骨董商Kの放浪(44)

 ロンドンに入り3日が経った。下見は今日と明日で終了。明後日は本番である。本日午後2時過ぎの下見会場は、参加者の急増とともに種々な言語が飛び交い、場の空気もいっそう熱を帯びたものになっていた。

 「また、出張中ね」空になっている元染壺のガラスケースを前にSaeが口元を緩めた。昨日の午後から元染の下見者が一気に増したようで、時おり立ち寄るこのケース内には、ほとんどの確率で作品が置かれていなかった。奥にある五つの個室は満室で、昨日挨拶した英国人のヴァイスプレジデントが、個室から次の個室へと壺を抱えながら行き来している。今日の午後から続々と本命と目されるひとが集まってきているのだろう。Xiaの姿もみえないので、個室を占拠している中国人の重要顧客を相手に奔走していることと思われる。

 「やっぱり、凄い人気ですね。漢宮秋」ぼくは方々から発せられる中国語を耳に受けながらマダムに顔を向けた。「奥の個室は、全員中国人ね。今日からXiaさん、大忙しだわ」喧嘩をしているかのように聞こえる歯切れのよい中国語の響きが、周囲に緊迫感を与えている。この光景は、香港ではごく自然に展開されたが、ロンドンではまた異なった感じになるのだろうと想像していた。しかし、遠慮の知らない彼らの剝き出しの熱気は、紳士淑女の社交場たる雰囲気を蹴散らかし、昂然と突き進んでいる。これが、急成長している現在の中国美術市場の実態なのである。

 ぼくは常に注視している馬上杯のケースに向かった。始終近くに寄って見ていると勘づかれてしまうので、遠目から確認する。誰かが下見をしているのだろう、先ほどまであった杯がなくなっていた。昨日の午後から、時どきこうして定位置から姿を消すことがあった。それを見るたびに、ぼくの胸はちくりと痛んだ。マダムはもっと沈鬱な気分になっていることだろう。陳列ケースの奥に設置されているテーブルの一つで、馬上杯を見ている集団が目に入った。5~6人の中国人である。その中央にいるウエーブのかかった長い髪がしきりに左右に揺れている。Lioである。昨日ここで会ったときもLioは馬上杯を下見していた。そのときは3人であったが、今日はまた違うひとたちを引き連れている。同業者なのか顧客なのかわからなかったが、馬上杯に焦点を当てていることは自明であった。

 この場にいる七割が中国系の人であり、三割が欧米人であった。日本人は少なかった。ぼくらをいれても10名もいない。そのほとんどが、30代から40代と業界でも若手の商人だった。その一人がぼくに近寄ってきた。たまに美術俱楽部の個人会で顔を合わせる30歳くらいの、まだ青年の域を抜けてない感じのするDという男性である。異国の地で知った顔を見たこともあるのだろう、普段は話しかけてこないのに、にこやかな笑みをみせながら向かってくる。Dの家は北陸の旧家で、江戸時代から五代続く道具商として知られている。そういう育ちのせいか、若いながらも、叩き上げの商人にはない落ち着きと自信を漂わせていた。それはややもすると傲岸ととれるところもあったが、小賢しいひとたちの多い骨董業界のなかでは、腹黒さを感じさせないタイプの商人として、ぼくのなかでは好意的に映っていた。

 「やあ、来てたんだ。ロンドンに」「はい。2日前に」「何かあるの?」Dは何の衒(てら)いもなく訊いてきた。「いえ、特に……。勉強で」ぼくはそう言うと周囲を見渡し、「でも、日本人は少ないですね」と尋ねた。「うん。10年前までは、この時期になると、主力のひとたちがどっと押し寄せて、賑わってたらしいけどね。ぼくは知らないけど。でも、こう、すっかり中国人に荒らされちゃあ、出る幕なしってとこなんじゃないの」Dは鼻をつんと上げると、いつものクールな言い回しで答えた。「何かお目当てのモノがあるんですか?」ぼくは返した。「そうだねえ……。ここだと、強いてあげるとすれば、万暦の豆彩の馬上杯じゃない? エスティメート安いし」ぼくは陳列ケースに目をやった。まだ、Lioたちのもとから戻って来ていないようだ。ぼくはDに顔を向けた。「競るんですか?」Dはすました顔で、「まあね……、といっても、買えないと思うけどね」「いくらになりますかね?」ぼくは目を据えた。「ふ~ん、どうだろう」Dは腕を組むと首だけを背後に回した。その先には、依然として馬上杯を中心に据え、真剣に向き合っているLioたちの姿があった。「彼女たちが、買うんじゃないの。強いから」「えっ、彼女たちって?」Dはゆっくりとぼくに向き直ると、「中国の業者たちは、みんなで金を出し合って買ってるからね。それですぐ転売して、分けるんだ。だから、少々高くても買えるのさ」と鼻で笑うような言いかたをした。

 美術品は、基本それを好むひとが、自分自身で買う(注文する)ものと相場が決まっている。ただ業者間においては、数人が金を出し合って買う行為がみられる。いわゆる「乗り」と呼ばれる商法である。右肩上がりの中国古美術市場では、優れた品を買っておけば値上がりする可能性は高いため、値の張るモノに関しては、こうした「乗り」が横行しているのだ。そして、その額の規模も年々膨らんでいる。億という単位になると、当然一人の持ち出しも大きくなるわけで、すると幾人かではなく十人以上の「乗り」になる場合も出てくる。そうなると自ずとリスクは高まる。そのうちの一人が金を払えなくなるケースが出てくるからだ。オークションで買い落したはよいが、期限内に払えなくなってブラックリストに入り出禁になったという話しは昨今よく耳にする。これは、オークションにおけるマナーを著しく軽んじている行為であり、こんな例は以前には決してなかったものだ。このように、マーケットが活況になればなるほど、いろいろな弊害が生まれているのは確かであった。

 「あとは、オークションの手数料が高過ぎだよ。20%も取られちゃあ、商売人にとってはお手上げさ」Dは口をゆがめ軽く両手を広げた。ぼくも同感だというように肯いた。

 大手のオークションで買う場合は、20%の手数料がかかる仕組みになっている。つまり落札者は、ハンマープライスという実際額の1.2倍を支払わなければならないのだ。100万で買ったら120万。1000万の場合だと1200万が支払額となるわけである。10年前まで10%だった買いの手数料が一気に20%になったことは、オークションで仕入れをするディーラーにとってみれば、痛恨のルール改定なのだった。「まったく、ですね」そう言うと、「まったくさ」とDはそっけなく答えた。

