骨董商Kの放浪(33)

 二月上旬の午前9時、ぼくと才介は大分空港に着いた。ここからホバークラフトという何とも乗り心地の悪い水面を走る船を利用し、別府に着いたのが10時前。

 「何か、寒いなあ。東京より気温低いんじゃない?」才介が首をすくめ身体を縮めた。清らかな空気は、確かに冷たさを感じる。ぼくらは足早に、会場となる小さな市民ホールのような建物のなかに入った。

 今日はここで、骨董商が俗に「温泉市(いち)」と呼んでいるオークションが開催される。オークションといっても、海外のような派手なものではなく、知る人が知る、ほぼ100%商売人が参加する小さな競り市。その参加者も「初出(うぶだ)し屋」と呼ばれる、店を持たない、リサイクルショップに毛の生えたといったらたいへん失礼だが、そのレベルの、いわゆるヒエラルキーの「底辺」に位置する人びとが主(おも)(当然ぼくも入る)。彼らのなかには(ぼくも入る)、こうした場所で掘り出し、美術俱楽部の会や海外オークションなどで売って儲(もう)けを出す者も少なくない。地方の小さな市であれば買値はそれなりに安く、そのなかにたまたま優良品が入っていたら、売ったときの利潤が驚くほど大きくなったりすることもある(先だっての香港で売れた筆筒のように)。なので、その一発目当てに集結する輩(やから)が、こうした小規模な地方市にこぞって参加しているわけであるが、当然もって現実はそう甘くはない。

 基本的にがらくた市(いち)であるので、業者間では「ゴミ」なんていう酷い言葉でくくられる、ろくでもない、二束三文的なモノが圧倒的に多いのが通常。ただ本当にごくたまに、そのゴミのなかにキラリと光る珠(たま)があったりするのもまぎれもない事実。上手い具合にそうしたモノを、いわゆる掘り出して、ドンと当ててガッツリ儲けるひとがいることも現実、なのである。――つまりは、目が利いて勘が鋭く、常に流動する相場状況を的確に把握し、先の読める商人がその成功者になるのだ。

 だから、さきほど「底辺」といってしまったが、富裕な層もちらほらといて、今日なんかの温泉地での開催となると、前乗りし老舗の旅館で宴会を開いて翌日に臨む、という羽振りの良い御仁もみられる。さきほどまでぼくの前を歩いていた、一見大工の親方然(ぜん)とした白髪交じりのオヤジもどうやらその層のお方のようで、すれ違うひとに頭を下げられ、集まっては言葉を交わし合っている。――「昨日は、ごっそうさんでした!」「おおきに! おかげで今日、二日酔いですわ、はは」「○○ちゃん、昨日は白翠楼け?」「ほうよ。しかし、別府も芸者、落ちたのう」「そりゃぁ、しかたないちゃ」「やけど、さびしかね」「そげですね」――というように、地方市には多様な言葉も入り混じる。こうした市は、以前行ったことのある熱海とか、九州、四国、中国、北陸地方など、日本各地様々な場所で行われており、前にも述べたとおり、それらを渡り歩いて商売するひとたちが仰山(ぎょうさん)いるのだ。

 

 さて、本日の「温泉市」であるが、実はこの市場(いちば)、昨今注目を集めている。なぜならば、これは半年以上前の話しになるが、ここで中国明時代15世紀初めの径が30センチ近い大ぶりな、中国では「剔紅(じっこう)」と呼ぶ堆朱(ついしゅ)の楼閣山水図合子(ごうす)が出品され、このとき1000万で中国人の業者が落札したのだが、これが、昨年の秋に北京でおこなわれたオークションで5000万という高値で売れた、という噂がまことしやかに流れてきたからである。またこの会は、福岡、大分、熊本あたりの旧家からのうぶ口がよく出ることで知られており、そのなかに古渡りの中国製の文房具、漆器、陶磁器などが入っていることもあるため、中国モノを手掛けている業者たちの間で、俄然脚光を浴びるようになったのだ。

