「いえいえ」Xiaは首を左右に振ると、「お疲れのところ申し訳ございませんが、品物の最終チェックをしていただけませんか」と言って、もう一度頭を下げた。「はい」とマダムが答える。Xiaは二人の顔をみながら、「明日以降でも構わないのですが、大事な作品ですので、確認が終わり次第弊社の金庫に移し保管いたしたいので」と言うと、セール会場の左奥へとぼくらを先導した。

 そこは、本日のセールで落札された作品が置かれている部屋であり、いくつものテーブルが並べられていた。カードで決済し、その場で品を受け取っているひとたちの姿がみえた。その一つのテーブルに案内され「こちらで少々お待ちください」と言うと、Xiaはカーテンで仕切られた奥へといったん姿を消した。ぼくらが座って待っていると、Xiaは馬上杯を持って現れ、白いテーブルクロスの上に置いた。それをみて、Saeがぼくに顔を向け合図する。「じゃあ、Kさん、チェックをお願い」「うん」ぼくは馬上杯を手に取ると、丹念に器を回しながら新しく生じたキズがないかを確認した。当然ないとは思うが、万が一後から付いたキズがあったら事である。コンディション・レポートに記載のないキズがあった場合は、オークションハウスが責任を取らなくてはならない。また、ここで現状を確認しておけば、仮に輸送中で生じた損傷に対しては保険が適用されることになっている。これは、その現状確認の作業であった。

 「大丈夫ですね」確認が終わると、杯を左にいるマダムの前にそっと動かした。ぼくが買ったわけではないが、自分たちのものになるとなんだか一気に親近感がわき上がり、モノが何倍も美しくみえてくるような気がした。マダムが高い脚部に両手の指を添えてじっと目を閉じた。そして胸いっぱいに息を吸い込み「はあぁー」と思いきり吐くと、静かにうつむいた。「夢をみてるみたいだわ。また、こうして手許にくるなんて。Saeさんのものだけれど――」「ううん。マダムのものよ」Saeが慈しむような眼をマダムと杯に注いだ。その様子をみてXiaが「よろしいでしょうか?」と目を向ける。ぼくらが「はい」と答えると、Xiaは「これに付いていた元の箱がございますので、今お持ちいたします」と言った。「箱?」ぼくが訊く。「はい」「箱が付いているんですか?」ぼくは少々驚いた。てっきり裸で――何もない素の状態で出てきたものと思っていたからである。「はい。とても古い良い箱が付いています」Xiaはそう言うと、また奥へと下がった。

 「へえぇ、箱が付いていたのか……」ぼくのつぶやきに、Saeが「箱はあるものじゃないの?」と不思議そうな目をして尋ねた。「いや。日本は箱をつくってそこに入れて保管するけど、他の国ではたいてい裸だよ。特に欧米は。飾りっぱなしで、箱に入れるっていう習慣がないから」「そうなの?」「うん」ぼくたちのやり取りに、マダムは考え込むように首を傾げていた。

 やがて、Xiaが戻ってきた。随分と横に長い大きな箱を抱えている。見ると中国製の、いわゆる「シナ(支那)箱」と呼ばれるものだった。シナ箱の素材は硬質な厚紙であり、その上を布切れで覆っている。布地は紺とか白とか単色の粗い目をした裂が一般的であるが、これは深い緑の地に金糸で繊細な丸い花文様が全体に施されている。ところどころが切れたり剥がれたりしているが、絹のような上等な素地が使われているのが判った。確かに古い良い箱であった。しかし――、この馬上杯の寸法からしたら、やたらと大きい。ぼくは言った。「Xiaさん、これ、たぶん違う箱だと思いますが……」それに対し、Xiaは首を振った。「――これですよ」「えっ?」「――はい」「こんなに大きいんですか?」「――はい」と言ってXiaは箱の上部に手をかけた。差し蓋になっているようで、Xiaはその上の窪みに指をかけるとゆっくりと引きあげた。それが眼に入るや、ぼくは「あっ!」と声を張りあげ愕然とした。「こ、これは………!」