 オークション手数料が跳ね上がった背景には、コレクターが直接参加し買うようになったことがあげられる。オークション発祥の地イギリスでは、かつては上流階級のコレクターの注文を受け、出入りのディーラーが参加し落札するのがいわば商慣習となっていた。それは日本も同様で、蒐集家たちは概ね下見から競りまで美術商に任せるのが通例であった。よって、つい15年ほど前までは、オークション参加者の大半がディーラーだったのである。だが、最近は個人蒐集家が直接参加し買い落すことが頻発しており、特に中国美術市場はそれが顕著である。手数料の20%は、ある意味コレクターに比重の置かれた設定といえよう。オークションは、もはや美術商ではなく個人蒐集家のための場となっているのだ。

 

 Dがぼくの後ろの方に首を伸ばした。「ところで、きみと一緒にいる女性は、奥さん?」ぼくもその方を振り返る。周囲に目を配るようにして小さな歩幅で歩いているSaeの姿が目に入った。その隣にはマダムがついている。「と、奥さんのお母さま?」Dの問いに、ぼくは大きく手を振った。「いえ、いえ、違います」「へえ……じゃあ、ガールフレンド? きれいなひとだなあ、やるねえ、きみ」「いや、違うんです……」確かに周りから見れば、ぼくら三人は何やら興味深い対象として映っているのかもしれない。「実は……お客さんというか、そんな感じで……」「ふ~ん……」Dは再びSaeたちに視線を投げると、「なんか、えらい、セレブな感じだね。やるねえ、きみ」とぼくに目を移し、「それじゃあ、彼女たちの注文を受けて来たってわけかい?」と問うた。「まあ、そんなところです」話が長くなりそうだったのでその辺で打ち切ろうと思い、ぼくはきっぱりと答えにっこりと笑った。そのとき、Dの左肩の5~6メートル奥から、こちらに視線を注いでいる男性が目に入った。50過ぎくらいか、ダークグレーのスーツを着こなした髭面の欧米人である。胸には薔薇色のハンカチーフをさし、両手をポケットにつっ込んで不敵な笑みを浮かべながら、先ほどからこちらをじっと見ている。

 「さてと……じゃあ、ぼくはこれから、サウケンに下見に行くよ」とDは片手をあげた。――「サウケン」とは、サウス・ケンジントンの略で、そこにはB社の支店があり、そこでサブのセールが3日後に開かれるのだ。こちらは、比較的安価な品が多く出るので、若い日本人ディーラーたちは、皆そこを目当てにロンドンに来ているのだろう。「きみも、下見に来たらいいよ。ブリストルの個人蒐集家のワンコレクションが出ていて、けっこう面白いモノがあるから」「ありがとうございます。明日行こうかと思っています」Dは二三歩進んでから急に立ち止まり、踵を返し振り返るとぼくの顔をみつめた。「思い出した。あの、女性……」Saeの方に指を向ける。「あのひと、ひょっとして、エリタージュハウスのお嬢さんじゃない?」「はあ……」と肯くぼくの顔をみて、「やっぱり、きみ、やるねえ」Dはそう言って会場から出て行った。

 

 Dがぼくの前から去るのを待っていたかのように、先ほどからこちらを窺っていた欧米人がニヒルな笑みを浮かべながら近づいてきた。「わたしは、こういうものです」差し出された名刺を受け取る。イギリス人の美術商で、ボロウという名であった。「はじめまして、こんにちは」ぼくも名刺を渡した。彼はぼくの名刺を一瞥するとすぐにポケットにしまい、「日本人の業者もずいぶんと若くなったものですな」と薄い笑みをつくった。彼の言葉に少しなまりがあるように思えたのと、その物言いが何か見下すような感じがして、ぼくは眉間に皺を寄せた。ボロウは片手をポケットに入れ、もう一方の手で顎髭を触りながら、唇の端を少し上げるようにして話し始めた。

 「昨日、あなたは、ギリンガムさんの店で二つの小さな皿を買いましたよね?」ぼくが肯くと、「それを一枚分けてもらえませんかね?」と言ってきた。「どういうことですか?」ボロウは少し胸を張るようにして、「いえね。わたしはあなたが買った前日にギリンガムさんのところで、その小皿を見ているのですよ。そのとき、一枚だけでも結構ですと言われて、リザーブを入れたんです。そうしたら、あなたが二枚とも買ったというじゃありませんか。だから、その一枚を譲ってもらえないかとね。もちろん、相応の利付けをさせてもらいますよ」――そんな話はギルから聞いていなかった。

 ぼくが当惑していると、「どうしたの?」とSaeが隣にやってきた。すると、ボロウは急に表情を変え満面の笑みを浮かべると、両手をすり合わせて一歩歩み寄る。「ああ、これはこれは、奥さまでらっしゃいますか。実に、おうつくしい」Saeは眉をひそめた。「今ね、ご主人さまに頼んでいたのですよ。昨日ギリンガムさんでおもとめになった小皿のことを……」ボロウの話しを聴いているSaeの表情がみるみるこわばっていった。

 「わたしのお客さまから注文が入りましてね。一枚だけ欲しいというのです。ギリンガムさんに言いましたら、それなら買ったひとと交渉してくれというのでね」そこでSaeが言下に言い放った。「お断りします!」「しかし、二枚もあるのですから、一枚くらい譲っていただいても、よろしいのでは?」ボロウは瞳だけをぼくの方に動かすと、「あの値段ではなかなか二枚で売れないでしょう?」と目を細めニヤリと嗤った。それを見るなりSaeは、「もうすでに、売れましたので。二枚一緒に。ご心配なく!」ときつい目で応答した。「さあ、行きましょう」Saeはぼくの腕を引っ張りその場から離れようとすると、ボロウは「おやおや、気の強いワイフだ。本当に、お願いしますよ。一枚ずつ持とうじゃありませんか」Saeがくるっと振り返る。「あなた、今のわたしの言葉が耳に入らなくて? もう買い手がついたと言ったでしょ?」彼女の怒気を含んだ物言いに、ボロウは再び薄笑いを浮かべ、「そうですか……。わかりました。そういうことなら、仕方ない。それでは――、わたしも、万暦の馬上杯を競わさせてもらいますよ。ハハ」語尾の笑い声を無視するように、Saeは急ぎ足でマダムのいる方へ向かった。