 この別府の市は、三カ月に一度の割合で開かれている。才介はこれまで三度来たことがあったようだが、ぼくは初参加。入り口の受付で参加費の二千円を払い、ぼくらは小学校の教室のような部屋のなかに入った。同じような部屋が隣にもう一つあり、この二部屋に出品荷が並べてあるようだ。最初の部屋のなかには既に30人ほどが下見をしていた。まだ暖房が効き渡っていないのか、皆上着を着たままモノを手にして確認している。

 「なんだか、なかの方が寒いんじゃね?」才介は懐に抱えた鞄に力を入れた。だいじそうに両腕で抱いた鞄のなかには、なんと500万が入っている。そして、ぼくのリュックには50万。今日は現金市(いち)のため、ぼくらは現金を持参したのだ。――つまり、買ったらその場で代金を払いモノを持って帰るという、いたってシンプルな仕組みの会。ただ、最近は、安いモノは現金払いだが、高額品に関してはあとで振り込みができるシステムになっているようで。まあ、当然だろう。現金を持ち歩くのは、なにかとリスキーだ。では、いくらからが高額かというと、それは特に決まりはない。

 中国モノになると、こういう小さな市場(いちば)でも、千万単位で動くこともあるので、そのあたりになると、主催者側と応相談という感じになる。たとえば、何割か内金を現金で払い、残りは銀行送金をし、その後でモノを受け取るというふうに。

  なので、今日は無理して500万もの現金を持ってこなくてもよかったわけであるが、これは、東京で「良い中国モノのうぶ口が出るぞ」の情報に奮い立った才介の、熱き思いが起こした行動であり、その気迫に乗せられ、ぼくも昨日銀行からお金を引き出し持って来たのだ。ただ、当然その場で払えればモノを持って帰れるわけである。別府くんだりまで来たのだから、また取りに来るのは七面倒――ということもあり、この際現金を持っていくかということになったのだ。

 

 入口に近い部屋に入ると、次々と隣の部屋に足早に向かう人の群れが目に留まった。どうやら、隣の部屋にメインの荷が飾られているようだ。ぼくらも先ずそちらに向かう。部屋の奥に特設の陳列スペースが設けられており、そこに15人ほどが群がっていた。その脇には主催者の一人だろう髪を伸ばした中年の男性が、われ先に見ようと密集しているひとたちに向かい大きな声で指示を出している。

 「はい、はい!  順番にお願いしますよ。そこ、押さないで!」集団を見ると、ぼくら世代かちょい上か、という若い年齢の中国人たちが七、八人ひしめきあっていた。一攫千金を狙ってここまで来るのだろう、放恣(ほうし)と熱情を併せ持つ名もなきブローカーたちが、中国モノの高騰とともに、こうした下市(したいち)にめっきり増えた。彼らの姿を見て、自分もその内のひとりなのかもしれないと思いながら、ぼくは上下左右、人垣の隙間から前を覗こうと必死になって頭を動かす。

 そしてようやく、紺色の毛氈の上に飾られた4点の品物と古い箱が目に入るや了解した。どうやら、これが先日聞いた中国モノの「うぶ口」のようである。

 長髪の監視役の采配により群がる人びとの交通整理がなされ、幾人かの隊列が組まれるようになると、ぼくらは先ほどより近距離でモノをとらえることができるようになった。皆の目線は、4点のうちの1点に集中していた。

 比較的若そうな男性が、地べたに座ってルーペとライトを使いながら主役の品を入念に確認し、それを数人が取り囲むように上からじっと覗いている。

 ――「元染の玉壺春(ぎょっこしゅん)か……」と、一つ後ろから首を伸ばした業者のひとりが、そう声をもらした。

 並んで15分ほど経っただろうか。ようやく順番が回ってくると、ぼくらは飾り台の前に立った。さっそく年配の坊主頭が染付の瓶を手にすると、前のひとたちと同じようにその場にどかっとしゃがみ込むや、掌のなかでじっくりと見始めた。その手下なのか若い者が、直ちに小形のライトを取り出しモノに当てる。ぼくらはその年配者の一挙手一投足に集中。

 