 内部は、シナ箱特有の造りをしていた。全体に綿を入れた橙色の布地が貼ってあるが、馬上杯がしまわれる場所は、杯の形に窪められている。日本の箱と違いシナ箱は、内部が綿入りのクッションとなっているので、しまうときはモノの形にくり抜かれている部分に押し込むだけである。そのシナ箱であることは一目でわかったのだが、これは横長の箱の中央が仕切られており、馬上杯の器形にかたどられた箇所が、なんと左右に二つあったのである――。ぼくは声を失った。そのとき、ギルの言葉が脳裏をよぎった。――「中国陶磁の場合、特別なものに関しては、たいてい対をなしてつくられるものでございます」――なるほど。一対だったのか……。ということは……。ぼくはSaeに目を注いだ。大きな黒い瞳がさざ波のように揺れている。

 ぼくはXiaに訊いた。「これが、オリジナルの箱ですか?」Xiaはこくりとうなずいた。ぼくはすぐにマダムをみつめる。「これだったんですか?」マダムは「う~ん」と唸ると首をひねり腕組をした。「わたしは、まだ小さかったから覚えてないけど……。そんな気もするわ……」Xiaが右手を箱の上面にそっと置いた。「――もともとは、ペアだったようですね」Saeは目を潤ませながら「そう……」と言うと、箱を両手で抱きかかえるようにして自分の目の前に引き寄せた。「そうだったんだ……」Saeは馬上杯を手に取ると、箱の左側にそれを押し入れた。くり抜かれた器の形に高い脚部をもった杯がすっぽりとはまった。右側の失われたスペースには、おそらくSaeのところにある杯が入っていたのだろう。片方だけ入っている馬上杯の箱を、Saeは感慨深げにしばらくみつめていた。やがて、揺れていたSaeの眼(まなこ)から涙が一筋流れ、頬を伝うのがみえた。「この子たち、やっと、巡り会えたのね……」そう言って眼を閉じると、マダムが声をかけるまで、Saeはつかんだ両手を箱から離さなかった。

 

 その日の晩は、Saeの父、ファーザーのよく知っているフレンチレストランで、Sae曰く「祝宴」を三人でおこなった。Saeはこれまでの重圧から解放されたせいか、異常なほどの歓声をたびたびあげて、高級そうなワインをどんどん注文していた。マダムも陽気に飲んでいたが、「ねえ、Saeさん。わたし、心配なんだけど……。あなた、お父さまに了解もなくあんなに高い美術品を買ってしまって……」と、事あるごとに不安気な顔をSaeに向けたが、その度にSaeはうっちゃるように、「なに言ってんのよ、マダム。そんなこと! 平気、平気。さあ、飲みましょう! 今日は飲むわ!」と言って、まったく受けつけない。Saeが赤い顔をぼくに向け、「さあ、Kさんも! 全然進んでないじゃあない、ねえ!」と言って無理やりグラスを合わせてきた。「かんぱーい!」Saeが、あはははと大仰に笑い声を立てる。――今日何回乾杯するんだよ、中国人かよ、と思ったが、ついに念願かなって馬上杯を買えたのだ。とにかくめでたいと思い、ぼくも空になると瞬く間に注がれていくワイングラスを何べんも口に運んだ。しかし……、本当に大丈夫なのだろうか。オークションハウスのオファーに、ファーザーが「もう一つは要らない」と断った馬上杯を買ってしまって……。Saeはあとでひどく怒られはしないかとぼくも心配になってきた。そんな二人の懸念をよそに、Saeはボトルが空くと開いた手を高くあげ、また次のワインをオーダーした。

 

 「あーっ、もう! 今日は、最高だわぁ!」白ワインと赤ワインを交互に飲んではしゃぐSaeをみて、「Saeさん、もう、そのへんにしましょう。結構、酔ってるみたいだから」マダムが椅子から立ち上がりSaeの方へ近寄る。「大丈夫よ。全然、ぜんぜーん、酔ってないって!」Saeは片手をあげてそれを制する。「わかった、わかった」肩にそっと手をあてるマダムの顔をみつめると、Saeは「マダム、わたし、嬉しいのよ!」と言って、バンとテーブルを叩いた。「うん、うん。わたしも、とても、嬉しいわ」マダムはうなずきながらSaeの肩をさすっている。その光景をみて、これは完全に酔っぱらいの介抱だなと思ったぼくは、「Saeさん、今日は、そろそろお開きとして、部屋に帰った方がいいよ」と言った。するとSaeは、「なにっ!」と指をさし、すわった目でぼくを睨んだ。「あなた、酔っぱらって、ないね」少々ろれつが回っていないようなその言い方が、片言の日本語を喋る香港人の発音に似ていたので、――なんだよ、中国人かよ、とまた思ったが、「まあ、まあ。きみもマダムも今日は疲れただろうし」ぼくの言葉に「そうそう。部屋までおくるから」とマダムが優しく賛同する。それを聞いたSaeはいきなり上半身をテーブルにうつ伏すと、しばらく動かなくなった。やばい……寝たか……と思ったら、両腕にうずめた顔のなかから、「だってぇ、だってぇ……」と声が聞こえてきた。するとがばっと顔をあげると、「ずっと、離れ離れになっていたのが、ようやく巡り会えたのよ。やっと、ふたりが一つになれたのよ。こんな嬉しいことなんて、ないじゃあない!」Saeは高らかに笑うと、「さあ、最後に、もう一回、乾杯しましょ!」と言ってグラスを高く掲げた。しかたなく、ぼくもマダムもグラスを手にしそれに応えた。差しあげたグラスをみて、ぼくはふと思い出しマダムに顔を向けた。