 「何かあったの?」マダムが心配そうに駆け寄ってきた。「ううん、たいしたことではないわ」Saeはいったんマダムに笑顔をみせたあと、両拳を握りしめ、「なんなのよ、あいつ。ギルがそんなこと言うはずないじゃない。あんなに大事にしていたお皿のことを。それに、なに? あの喋り方。東北なまりね、気障な田舎者め!」といきり立った。「でも、どうして、ぼくらが馬上杯を競るなんて知ってるんだろう」ぼくはあの言葉が引っかかっていたのだ。「知らないわ!」Saeの怒りはすぐにおさまらず荒い息を吐いている。しかし、なぜ知っているのか……。まさか、B社の情報が漏れたのではなかろうか? そう考えているとき、Xiaが早足で近づいてきた。

 「どうされましたか?」「ううん、なんでもないわ」Saeの表情を読み取り、Xiaはぼくに目を合わせた。「いや、今、あっちにいる、髭をはやしたイギリス人ディーラーが、馬上杯を競りますよって。ぼくらが競るのを知っているかのような口ぶりで言ってきたので」Xiaは向こうにいる赤いポケットチーフに目を留めた。「ああ、あのひとですね。会場でよくみかけます。ヨークのディーラーです」Xiaは小さく頷くと、Saeに顔を向けた。「あのひとは、そんなに強くは買いませんよ」ぼくは訊く。「でも、なんでこちらが馬上杯を競ることを知っていたんでしょうか?」Xiaが視線をボロウの方に向け、「たぶん、皆さんの行動をつぶさに見ていたんでしょうね。それで、鎌をかけたのかもしれません」「こちらの情報が流れているということはありませんか?」ぼくの疑問にXiaは強く首を横にふった。「オークション会社から漏れることは一切ございません。それがわれわれの仕事ですので」マダムがSaeに優しい眼を投げる。「Saeさん、オークション会場には、いろんなひとがいるから。気にしないことよ」「ううん、全然気にはしてないわ。大丈夫よ」Saeは片手を開いて応えると表情を元に戻し、Xiaに尋ねた。「Xiaさん、今の時点で、馬上杯の注文は入っているの?」「はい。アブセント・ビッド(absent bid)が3件入っています」Xiaは冷静な目で答えた。「でも、いずれもそう高くない金額です」

 当然こちらの数字はXiaに伝えていない。しかし、ぼくらの本気度をみて彼女なりに想定しているのだろう。その答えを聞く限りは、たぶん安いエスティメートの範囲内か、それを少し超えたところまでの数字だろうとぼくは思った。Xiaが付け加えた。「あとは、なんといっても、明日の最終日です。下見が完全に終了した時点で、またお知らせします」「お願いします」ぼくらは頭を下げた。

 

 その日の夕食は、ピカデリー通りに面した日本料理屋であった。こちらに駐在している日本人がよく利用する店で、定食、寿司、天麩羅、蕎麦、うどん等、一般的な日本料理ならひと通り揃っている。だいたいの食事が終わり、ぼくが締めのざる蕎麦をすすっていると、マダムが湯呑みを両手で包み込むようにして、ぼそりとつぶやいた。「馬上杯、どうかしらねえ。買えるかしら……」窓側の方を見やっている。あたりに並ぶテーブルはほとんど埋まっており、がやがやとした人の話し声が断続的に聞こえている。日本人に交じって欧米人も何組かおり、皆楽しそうに食事をしていた。しかし、マダムの目線は彼らにではなく、ずっと遠くに当てられていた。

 Saeはデザートのいちごに小さなフォークをさすと、「買えると思うわ。3000万円は、エスティメートの上限の10倍でしょ。父に訊いたら、もし自分が買うんだったら、2000万がいいところだろうって。それでも、エスティメートの下値の10倍よ。コレクターの値段もそのあたりじゃないかしら」そしていちごを口に含んだあと、「あとは、中国人ね」と言った。「本当に、そこよ」とマダムも同意する。

 ぼくの頭に先ず、Lioの姿が浮かんだ。「実は、昨日から香港の女性ディーラーが目星つけているような下見の仕方をしてるんだ。彼女は結構強いよ」二人がぼくの顔を見る。「それは、かなり脅威ね……」マダムが俯き、Saeも手をとめ何やら考えている。そして口を開く。「日本円で3000万というと、ハンマーは……、12万ポンドかしら」現在1ポンドがだいたい206円なので、オークション手数料20%を加算すると、12万ポンドがほぼ3000万円に相当する。それを受けマダムが、「いざとなったら、もう1ビッド。13万ポンドまでは覚悟するけど、それ以上になったら……無理だわ」とため息を吐いた。Saeがなだめる。「大丈夫よ。今日の時点では、強いビッドが入ってないわけだし……。Xiaさんはあと一日の間に入ると言ってたけど、3000万といったら、コレクターズ・プライスよ。いくら香港のそのディーラーが強いといったって、業者値段でそこまでは踏まないと思うけど」

 Dも参戦はすると言っていたが適度な金額までだろうし、ボロウは口先だけのようである。肝心のLioであるが、香港で話したときは、興味はあるがおそらく買えないというような言い方をしていた。ただ今日の下見の状況をみると、業者連の「乗り」も考えられる。しかしこれも、あくまでも商売になる金額までだろう。高買いはしないにちがいない。Saeの言う通り、3000万は立派な値段で、まさにコレクターズ・プライスだ。――となると、これまで聞いた数字なかでは、宋丸さんの言った5000万が最高額であるが、これは絶対買い落すための宋丸流の付け値であって、三代目もなかば法外と驚いていたわけであり現実的とはいえない。あとは本当に、中国人コレクター同士の、バカみたいな意地の張り合いの対象にならないのを願うばかりだ。