 ――それは、元時代の青花、つまり元染の瓶であった。高さ30センチ弱。下膨れた胴に細い首、喇叭状に広がる口部を持つ、俗に「玉壺春(ぎょっこしゅん)」と呼ばれる瓶。元時代の染付や青磁にしばしば見られる器形である。

 「元染の玉壺春」といえば、中国陶磁のなかでも知名度が高く、それゆえ、この時代を象徴する作として、著名な美術館には必ずといってよいほど収蔵されている。三代目の「元時代」の講義でも、いくつもスライドで紹介されていたのをぼくは思い出していた。

 

 今、男が手にしているモノは、全体を八角形に面取りした形を成している。玉壺春はたいていふっくらとした丸い胴部をしているが、これは異色作。面取りされた主要な部分には、種々な花文様がそれぞれ描かれている。――口縁部には唐草文が、頸部には蕉葉(しょうよう)文という芭蕉の葉をデザインした文様が、肩部と裾部には、いかにもモンゴル王朝らしいチベット仏教由来の「ラマ式」と呼ぶ蓮弁文様が、各面にあらわされている。

 坊主頭の男は、一番細くなっている首の箇所を手のひらで切るようなしぐさをすると「やっぱり、折れてるね」と、覗き込んでいる何人かに向けて顔を上げた。それを聞くなり、先ほどから爛々と目を光らせている才介が一つ大きくうなずいた。

 ひとしきり見たあと、男は瓶を横にいる同輩に渡すと、玉壺春の箱の横に並べてある古本を指さした。若手が即座に反応し、その本を手渡す。

 ――これだ。さっきから気になっていたものは、とぼくは思った。それは、犬山の部屋に置いてあった、あの「売立図録」と同様の仕立てがしてある。これはたぶん、戦前期の入札目録に違いない。開いて置かれた図版の箇所に青い付箋が貼られているところを見ると、おそらくその頁にこのモノが載っているのだろう。

 坊主頭は本と作品をしきりと見比べ確認作業を続けたのち、「間違いないな」と周囲に聞こえるように言うと、何度もその頁を指で叩いた。それが済むと立ち上がり、今度は飾り台に置かれている他の荷の方へ向かった。それにともない年配者を囲んだ群れが移動。ここでようやく、ぼくらに元染が回ってきた。

 瓶を受け取ると、才介も同じようにあぐらをかいて座り、そのなかで食い入るようにみつめた。濃く発色されたコバルトブルーが目に映える。その青を包み込む透明釉はやや青味を帯びているが、これは元染の特徴でもある、と三代目が講義で解説していた。八角形に面取りされた胴部は、おそらくイスラム製の金属器をうつしたのだろう、なかなかシャープな造りをしている。

 

 才介が見ている間、ぼくは図録を手に取った。A4判サイズで3センチほどの厚みがある豪華本――厚紙の表紙の中央上部に「もくろく」と平仮名の草書体で書かれた貼り紙があり、それを挟んで左右に家紋入りの亀甲文が三つずつ配され、下半分には風になびくすすきの群が二段に分けて描かれている。――淡褐色の地に、銀、緑、赤などの色で彩られている絢爛な装丁は、この売立の格の高さを自ずと示していた。

 表紙をめくると、中央に「加州 中山家藏品展觀入札」という題字が大きな文字で記されている。次をめくると見開きになっていて、右頁には、「昭和九年十一月廿六日入札並開札」と「東京美術俱樂部」の名、つまりこの会の期日と会場の場所が記されており、その横下に「札元(ふだもと)」の名前がずらりと、右から左頁にまたがって並んでいる。――「札元」とは、入札会を主催する骨董商のことをいう。当時は茶道具全盛なので、彼らは「道具商」とも呼ばれた。入札会の規模により札元の数も変わる。ここには十名に及ぶ有力道具商の名前が記されているので、この売立が大々的であったことが窺い知れる。

 ぼくは改めて、そのなかの真ん中あたりの青い付箋の貼ってある頁に目を落とした。そこに元染瓶が載っている。原色刷りだ。一番後ろを開くと「總数三百五十點」とある。全てに写真が付いているわけではないが、主要なモノは写真掲載されているようだ。そして、そのうちのメインピースがカラー版――つまり、この入札の目玉商品は、原色版印刷となっている。