 「そういえば、マダムが最後にパドルを、えいってあげたとき、なんかひと声、中国語で叫んだように聞こえたんですが、なんて言ったんですか?」「ああ、あれ……」マダムはふっと笑みを口元に滲ませた。「あれが本当に、最後のビッドだと思ったから……、中国語で、神様、お願い、って叫んだのよ。馬上杯に向かって。でも、相手はびくともしなかった……。そのとき、わたしは天を恨んだわ」そう言うと、酩酊しているSaeを見やった。「そうしたら、Saeさんがパドルをあげているじゃない。びっくりしたわ。でも……あのワン・ビッドで、流れが変わったっていうか……。電話の相手も、わたしたちのしつこさに、根負けしたのかもしれないわね。要するに、Saeさんの気迫が奇蹟を起こしたんだと思う」たしかにそうかもしれなかったが、それまでのマダムの精魂込めたビッドがあったからこそ、その奇蹟がうまれたことに相違ない。「Saeさんには、感謝しかないわ……」ワインの残りを一気に飲み干し口端をあげ微笑むSaeの顔に、マダムは両手を合わせると、笑顔で天を仰いだ。

 

 ぼくはホテルの部屋に帰ると、ルームサービスでウイスキーオンザロックを頼み、一緒に付いてきたナッツをつまみながら、ちびりちびりと飲んでいた。先ほどまでかなりワインを飲んでいたが、今度は独りでゆっくりと喜びを噛みしめたく、今日の出来事を思い返しながら酒を飲みたくなったのだ。

 あのあとSaeは、マダムに抱きかかえられるようにして部屋へと戻っていった。エリタージュの個室でロンドン行きを決めたとき、Saeは、わたしもマダムの力になりたい――と言っていた。きっと馬上杯が競りにかけられている最中も、満腔(まんこう)の思いで彼女がビッドをする姿をみていたにちがいない。だからマダムがあきらめたとき、矢も楯もたまらずパドルを掲げたのだろう。ぼくの眼裏(まなうら)に、このときのパドルを握るSaeの右手が浮かんだ。それはかすかに震えていた。彼女にとっても計算外の出来事だったのだろう。そしてそのワン・ビッドでまさか落札されるとは、自分でも思わなかったのではないか――。今晩の彼女の奇異ともとれるハイテンションは、今日の出来事をまだ実感として受けとめきれていない、不安定な心のあらわれなのかもしれない。しかし――――、それに比べてぼくはなんて無力なのだろうとつくづく思った。何の役にも立っていないではないか――。

 このとき、先日の公園でのSaeとの会話を思い出した。Saeはこう言っていた。――「Kさんは、生きているって眼をしているけど、わたしは生きていないっていうか……」ぼくはグラスを片手にしばらく目を閉じた。ぼくは本当にそんな眼をしているのだろうか――。実はSaeの方が生きていて、ぼくは生きていないのかもしれない――。自分の力がとてもはかないものであることを改めて知ると、ぼくは首筋の後ろをぱんと一つ叩き、ひと息にぐいっとグラスを傾けた。からんという氷の音とともに、濃いウイスキーが喉の奥につっと染み渡った。