 ぼくは、香港で初めて馬上杯の話しを聞いたときにマダムの語った言葉を思い出した。「ねえマダム、一番最初、香港で話をしたときに、馬上杯を持っているひとがみつかったら、そのひとに頼みたいことがあるって言ってたじゃないですか。それって、どんなことですか?」「うん、あれね」マダムはぼくとSaeの顔を交互にみながら、「うちの主人の仕事にも関係しているんだけど、ほんと近い将来SNSが飛躍的に普及していく時代がくると思っているの。だから、もし持っているひとが承諾してくれて、そうした媒体を使って世界中に呼びかけることができたとしたら……姉に会える可能性は拡大に広がると思っていて……」「なるほど。インターネットの力を使うってことですね」Saeは大きくうなずいた。「そう。今アメリカでは、様々な大学生の間で、自分の情報や相手の情報を、そのサイトの参加者に向け公開し合うことのできるシステムが始まっているの。自分の直接知らないひとへ向けて。これは、今後世界中でおこなわれるようになるって主人も断言している」マダムは、テーブルに置かれた携帯電話を手に取ると、「このフューチャーフォンだってここ数年で進化しているけど、携帯電話の形態もより機能的に変化していって、ここからSNSを利用することだって可能になるはずよ」ぼくは自分の携帯を取り出して見た。これは海外用に空港でレンタルした機器である。携帯で海外電話やメールのやり取りができること自体非常に便利であると思っているが、それがもっと進歩的になるのだろうとぼく自身も思っていた。これからはこの小さな機器一つで、世界中のひとたちと繋がることができるようになるのだろう。

 「だから……、見ず知らずの中国人に買われては、困るのよ……」マダムは眉根を寄せて宙をみつめると、ため息を吐きながらぼそりと言った。まったくその通りだとぼくは思った。「たしかに、そうですね。非公開主義者の持ち物になったら、それができないですものね」それを受け、そっと瞼を閉じたマダムの顔を、Saeは思いを込めたまなざしで、しばらくじっとみつめていた。

 

 レストランを出ると、ようやく暮れたロンドンの空に、ぼんやりと黄色い上限の月が浮かんでいた。ぼくらは月を正面に見ながら、ホテルまでの道のりを歩いた。途中近道をするため細い路地に入ると途端にあたりは暗くなり、数メール先も見えづらい道がしばらく続いた。少々物騒に思えたのか、Saeがぼくの横に少し身体を近づけてきた。前をいくマダムのトレンチコートのクリーム色も深い影に覆われている。その長く狭い通りをようやく抜けると、車が一台通れるほどの通りに出た。小さな店がぽつりぽつりと並んでおり、一つ先の角にあるスーパーから漏れる明かりが、路面をうっすらと白く包んでいた。

 その前を通りかかったときである。「きゃっ!」とSaeがぼくの腕にしがみついてきた。驚いて路上を見ると、年老いたホームレスが石のように座り込んで、じっとこちらを見上げていた。ぼくが大きく一つ息を吐(つ)く。「ああ、びっくりした」そのときスーパーの扉が開き、ビジネスマンらしき背広姿の青年が出てきた。彼は、お釣りのコインを片手でもてあそぶようにしながら屈むと、浮浪者の前に置かれたブリキの箱のなかに落とした。そして笑顔をみせ、「どう? 商売?」と訊いている。それに対し老人もすすけた歯をみせ笑みを浮かべている。それを見たSaeが、歩き出してからクスっと笑った。「ふふ。ああいうところ、欧米らしいわね」

 するとSaeは「あっ、そうだ」と言って急に立ち止まった。「わたし、今日、間違えられちゃったんだ」「えっ?」と訊く。「あのムカつく気障なやつにだけど」Saeはそう言うと、いったんぼくに向けた掌を、自分の胸に当てた。「――ワイフ、ですって」と、笑みをこらえるようにしてじっとぼくをみつめる。それを見て、マダムが両手で口を覆い、声を出して笑った。「あっははは。そうよねえ。そう思われるわよねえ」そして、ぼくら二人を眺めるような目でみてから、「……そうすると、わたしたち三人は、まわりには、どんなふうに映ってるのかしらねえ?」「それなんですけど。下見会場にいたちょい上の同業のひとに、あのセレブな二人は、きみの奥さんとお母さま? って最初言われました」ぼくの答えに「やっぱりねえ」とマダムが笑顔でうなずきながら、「オークションの下見会場では、どうみても、奇妙な取り合わせだもの、わたしたち三人組。けっこう注目の的になっていると思う」それを聞きぼくは膝を一つ叩いた。「ああ、だから、あのヨークの業者に目をつけられたのかぁ……。それで、馬上杯を競るかもって思われたんだ」Saeがぼくの上着の袖を引っ張った。「ねえ、Kさん」「ん?」「それで、なんて答えたの?」「えっ?」「だから、きみの奥さんとお母さま、って訊かれて」「ああ、だから、説明するのも面倒だったから、あの二人は、ぼくのお客さんだって言っといたよ」Saeは大きな瞳を一度瞬きし、「そうしたら、なんて言ってたの?」「やるねえ、きみって言ってたけど……」ぼくはそのときのDの顔を思い出しながら、「ああ、やっぱり、出入りの商人か、みたいなクールな目でみていたな」と言った。また、ボロウもぼくのことを「ご主人」と言ってはいたが、その目には、こいつは上流階級にかしずく一介の商人にすぎないという蔑みが感じられた。特段気にはならなかったが。

 それを聞いたSaeは何かを考えるふうに歩を進めていたが、「ねえ」と言うと立ち止まり、くるっとぼくの方に体勢を向けた。ぼくも思わず立ち止まる。そして相対するとSaeは一歩踏み出し、ぼくの両腕をしゃんとつかんで真面目な顔で言った。「じゃあ、堂々としていて」「ん?」「イギリスでは、アート・ディーラーという仕事は、格式が高いんだから」「はあ……」「英国皇室御用達のお店だってあるのよ。Kさんの仕事は、とてもかっこいい職業なの。だから、いつでも、そういう気持ちでいてほしいの」何か先生に諭されている生徒のような気分であったが、ぼくは「うん、わかった」と素直に答えた。Saeは「よろしい」とうなずくと、再び前を向いて歩き出した。その背中をみて「あっ、そうだ」と今度はぼくが思い出す。「その、ちょい上の同業者から、きみのこと、ひょっとして、エリタージュのお嬢さんじゃない? って、最後に訊かれた」「それで?」「はあ、て、うなずいたら……」「で、そのひとは、なんて、言ってたの?」「やるねえ、きみ、って感心したような顔をして出て行ったよ」Saeは、「ふ~ん。なんだか、面白いひとね」と言うと、おかしそうに口元に手を添えてうふふと笑った。

 