 それは極端に少なく、だいたい10点ほどだろうか。ぼくはざっと頁をめくって見てそう思った。

 売立図録の大抵が、先ずは古書画から始まり、次に茶器などの道具類の順番となっている。この図録も同様で、やきものなどは半ばから始まり、その最初の3点が原色刷り――つまり道具の目玉3品の内の一つが、この元染ということである。

 カラー頁は厚手の紙が使用され、その前にぺらりとした薄い和紙の扉が付き、そこには「一四八 元染付花面取花入」と、出品番号と作品名が中央に縦書きで印刷されていた。カラー図版のみが、このような特別仕様となっている。

 

 才介は眉間に皺を寄せ、本の写真と手にした瓶を交互に見つめながら確認している。戦前の原色印刷なので、写真に立体感がなく、色も平坦であるため判別がしづらい。才介は八つに面取りされたそれぞれの面をずらしながら、掲載写真に合わせている。そして、手が止まった。

 「ここだ!」正面の花柄が合致する。その上の焦葉文の輪郭線の幅がやや太くなっているのを確認したぼくは「そうだな」と同意した。それを受け才介は、先ほどの年配の坊主頭と同じように、「間違いない」と指で頁を叩きながら、首を数度大きく縦に振った。

 下見のとき、このように品物に図録を付けて飾られるケースはよくみかける。ただ、このとき注意しなければならないのが、掲載品と出品物が同一のモノなのかどうか――ということである。つぶさに見ると、図録の写真と並んでいるモノが違っていた、なんていう例が往々にしてあるからだ。これらが一致して初めて付加価値がつくわけだから、類似品では何の意味もなさないのである。このことは、言うまでもなく、ここにいる業者連は皆承知していることなので、彼らの様子からみて先ず問題ないと思ってはいたが、実見しぼくらは腹におさめることができた。

 

 図録の件はこれでクリア。次にぼくらは、来歴を裏付けるもう一つの重要アイテムである「箱」に注目した――

 江戸時代はあろうかという、黒漆の塗られた古びた外観は、上の方が朽ちかけており、四方に通された茶色い紐は色褪せ途中でちぎれている。身に貼り付いている箱書の紙も経年で詫びた色をなし、ところどころ剥がれているが、墨書で書かれた「元染付花面取花入」の文字はちゃんと確認できた。これは、売立図録に記載してある作品名と一致している。――間違いない。「花入(はないれ)」とあるので、この瓶は、茶席の床の間を飾る花瓶として伝来したのだろう。

 ――俗称の「玉壺春(ぎょっこしゅん)」であるが、中国では「春(しゅん)」の字がしばしば酒の名に用いられていることから、酒器であったという説がある。大形の徳利みたいなものだろうか。だが日本では、当時そんないわれがあることなど知る由もなかっただろうし、なにしろ中国から渡ってきたやきものを「唐物(からもの)」といって、崇(あが)め奉(たてまつ)った時代だ。貴重な舶来の瓶は、寸法もちょうどよいことから、花を活けて床に飾る「花入」として珍重されたと思われる。ぼくは納得の表情を浮かべて、その箱をみつめた。

 

 そして、再び図録を手にした。実は青い付箋が、この玉壺春の頁以外に、もう一つ付いていたのが気になったからである。元染の前頁である。

 そこには、青磁の香炉の写真が同じく原色で載っていた。三つの小さな脚をともなった円筒形の小ぶりな作品。「一四七 碪靑磁竹節三足香爐 銘北千鳥」と和紙に印刷されている。そして、飾り台に目をやると、元染瓶の隣りに青磁香炉が置かれていた。

 ――これか。ぼくはじっと見つめる。名称にあるように、胴部に巡らされた幾重もの弦文が竹の節をイメージさせる。こうした香炉も、お茶席の床飾りとして珍重されたため、伝世品が数々遺されている。これも「北千鳥」という銘が付せられていることから、秀抜な作として代々受け継がれていたようだ。