 それから、再び馬上杯の競りを振り返った。最も不思議でありいまだに解せないのは、あれだけ躊躇なくパドルをあげ続けていたXiaの電話が、あのとき何故突然降りたのか――であった。特に気にかかったのは、マダムが諦めSaeがパドルをあげ200,000と値を吊り上げたときの反応だった。それまで一貫してオークショニアに正対していたXiaの姿勢が崩れ、いきなりぼくらの方へ顔を向けたのである。そしてXiaはしばらくぼくらに目を向けたまま、電話口の顧客にしゃべり続けていた。いったい何を話していたのか――それについてはまだわからないが、SaeによるビッドがXiaの電話に大きく影響を及ぼしたことは否めない。競りの間Xiaは右手で受話器を持っていたので、こちら側からだと話しをしているのがわかるくらいで、それ以上のことは察知できなかった。しかし、ぼくらの方に顔を移したとき、ようやく彼女の口の動きが見てとることができたのだ。それをじっとみていて、ぼくは「ん?」と思った。元染付の壺を競っていたときは、Xiaは左手で受話器を持っていたため、彼女の口の動きは否応なくぼくの目に入ってきた。それをみていたので、ぼくはこのとき、その口の動きとはなにか違うなと感じたのである。中国語ではないような……。しかし、英語でもないような……。ひょっとして……、日本語? それを隠すために右手で受話器を持っていたのか……? なぜ、Saeがパドルをあげたと同時に、競りをやめたのか……? つまりそれは、Saeのことを知っている人物――。そのひとは、Saeがきたら勝てないだろうと思ってやめたとも考えられる。つまり、エリタージュのコレクションの強さを知っているひと――。

 このとき、ぼくの頭に一昨日のReiとの電話のやりとりがよみがえった。――「変なのよ、宋丸さん……」――「毎日ね、『馬上杯は、いつだよ、いつだよ』って、訊いてくるの」――「昨日もね、『いつだよ』って言うから、明後日です、って答えたら、『何時だよ』って、時間を訊いてくるの。だから、イギリス時間で午前10時開始だから、馬上杯の順番までは2時間くらいかなあと思って、日本時間で、だいたい午後8時くらいじゃないですかって答えたのよ」

 えっ!? 宋丸さんか――? ぼくは思わずウイスキーをごくりと一口流し込んだ。そして思い出す。宋丸さんの言葉を。――「5千万円、出してもらえよ」ぼくは即座に計算した。落札額は、200,000ポンド。手数料を含めた金額は、日本円で……49,700,000。約5000万円であった。馬上杯を5000万まで踏んで、競ったのか――? 5000万までは無条件で競り続け、そして相手があまりにも降りないので、誰が競っているのかをXiaに尋ねたところ、それがSaeとわかったので、降りた――。もしくは、この馬上杯が安く――「失礼な」値段にならないように、競りあげたとも考えられる。モノの格調を重視する宋丸さんなら、やりかねない。しかし――、この馬上杯は、あらかじめぼくの方で競ることを伝えてあったのだ。それを知っていながら、何も言わずに闘ってくるだろうか――。たしかに、エリタージュのお嬢さんが一緒であることは言ってはいなかったが――。しかし、宋丸さんが、そんな卑怯な手というか、ぼくらを邪魔するようなことをするだろうか――。いや、しかし、そこはプロの商人だ。有り得ることではある――。

 そして、今回ぼくの心を占めた思いもよらぬ出来事を頭に浮かべた。あの馬上杯がエリタージュのものと一対だったことである。これも今回の競りに関係しているのかと、ぼくは繋げて考えてみた。Xiaに見せられたシナ箱は、間違いなく元の箱だろう。三代目の中国陶磁の流通に関する話によると、官窯と呼ぶ皇帝の器は明清(みんしん)代の皇帝の住まう紫禁城内に置かれていたが、それらのなかには、1911年の辛亥革命前後の混乱期に宮中から流出し海外へと渡ったものがあるということだった。この馬上杯もそうしたなかの一つであり、それがいつの日か離れてしまい、一点が日本へ渡り、それを宋丸さんの勤めていた店の主人が取扱った。このとき日本製の箱にしたためられ、それがまた動いて昭和45年に今度は宋丸さんの手によりSaeの祖父におさまった。そしてもう一点が、オリジナルの箱をともなった状態で清末の高官からマダムの祖父のもとへきて、文革のときに奪われたのち中国国内の誰かの手に渡り、この度ロンドンのオークションに出品されたということである。

 自分が世に一点しかないと思っていた馬上杯が、もう一点あった――。宋丸さんは不思議に感じたに違いない。そして、察したのだ。これはもともと一対でつくられたのではではないかと。つまり世にこの二点しかないのではないかと。Reiの言葉が再びよぎった。――「ここのところ、一日中カタログの写真とエリタージュのものが出ている展覧会図録の写真を横に並べて。見比べるようにして、真剣な眼をしてみてるの」