 二人をメイフェアのホテルまで送り、それから10分ほど歩いて自分の宿泊先近くにある公園の入口にさしかかったところで、ジャケットのなかの携帯電話が振動音をたてた。ぼくは携帯を取り出す。これはレンタルした電話であるため、この番号を知っているひとはごく限られている。今別れたばかりのSaeかマダムか、何か言い忘れたことでもあったのだろうか。携帯を開き耳に当てる。女性の声がした。「もしもし……」その声を聞き「あっ」と反応する。Reiであった。「もう遅い時間でしょう。ごめんなさい。今、大丈夫ですか?」ぼくはそのまま公園のなかのベンチへ向かう。「大丈夫、大丈夫。しかし……そっちこそ、朝早いんじゃない?」ぼくの腕時計は午後10時半をさしていた。ということは、時差が8時間あるから、日本は午前6時半か。「そうね。朝起きたところ」Reiの元気な声が耳に心地よく入ってきた。

 Reiと話しをするのは、ロンドンに発つ前日以来である。5日ぶりだ。「もうそろそろね。オークション」Reiの声にぼくは答える。「うん。下見は明日までで、ついに明後日が当日」「どんな感じなの? 馬上杯?」「今のところ、まだ、そんなに強いビッドは入ってないようだけど。明日になってみないと……。う~ん、でも、やっぱり、当日にならないとわからないんじゃないかなあ」「そうよねぇ。買いたいひとは、ギリギリまでそぶりはみせないものね」「うん、まあね。本当、始まるまで予想はできないよ」

 すると、Reiが小さな笑い声をたてた。「変なのよ、宋丸さん……」「えっ、どういうふうに?」「毎日ね、『馬上杯は、いつだよ、いつだよ』って、訊いてくるの」「へええ、エリタージュの方が上だって一蹴してたくせに。興味、もってるんだ」「そうみたい。ここのところ、一日中カタログの写真とエリタージュのものが出ている展覧会図録の写真を横に並べて。見比べるようにして、真剣な眼をしてみてるの」「ずっと世に一点しかないって思い込んでたのが、もう一点あったから、興味もったのかな。今回のやつが良いことがわかってきたのかもね」――ぼくは実見してみて、両者とも甲乙つけがたいほど美しいと感じていたのだ。「昨日もね、『いつだよ』って言うから、明後日です、って答えたら、『何時だよ』って、時間を訊いてくるの。だから、イギリス時間で午前10時開始だから、馬上杯の順番までは2時間くらいかなあと思って、日本時間で、だいたい午後8時くらいじゃないですかって答えたのよ」「うん、たぶん。そんなもんじゃないかな」「そうしたらねぇ……」Reiは一度大きな笑い声をたてたあと、それをこらえるようにしながら、「『おい、それは、生中継されるのかよ?』だって。もう、笑っちゃったあ」ぼくも笑った。「生中継? オリンピックじゃないんだからさあ、オークションが中継されるわけないじゃん。さずがの発想だな、宋丸さん」「なにやら、パソコンとインターネットのことを言ってると思うんだけど、『今は、小さなテレビで何でも見られるんじゃないのか?』だって」「ハハハ」ぼくは笑いながらふと考えた。先ほどのマダムの話ではないが、今後IT技術が長足の進歩を遂げれば、海外のオークションも携帯電話の画面でライブ参加できるようになるのかもしれない。宋丸さんの突飛な発想もあながち的外れなものではなく、時代の先端をいっているのかもと思え、ぼくは笑うことをやめるとしばし夜空を仰いだ。

 「今回は、何か良い仕入れできました?」Reiの問いに、ぼくはわれに返ると思い出し、「ああ、そうそう。香港で、すごい鉅鹿、手に入れたよ」と声を弾ませて答えた。「えっ、それは、どんなモノですか?」とReiがすかさず訊き返す。「これはねえ、なんとも、言葉ではあらわせなくて。見ないと……。とにかく強烈な染みの入った鉢」「どんなふうに、ですか?」「だから、それは言葉じゃ伝えられなくて。とにかく、見たらびっくりする」ぼくの頭に、雪原に林立する樹木の景色が浮かぶ。「でも……、宋丸さんには、刺激が強すぎるかも」「ええっ! 宋丸さんに、刺激が強すぎって……、よけいに気になるわ。ねえ、どんな感じの染みですか?」「だから、それは……見てのお楽しみってところかな」「ほとんどが染みに覆われてるとか?」「そうではないけど。でも宋丸さんが見たら、トゥーマッチって感じで、相手にしてくれないかもね」それに対しReiはしばらく突っ込んでいたが、やがて他愛のない話題に移り、最後に「それじゃあ、Kさん、明後日また電話しますね」のReiの言葉で会話は終わった。ぼくは小型電話をジャケットのポケットにしまうと公園の出口へ向かった。先ほどより高さを失った弓張月が、目の前でほんのりと輝いていた。

 

 下見最終日である14日。朝、ぼくはいつものようにレストランで朝食をとった。目の前のプレートには、昨日からソーセージが一本加わり三本になっている。けっこうなボリュームだ。その二本目にナイフを入れたとき、テーブルに置いてあった携帯が光った。Saeからである。「どうしたの?」と訊くと、マダムは、今日は気分がすぐれないので下見会場には行かずホテルの部屋で一日過ごすとのこと。「きっと、前日で気が昂っているせいだと思うわ」Saeはしんみりと言う。「うん。気持ちが落ち着かないんだろうな。その方がいいよ」「じゃあ、わたしたちは、予定通りということで」Saeは電話を切った。

 今日ぼくは午前中にサウケンの下見をし、12時に大英博物館の入口で彼女と待ち合わせ、鑑賞後に遅めの軽い昼食をとってから、下見会場に行くというスケジュールであった。昨日のボロウの発言ではないが、毎日のように会場に張りついているのも妙に思われるし、今日の目的は終了時間間際にXiaから最終情報を得ることだったので、午後5時のクローズの二時間前、午後3時くらいに行くのがよいだろうとSaeと取り決めていたのだ。

 

 下見会場に着いたのは、予定通りの午後3時だった。会場内には、昨日とは違った熱い雰囲気が漂っていた。終盤の緊張感を含んだ喧騒が、そこかしこにあふれている。さっそく馬上杯のケースまで行く。端然と置かれていた杯をみて、ぼくらは少々安心する。もう充分下見をされたせいではなかろうが、不思議と昨日よりも綺麗に感じられた。いや、その思いは日ごとに感じられた。それはまるで、多くのひとの目に触れることで輝きを増していく見目(みめ)麗しい女性のようであった。だから、ぼくは杯にじっと眼を据え心のなかで祈りを捧げだ。このある種のフェロモンは、どうかぼくらだけに強く注いでいますように、と。