 ――わが国では、南宋時代後期(13世紀)の龍泉窯青磁を「砧青磁(きぬたせいじ)」と呼びならわし賞玩した。日本でいう「青磁」という概念は、この砧青磁から派生したといってもよい。いわゆる青磁の代名詞がこうした龍泉窯なのだ。

 この香炉も今回のメインの一つのようで、次つぎとひとが手に取っている。ぼくもそれを手にし、図録の頁と見比べた。澄んだ青緑の釉色は、これぞ伝世という艶やかさをまとっている。この青磁も、図録に掲載されている写真と同じモノであることをぼくは確認した。

 続いて、他の2点であるが、一つは「南京(なんきん)赤絵(あかえ)」と称する七寸ほどの色絵の皿が十枚。もう一つは、「古染付(こそめつけ)」と呼ぶ、これは五寸ほどの皿が二十枚。両者とも、17世紀の明時代末頃に景徳鎮窯で焼造された輸出用の磁器で、当時日本に渡り宴席道具として伝わったものだろう。これらも相当古い箱に入っている。

 これら4点は、「中国モノの初(うぶ)口」たる気分を、充分にたたえていた。その内2点が、「中山家」という旧家から出たモノということだ。

 

 図録を元の場所に置こうとしたところ、一枚の紙が置かれているのに気づいた。

 ――「図録は付きません。撮影不可」と書かれてある。

 どうやらこれらを買っても、この図録はもらえないらしい。おそらく稀覯本(きこうぼん)か何かだろう。ぼくは手帳に、この売立図録に関するもろもろの情報を記録した。また、「撮影不可」とあるので、モノの撮影は禁止のようだ。

 オークションの出品物は、おおよそ携帯などによる写真撮影は許されているが、この4点に関しては、それができないようだ。今どきは、携帯の写メであっという間に情報は拡散される。特にモノを知らない中国人ブローカーの間では、撮った写真をすぐに買い手に送り、注文を受けて競るという行為が横行している。あらぬところにまで行き渡ってしまうこのやり方を、たぶん出品者が嫌がったのだろう。自分が出品していることを、知人などに知られたくないことはよくあるケースだ。

 

 ぼくが図録と青磁、その他の2点を見ている間、才介は、元染をじっと手にしたまま俯いて考え込んでいた。すると後ろから、「早くしろ!」と声が掛かった。それを潮に、才介は瓶を戻すと一点を見据えたまま部屋を出て行った。ぼくはあとを追いかける。

 二階へ続く階段の下に来ると、才介はその一段に座り込んで、右手で眉のあたりをしきりと掻きながら顔をしかめ、「うーん」としばらくうなっていた。後方から、元染のことを聞いた人びとの逸るような足音が次つぎと耳に入ってくる。それに応じて、ぼくの気持ちもざわついていった。

 すると才介はすっと顔を上げると勢いよく立ち上がり、「よしっ! 勝負だ!」と腹から声を出した。「買うのか?」ぼくが即座に尋ねる。「うん! これはチャンスだと思う」才介の細い眼に鋭利な光が宿る。「するってえと、問題は、これだ」と、横に置いた鞄に手を掛け二三度叩いた。「いくらくらいするかな?」ぼくの問いに、才介はいったん軽く目を閉じ、「わからねえ。ただ、これだけじゃ、無理だろう」と言って、もう一度鞄を叩いた。

 「5年くらい前かな。一度玉壺春が海外のオークションに出たときがあったけど、あんときは確か、1000万くらいだったと思う。今なら、1500から2000はするだろう。それにこれだけの来歴があったら、ひょっとしたら3000くらいいくかもな」「そんなにするのか?」「うん。今、元染は人気だからな」

 先日の3億円の大皿のニュースが、それに拍車をかけていることに相違ない。そう言ったあと、才介は腕を組んで顔を上げ、「しかし、無い袖は振れねえ。おれが用意できるのは、あと300万だ。それならなんとかなる。……都合、800万だ。こういう小さい市場だ。うまくすれば買える可能性はある。あとは……」才介は再び目を閉じ考え、そして「まあ、出たとこ、勝負だ」と、組んだ腕を解き、パンっと両手を力強く合わせた。

 