 一対だとわかれば、宋丸さんとしては、これは当然一緒にしなければならないと思うだろう。このときギルによるバーネット夫人の話しが脳裏に浮かんだ。ぼくが買った万暦染付の小皿の経緯(いきさつ)である。夫人は血眼になって連れを探し出し一緒にしたのだ。馬上杯は、宋丸さんにしてみれば、修業先の主人が扱いそして自分が扱った思い入れのある品である。二つで一つとして生まれたものであるなら、本来の姿に返すのが本望と考えるにちがいない。だから自分で手に入れエリタージュにおさめ元に戻す。他のひとの手に渡り、またバラバラされることは本意ではない。何とかして避けたい。だから競りに参加した。しかし、どうしても降りないひとがいる。値段も5000万になった。そこで電話で誰が競っているのか尋ねたところ、エリタージュのお嬢さんだということを聞いて、宋丸さんは降りた。たぶん、安心したのかもしれない。だったら自分は買う必要はないと。やはりXiaは、あのとき日本語で会話をしていたのだ。――そう考えると、つじつまが合うような気がしてきた。

 しかし――、本当にそうだろうか。宋丸さんが海外オークションで仕入れたという話は聞いたことがない。昔はあったのかもしれないが、少なくともここ数年はないし、オークションにはあまり関心がないように感じる。オークション会社との繋がりもないだろう。最初宋丸さんに馬上杯の話しを持ちかけたとき、カタログの写真を見るなりエリタージュの方が上だとまったく相手にしなかった。ぼくは両者とも素晴らしいと感じたが、あの目利きにはそうは映らなかったのだ。作品のクオリティにこだわる宋丸さんが、いくら一対だからといって本気で競りに参加するだろうか……。

 う~む……。ぼくは腕を組み、目を閉じ深く息を吸った。先ほどからずっと飲んでいるので、だんだん思考がおぼつかなくなってきている。腕時計に目を落とす。午後11時を過ぎていた。日本は朝7時か。ここは、Reiに電話をして様子を訊こう。宋丸さんが電話ビッドをしていたとしても、おそらく真相はReiには明かされていないだろうが、何か手がかりになる情報が得られるかもしれない。それにReiだって今日の結果が気になっていることだろう。ぼくが携帯を取りだそうと、上着のポケットに手を入れたときであった。ドアが、トントンとノックされた。ルームサービスは頼んでいないが、ひょっとしたら、もう済んだと思われ片づけに来たのかもしれない。まだ飲み切っていないのに。ぼくは最後の一口を飲み干し、大儀そうに椅子から立ち上がると木目の強い部屋の扉に向かった。ドアノブに手をかけ「Did you need something(何か用ですか)?」と言って扉をあけたとたん、「あっ」と小さな声をあげた。

 そこに、いつものクラブチェックの上着に身を包んだSaeの姿があったからである。しゅんとうつむいたまま立ちすくんでいたが、ぼくの顔をみるとSaeは何も言わず眼を潤ませ、いきなりぼくの首に手を回して抱きついてきた。豊かな黒髪が一瞬ふわりと揺れるとぼくの頬をかすめ、巻きつくように顔を覆った。かぐわしいSaeの香りがぼくを包む。Saeの匂いだった。「えっ、ちょっと……、さ、さえ……」ぼくの左肩に顔をうずめていたSaeの両腕に力が入ったかと思ったら、「うっ、うっ……」というかすかなうめき声が耳に入ってきた。それにともない、Saeの両肩が小刻みにふるえた。Saeは泣いていた。その声が大きくなるにつれ、Saeの柔らかな身体がぼくにゆだねられ、その重みをぼくは上半身で感じていた。Saeは小さな呼気をつきながら、やや顔を上げると額をぼくの頬にくっつけた。その瞬間ぼくの眼に、流した涙の痕が映った。それは狭い廊下の薄暗がりのなかで、艶やかな光芒を放っていた。ぼくはそっとなでるように長い髪に手をあてると、もう片方の手を彼女の背中に回して引き寄せた。上着の格子柄の紋様が、まどろみゆく意識のなかで、波うつように揺れ動きながら遠ざかっていった。そのあいだ中、ポケットのなかにある携帯電話が鈍い音を立て振動を繰り返していた。

 

(第47話につづく 6月4日更新予定です)



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