 その後ぼくはSaeと離れ、元染壺の飾られている独立ケースへ向かった。ここはやはり人気のようで、またもやなかは空の状態だった。本気で獲得するひとたちによる最終チェックが、奥の個室でおこなわれているのだろう。やがて、ヴァイスプレジデントが壺を持って現れ、ケース内の定位置に戻した。ただちに、手に取ることの出来ないひとたちによって人垣ができる。その光景を後ろから眺めていると、ひとりの老紳士がぼくの横に立った。ギルである。ぼくが軽く頭を下げると、ギルは笑みを浮かべながら壺に目線を送り、慇懃な口調で話しを始めた。

 「この壺ですがねえ、これはわたしのずいぶんと若い頃に取り扱った品でございますよ」「これを……ですか?」ぼくは少し驚いて尋ねた。「正確にいうと、当時わたしの勤めていた会社ですがね。もう50年くらい前でしょうか。まだイギリスの良き時代でしたよ。買われたお客様はまもなくお亡くなりになり、お宅も移られてしまって、この名品の行方が長らくわからなくなっていたのです。それが……、つい昨年のことでした――」ぼくの視線が、元染からギルへと走る。「ここのオークションハウスのスタッフから連絡をもらいましてね。見ていただきたいモノがあると……」「はい」「それが、この壺でした。わたしは、驚きました。どこにあったのですか? と尋ねますと、スタッフは、『これは、あなたの会社で扱ったモノでしょうか?』と逆に質問されたのですよ。わたしどもの会社の古いシールが、底裏に貼ってあったのです。わたしは、はい、と答えました。紛れもない元青花の元曲図様の一点物ですから、忘れることなどございません。するとスタッフは、『これを手に入れた方のお子さんの一人がこちらに持ってこられたのです』と言ったあとに、『その家のどこにあったと思いますか?』と訊かれたのです。わたしが首を傾げていると、スタッフは笑いながら答えました。『長年、その家の傘立てに使われていたのです』わたしは、えっ! と言って天を仰ぎました。そして、思ったのでございます。高尚な趣味というものは、なかなか二代は続かない、一代限りのものかもしれないと……」「……」「わたしは、尋ねました。それで、この壺は、どうされるのですか? と。――はっはっはっ。それは、まったくの愚問でございました。『今度のオークションセールに出品します』という解答に、わたしはホッと胸をなでおろしたのでございます。今だと驚愕の価格になり、おそらく中国の資産家の手にわたることになりましょう。そしてそれがまた、すぐに転売されるやもしれません。しかし……、再び傘立てに使われることはなくなるでしょう」ギルはそう言うと、丸い背を揺らしながらゆっくりとその場を離れた。

 

 ラスト一時間というタイミングで、Dが現れた。「最後になると、けっこうな賑わいをみせるね。明日は盛り上がりそうだな」沈着な様子であたりを見回すと、ぼくをみつめ「馬上杯、競るの?」とストレートに訊いてきた。「……はあ、まあ……」曇りのないDの眼をみて、姑息な手段を使って邪魔などしないだろうと思い、ぼくは正直にそう答えた。「エリタージュのお嬢さんがバックにいたら、きみの勝ちだね」「そうでしょうか?」「業者価格にはならないだろうから。ぼくは降りるよ」そして、「あとは上海のウーさんさえ来なければだけどね」と言った。「上海のウーさんて?」ぼくの問いにDはやや自慢げに答えた。

 「たぶん、元染の壺はウーさんが買うだろう。あとは、馬上杯。これも、滅多にないモノだから、ウーさんが目をつけたとしたら、きみは買えないね」ぼくは言葉につまった。それは最も恐れていたことだったからだ。どこまでも競る中国人の成金コレクターが相手となったら、マダムの額を簡単に超えていくことだろう。

 「その……上海のウーさんて、香港に出た成化豆彩の馬上杯を買ったひとですか?」「ああ、そうだよ。16億円したやつ。彼は今、飛ぶ鳥を落とす勢いだからね」ぼくは眉間に皺を寄せると、覗き込むような目線をつくった。「……来ますかね? ウーさん」それに対し、Dはあっけらかんと答えた。「まあ、それは、わからないけど。来たら買えないし、来なけりゃ買えるさ」それを聞いてぼくは腕を組み、しばらく俯いて考え込んだ。う~ん……。しかし、今さら考えてみたところで、どうしようもない。ここまできたら、運を天にまかすしかないのだ。

 そんなぼくの心情を意に返すことなく、Dは首を左右に動かしている。「そういえば今日、彼女のお母さまいないね」「はい。今日はきていません」Saeの姿をみつけたDが「いいの、彼女ひとりにしておいて」と訊いた。ぼくが「はあ」と言いながらDの視線を追ったとき、昨日の顎髭のイギリス人ディーラーが、ちらりとこちらを睨むようにして、ぼくらの目の前を通過した。今日はショッキングピンクのポケットチーフをしている。相変わらず薄ら笑いを浮かべているその後ろ姿をみつめながら、Dに訊いた。

 「今、前を横切ったイギリス人業者、知ってますか?」Dは、こともなげにこたえた。「ああ、ドロボウさんね」「ドロボウさん?」「うん。本当は、ボロウという名前のヨークの業者だよ。まあ、平たくいうと詐欺師だね、あいつ。口八丁手八丁で金持ちの家から名品をただみたいな値段で抜いてきて儲けてるやつ。だから、ぼくらの間では、ドロボウと呼んでるんだ。気をつけた方がいいよ」「それはうまいニックネームですね」さっそくSaeに教えてあげようと思い手を叩いて大受けしていると、Dは、何がそんなにおかしいのかというような目でみていたが、ほどなくしてぼくの肩を叩いた。「おい、向こうでお嬢さんが呼んでるよ」みるとSaeがこちらに向かって手をあげている。「じゃあ、失礼します」頭を下げるぼくに、Dは「グッド・ラック」と言って片手を開き、人差し指と中指を交差させた。