 今日の市は一日限りである。午前中が下見で、昼に弁当が配られ、そのあと午後1時くらいから競りが始まる。元染の順番はちょうど中盤くらいなので、だいたい3時あたりか。ぼくの腕時計は11時半をさしていた。

 いったんひと気のない廊下の隅の方に行くと、ぼくらは作戦を練る。才介が部屋を行き交う人びとに目を配りながら話した。

 「問題は、どういうやつらが競るかだ。今のところ、おれの知ってる東京や関西の強い業者は来てないようだ。ただ、この情報はそういう奴らにはすでに回っているだろう。でもここは別府だ。すぐに飛んで来れる場所じゃない。撮影も禁止。古い売立図録も簡単には手に入らないから、注文するやつも、固い数字しか出さんだろう」「固い数字は、いくらだ?」「おれだったら、モノを見てないんじゃあ、精々500~600万くらいだと思う」「なるほど」「ただ……一番の敵は、中国人だ。今日来ているやつらはモノのわからない仲介業者だから、その向こうにいる金主がいくら出すかだけど、あいつらは、金は持ってる。オークションなんか見ても、図録の写真だけでかなりの額まで競るからな」「そうだな」――前回出たという堆朱の大合子も中国人が落札している。

 「だけど、ラッキーなのは、その写真が出回らないこと、図録もすぐに手に入らないってことだ。実物を見ているおれらのほうが、一歩も、二歩も先にいる。いろんな意味でツイてると思う」そう言って才介は顔を上気させた。そのときぼくの頭に犬山の顔が浮かんだ。

 「そうだ。売立図録にちょい詳しい友だちがいて。ちょっと、訊いてみようか。その中山家って、知ってるかどうか」「頼む!そういう情報はあればあるほど、ありがたい!」才介はぼくの腕をつかむと目に力を込めた。

 ぼくは携帯を取り出し、犬山に電話。暇なのか一回で出た。「なんだよ?」「あのさ、売立図録について訊きたいことがあって」「ほお? 何か名品でも出たか? ハハ」相変わらず呑気な声だ。「加州中山家の売立って知ってるか?」「加州?中山家?」「そうだ」犬山は少し考えながら「加州っていったら……、加賀藩か?」「持ってるか、その図録?」「いや、ここにはないけど……」と言ったあと、急に声のトーンが上がった。「ああ、思い出した! 加州中山家! それは、ごっつい家だ」「売立図録がそばにあるんだけど、かなりの豪華版なんだ」「たしか、あれは……加賀藩支藩の……何つったかなあ、忘れたけど、その藩のえらい家臣の家だ」と言ったあと少し間を置いてから、「そうだ。全国の売立図録を隈なく調べた学者がいて、それをまとめた本がおれの部屋にある。それ見ると詳しくはわかるかもな」「マジか!」「いつの売立だよ?」ぼくは即座に手帳を開く。「ええと、昭和9年11月26日だ」「場所は?」「東京美術俱楽部」「OK! 調べてから、また電話する」「よろしく頼む!」

 ぼくが以上の内容を知らせると、才介は「そいつは、頼もしい!」と顔を綻ばせた。

 犬山の電話を待っている間、ぼくは、さきほど坊主頭の業者が元染の首のところを指し「折れてるね」と言っていたことを思い出した。あのとき才介は、それを聞くなり大きくうなずいていた。ぼくが問うと才介は、「あれか――」と言って話し始めた。

 「前からよく聞いてたんだ。不思議と元染の玉壺春は、首がはずれてるということを。たいていがそうらしい。何でだかわからないけど、首の途中が折れて繋いであったり、その上が欠損していて丸々後補だったりするものも結構あるって。あれも、首の一番細い部分が一回外れて修理がしてあった。だけどあとはオリジナルなので、キズはあるが、それで値打ちが下がるほどでもないと思う。むしろ、折れていたことは、これが元時代の本物の証明にもなるからな。それでおれは、間違いないと思ったんだ」

 ――なるほど。ぼくは初めて知った。大体の玉壺春の首にキズがあるということを。今度、三代目にでも訊いてみよう。

 