 Saeのところにいくと、「あのひとが、やるねえ、きみ、のひと?」と訊く。「そうそう。昨日言ってたちょい上の同業者」SaeはDの方を見やると「ふ~ん」と、さして関心のなさそうな返事をしてから、隣に立っている恰幅のよいイギリス人を紹介した。「このひとはね、こちらB社のチャアマン。つまり、一番偉いひと」チャアマンは優しく微笑むと、握手をもとめて手を伸ばした。年齢は60歳を少し超えた感じか。茶系のサマーツイードのジャケットが、幅広の鼈甲縁の眼鏡とマッチしている。柔和だが貫禄のある笑顔に、ぼくは少々顔をこわばらせながら右手をさしだした。チェアマンは握る手に力をいれ、「遠いところをようこそおいでくださいました」と言っていっそう微笑むと、「なにかこちらでできることがあれば、遠慮なくお申しつけください」と丁寧な言葉遣いで言った。「どうもありがとうございます」ぼくは、恐縮というふうに頭を下げる。それからしばらくチャアマンとSaeは話をしていた。そして、終了10分前になって、それまで姿の見えなかったXiaがぼくらの前に現れた。

 「こちらへどうぞ」Xiaが個室の一部屋にぼくらをとおした。終了間近であるのに、隣の個室からは中国語の大きな声が聞こえている。ぼくらが腰かけると、Xiaは抱えていたファイルを開き最終報告をした。「最終的に、アブセントは8件入りましたが、おそらくそこまで強い額ではないかと思います」アブセント・ビッド(absent bid)は、当日参加できないひとが書面で入れる金額である。本気で買うひとは、電話か会場で直接競るので、アブセントの指値はそれほど高くないのが通常である。

 Xiaは続けた。「そして、電話ビッドの参加が3件入っています。電話ビッドなので、どこまで競るのかは読めませんが、うち2件はおそらくそう高くは来ないと思います。「ただ……」そこでXiaは目線をそらし口を噤むと、いったん間を置いてからSaeの瞳に焦点を合わせて言った。「1件は、強いビッドをしてくる可能性は高いです……」それを聞いてSaeは冷静に「そう」とうなずくと、「いくらくらいまで来るでしょうか?」とXiaをみつめた。Xiaは細い首をやや傾けたがすぐに戻し、「わかりません……」と低い声で答えた。

 そこでSaeは、大きく息を吸い込むと結ぶ唇に力を込め、目を上に向けたまましばらく黙っていた。やがて眉根を寄せると、射抜くようなまなざしでXiaをみつめ、重い口を開くようにして尋ねた。「それは……B社の重要顧客(プロミナント・コレクター)?」それに対し、Xiaは数度瞬きをしたあと、目を伏せて答えた。「申し訳ございませんが、お答えすることはできません――」このときぼくは、先ほどDの言っていた上海のウー氏のことが頭をよぎった。Xiaのこの様子をみて、ウー氏の電話ビッドが入ったと思ったのだ。相手が大手オークション会社の大物顧客であるなら、どうあがいても太刀打ちできまい。Dは言っていた。来たら買えない、来なけりゃ買える、と。――それが来てしまったのだ。勝負ありか……。とぼくは落胆のため息を吐いて肩を落とした。Saeはもう一度深呼吸をすると、「わかりました」と言って立ち上がり、まっすぐに出口へと向かった。

 

 先ずはホテルに戻り、マダムに報告をしなければならない。ぼくらはひどく沈んだ面持ちで、ホテルまでの閑静な道のりを黙々と歩き続けた。小雨が降っている。しかし、この程度の雨は強くならずにすぐやむだろうというのを、ぼくはここ数日の滞在で重々承知していた。イギリスでは日常なのだろう、誰も傘をさしてはいない。Saeはずっとジャケットのポケットに手を入れたまま無言で歩いていたが、ホテルのすぐ近くにある目印となっている大木の下に来たところで、唇の端をキュッと上げて言った。

 「さあ、ホテルで美味しい紅茶を飲みながら、考えましょう」Saeの黒い髪についた微小な雨粒が、暮れなずむ日の光りを受けて、きらきらとガラスのような輝きをもって揺れていた。ぼくはその透明な粒の塊りをみつめながら、「うん。そうだね」と気を取りなおすようにうなずいた。「でも……、強敵出現って感じだな」Saeは、ぼくの言葉に「まあね」と言うと天を見上げた。顔中に降り注がれる細かい雨をまるで光のように浴びながら、暖かく深い笑みをたたえてはっきりと言った。「もう、何も考えない方がいいわ。答えは一つよ。あの馬上杯は、本当に欲しいと思ったひとのところにいくということだけ」ぼくは、Saeの、この包み込むような泰然たる微笑が好きだった。「うん。その通りだ」大きく肯くぼくの顔をみながら、Saeは言った。「だから、この件は、マダムには伝えないわ――」

 

 今日は、ホテルのバーで軽い食事をとることになり、ぼくとSaeは先に入りマダムを待つことになった。室内は、厳かな外観を思わせるシックな装飾が施された落ち着いた空間だった。内部の壁面にあるヴィクトリアン調に装飾された本棚には、イギリス文学の古典が並び、壁にはイギリス画家の作品が掛けられ、アホガニー材で仕上げられたテーブルは、艶やかな赤褐色で覆われている。金髪の女性が紅茶の載った銀のトレイを持って現れ、ひとつひとつ静かにテーブルに置いた。

 ぼくもSaeもうつむいたまま、ある一定の時間をかけながら、同じ動作でもって、一口そして一口とカップを口に運んでいた。こんなふうだったので、味など感じないと思っていたが、普段紅茶をあまり飲まないせいなのか、イギリスの水が紅茶によほど合うのか、どちらともわからなかったが、ぼくはこのとき不思議と紅茶が美味しいと感じたのである。ひょっとしたら、先ほどのSaeの悠揚迫らぬ態度がそういう気にさせたのかもしれない。しっかりと味気のある紅茶を口のなかで感じていると、深紅のカーディガンを纏った女性が入ってくるのが目に映った。マダムが軽く笑みをみせながら近づいてくる。カーディガンの緋色が鮮やかにみえたのは、決してそれ自体の色だけではなく、少し血色を失ったマダムの顔の白さのせいかもしれないとぼくは思った。

 「いかがですか? ご体調」Saeが腰を浮かせて尋ねた。「ごめんなさいね。心配させて」「なんか、顔色がよくないみたい」Saeが覗き込む。「ううん。もう大丈夫。ちょっと、朝の寝覚めが悪くってね……」マダムは注文をとりにきた女性に、アッサムと言って、厚手の上着を胸のところで深く重ねると、張りのない声で尋ねた。「どうだった? 馬上杯の状況は?」Saeが笑顔で答えた。「特に、変わらないわ。何件かの電話ビッドが入ったみたいでしたけど……」マダムはそれを聞き「そう」と力なく答えた。それはまるで、とるにとらない質問をしたときにつく、にべない相槌のような言い方だった。

 やがてマダムのアッサムティーが運ばれてきた。ミルクを容れようと右手を伸ばしたとき、上着のなかの黄色いブラウスに飾られた大きな翡翠のブローチが顔をのぞかせた。香港で初めて会った中華レストランで、そして、Saeのところに馬上杯を確認しに来たときにしていたあのブローチである。「本当に素敵ですね、その翡翠のブローチ」Saeがうっとりと眺める。この翡翠の色は、さらりとした浅く透明な緑ではなく、緑の筋がいくつか内包された深く美しい色をしていた。マダムは右手で胸の上を包むようにして、「今日はなんとなく、そんな気分なの」とささやくように言った。マダムの顔に一瞬赤みがさした。マダムはミルクのたっぷり入った暖かい紅茶を一口飲むと、「今日の朝ね、姉の夢をみたのよ――」と頬を緩ませて話を始めた。

 

 「よくね、小さいときに、家族で頤和園(いわえん)にピクニックに行ったのよ。夢のなかで、わたしはまだ7つか8つかで、姉はもう小学校の上級生だったわ。姉が『今日はみんなで頤和園に行くから早くしなさい』って、わたしの手を引っぱってるの。『お祖父さまもお父さまもお母さまも、先に行って待ってるから、あなた、早く支度をして』って優しい目で促すの。わたしは、もう行きたくて、行きたくてしかたないのよ。でもね、どういうわけか、家を出ようとすると、なにか忘れ物をしているような気がして、また戻ってしまうの。それでまた家を出ようとすると、身体が前に動かないの。気持ちは行きたくてしようがないのに。それで、わたしはもどかしくなって、大声で泣いているのよ。なんで? なんで? って言って。そうしたら……」マダムはいったん目を閉じ、ふっと息をつくと、「夢って不思議ねぇ……」と言って話を継いだ。

 「ふと見上げたお姉さんが、急に大人になっているのよ……。姉が……あの烏の濡れ羽色の綺麗な長い髪で、わたしを抱きしめるのよ。『大丈夫、大丈夫、慌てなくっても』と言って。そして、わたしの涙をハンカチで拭ってくれるのだけど……。それは、姉がずっと大事にしていた木綿の白い、片隅にだけ花柄のレースがしてあって、その上に赤の刺繍で姉の名前が入っているハンカチ。わたしは、もちろん自分のを持っているんだけど、そのお姉さんのハンカチが欲しくってねぇ。何度も頂戴って言ったんだけど、いつも姉は、豊かに微笑むだけで、『これはあげない』って。最後まで、くれなかった……。そのハンカチで、わたしの頬を伝っていく涙を丁寧に拭いてくれるの。わたしは、とても暖かい気持ちになったのよ。と同時に、姉のぬくもりが蘇ってきて……。とても切なくなってねぇ……」

 夢でありながらリアルに語られるマダムの話を、ぼくはただしんみりと聞いていたが、これは何か前兆なようなものではないかと感じていた。夢とはそういうものでもある。Saeも同様だったようで、マダムの手をそっと包み込むようにして握ると、「マダム、明日はきっと買えますよ。そして、お姉さんが待っているって……わたし、そんな気がする」と優しくみつめた。ぼくも、そうあってくれと、胸元で玲瓏な輝きをみせる翡翠に、祈りを込めたまなざしを送った。

 「夢って、起きたときははっきり覚えていても、だんだんと忘れていくじゃない」マダムは右手でティーカップの取っ手を持ち、左手で支えるようにして口元へ運んだ。「だから、今日はいつまでも姉のぬくもりを胸のなかに閉まっていたくて、ずっとベッドのなかにいたのよ」「そうだったんですか……」そう答えるSaeをみつめて、マダムは言った。「なぜ、姉がハンカチをくれなかったが……わかる?」「……いえ」マダムはぼくに視線を移した。ぼくも首を横に振った。「中国ではね、ハンカチを、手巾と書くの。手巾――それは”てぎれ”と読むから、縁を切るという意味があるのよ。だから、ハンカチを贈ることは、関係を断ち切るということなの。別れるということ。それを知ったのは、ずいぶんと大人になってからだけどね。そのとき判ったわ。わたしがあんなにせがんでも、姉がハンカチをくれなかった理由が――。でもねぇ、やっぱり欲しいのね。だって、今になっても、こうして夢にでてくるんだから」そう言うとマダムはかすかな微笑を漏らした。Saeがテーブルに片手をついて身を乗り出すようにして言った。「だったら、それが夢に出るってことは、まだお姉さんとつながっているってことじゃないかしら。きっと、そうよ」マダムは顔をSaeに向けると、眼を潤ませるようにして、「そうね……。そうだと、いいわねぇ……」とつぶやいた。

 

 その後二人のホテルを出たぼくは、薄暗がりの細い路地を通る気分になれず、いったんピカデリー通りに出てから遠回りをしてホテルに帰ることにした。ピカデリーの繁華街は電飾の明るい光に満ちており、短い夜を楽しむかのように多く人出で賑わっていた。乗りのよい若者たちの叫声や行き交う人びとの愉し気な話し声が飛び交い、どこからかリズミカルな音楽が流れてきていて、ロンドンの夜のひと時を華やかに刻んでいた。

 交差点にさしかかったところで、アコースティックのギターの音色が耳に入ってきた。路上でひとりの長い髪をした若者がギターを片手に熱唱している。何人かの人びとが彼の周りにたむろして歌声を聞いており、ギターケースのなかにはコインと札がまばらに入っていた。ロック調の派手なリズムがしばらく続いていたが、ぼくが通り過ぎようとしたときには曲調が変わり、優しいメロディにうつっていた。どこかで聞いたことのある曲だなと、ぼくは立ち止まって耳を傾けた。やがて信号が変わり、向こう側へ渡ろうとしたときに曲のさびの部分が耳に入ってきた。それを聞いてタイトルを思い出した。レット・イット・ビーだった。ぼくは通りを渡るのをやめて、彼の側に歩み寄ると、ケースのなかにコインを投げ入れた。

 

(第45話につづく 4月29日更新予定です)

イングリッシュ・ブレックファースト

 

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