 才介が元染で頭を悩ましている間、ぼくは別の部屋にあるモノの下見をした。隣のうぶ口に集中して他の荷を見ていなかったからだ。しかし、その部屋に並べてあるモノは、昭和時代の贈答品のガラスや陶磁器、よく見かける木彫りの熊、ガラスケースに入った日本人形、昔祖父(じい)ちゃんの家にあったような天眼鏡、明治時代の火鉢などなど、雑貨品のようないわゆる「我楽多(がらくた)」がそこかしこに置かれていた。

 そんな感じだから、全く期待せずに漫然と見て歩いていたところ、安南(あんなん)と呼ばれるベトナムの、15~16世紀の染付香合が5,6個置いてあるのが目に入った。古いモノもあるんだなと思って側に寄ると、そのなかに唐三彩の平たい碗がぽつんと一つ置かれてある。ぼくはそれを手に取る。

 口径10センチ、高さ4~5センチくらいか。球の下四分の一を横で切ったような形で、高台は無い。外面には半円形の小さな蓮弁のような文様が、底部から幾重にも連なるようにあらわされ、その蓮弁のなかには鱗状に小さな点がいくつも入っている。これは、手彫りではなく型押しでなされているようだ。外側は褐釉一色、内側には、緑、白、褐の三色が掛けられている。

 型の抜けが良かったのか、外側の文様は立体感があり、ぼくの眼はその碗に吸い込まれていった。釉調も冴えていて、なかなか瀟洒な趣を持っている。が、何となく色の具合が綺麗過ぎるようにも思えた。――ニセモノか? ぼくは気になった。モノの横には箱が無い。いわゆる裸である。ぼくは、いったん飾り台に戻してから、もう一度眺めた。一見良いように思えるが……、うーむ……。見れば見るほどわからなくなってしまった。

 ぼくが首をひねっていると、部屋の出入り口から才介が手招きを繰り返しているのが見えた。それに対しぼくは降る手に力を込め、逆に才介を呼んだ。才介が不機嫌そうに近寄って来る。

 「いったい、何だよ?」ぼくは三彩を指さす。「これ? どう思う?」才介は大儀そうに碗をつまみ上がるや裏側をひっくり返すと、一瞥して元に戻し「こんなん、新物(あらもの)だろ」と一蹴。「うーん、そうかあ」ぼくが再びモノを手にしてしばし見つめる。「そんなの、香港にたくさんあったじゃん。箱無しの裸じゃ、最近香港から来たレプリカだよ。間違いない」

 元染に意識がいっているせいか、才介は全く取り合わない。まあ、そう言われてみれば、香港の贋物ショップにたくさんありそうなタイプだ――

 ぼくが釈然としないまま三彩を飾り台に置いて下がろうとすると、横からぬっと出た手が碗をつかんだ。ぼくはその方(ほう)に目を向け、思わずはっとなった。長い髪を後ろで束ねた痩せた顔のなかで、薄い銀縁眼鏡が微妙に動いている。――贋作堂だ。才介も気づいたようで、表情をこわばらせている。贋作堂はしばらく三彩碗を見たあと、ぼくらに目もくれず前を横切ると、隣の部屋へと向かって行った。

 

 「来てんのか、あいつも」姿が見えなくなってから、ぼくがそう言うと、「あの野郎。どうせ、こういうところで贋物安く買って、儲けんだろう」才介は三彩に目をやり、「あれも買うかもしれんな」ぼそりとつぶやいた。

 ぼくが嫌な気分に襲われたそのとき、携帯が鳴った。どうやら犬山が、売立図録について調べてくれたらしい。ぼくは三彩碗に目を向けながら携帯を開いて耳にあてた。

 「わるいな。わかったか?」ぼくがそう尋ねると、「もしもし……」と女性の声。「?」「ごめんね、Kさん。お仕事中に……。今、大丈夫……?」それは、久しぶりに聞くReiのそれであった。

 

(第34話につづく、3月3日更新予定です)

 

青花花卉文八角瓶(玉壺春) 元時代(13-14世紀)

青磁三足香炉(砧青磁) 龍泉窯 南宋(13世紀)

 

三彩印花碗 唐時代(7世紀)





 

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