骨董商Kの放浪(40)

    金曜日午後6時のエリタージュ・ハウス。まだ客はまばらであるが、スタッフの目配りや動作に、なんとなく嵐の前の静けさを感じさせる。Reiのあとに続いて、ぼくはあたりを伺いながら、正面のエレベーターへと向かいかけたとき、「上じゃ、ありませんよ」のReiの声にびくっとして足をとめる。いつもSaeとは二階の個室だったので、ついエレベーターに向かってしまっていたのだ。

 「Kさん。初めてですよね? ここ?」Reiがやや訝しんで訊く。「あ、ああ。うん、もちろん」スタッフの一人が「こちらでございます」と左手の部屋へと先導した。初めて入る一階のメインルームは、150㎡ほどのスペースに大小十幾つかのテーブルが配置されているが、ひと際高い天井がそれ以上の広さを感じさせた。そこから吊るされている豪奢なシャンデリアと、ロココ調の壮麗な内装、そして、静かにゆったりと流れているクラシックのBGMが華麗に融合し、ザ・ゴージャスという異空間をつくり出していた。ぼくはそれを、半分口を開けて眺めつつ、どこかの雑誌にちらりと紹介された一文を思い出していた。「ここは、フロアで食べることこそが、ステイタスであるレストラン――」たしかそう書いてあった。

 「お気をつけくださいませ」スタッフがフロアへおりる段差を指さしてから「あちらでございます」と、奥から二つ目の席へぼくらを案内した。ぼくは上座に座らされたため、30メートルほど先に、今入ってきた入口が見える。

 「なんだか、緊張しますね。こんなところ初めてだから」Reiはややこわばった笑みをぼくに向けた。「う、うん……」ぼくは、さらにもっと緊張していた。ひょっとしたら、ここでSaeとばったり会うのではないかと。この建物の前に立ったときから、そういう嫌な予感がしていたからである。そして、こうした嫌な予感というのは、得てして的中したりするものなのだ。

 しかし……である。もし、たとえ鉢合わせしたとしても、別になんてことはない、普通に紹介すればよいのだ。

 ――知り合いです、と。

 二人に対し好意は抱いてはいるが、別に付き合っているわけではないのであって。変にうろたえる必要などないのだ。少々不穏な空気は流れるかもしれないが。正々堂々としていればよいわけであり。

 うん、そうだ。と思った瞬間、ぼくはクラっとめまいを起こしそうになった。入り口の数段を降りた長い髪の女性が、こちらに目を向けにこりと手を上げたからである。まじかぁ……。遠目ではあるが、いつもの水玉の衣裳がはっきりとみえる。今日は黄色地に白いドットのようだ。こちらに注がれる大きな瞳が目に入るや、ぼくは思わず立ち上がろうとし、そのはずみでテーブルをガタンと揺らしてしまった。やっぱり、嫌な予感は早々と当たってしまったと、ぼくは完全に平静を失ったまま、彼女が足早に近づいてくるのをみつめていた。「ごめんなさい、少し遅れちゃって」その声にぼくの後ろが反応する。「大丈夫。ぼくも今、来たところだから」振り返ると、奥の席で男性が手を振っていた。近寄る女性の顔を見てぼくは、よく似ているがSaeでないことを悟り、半分あげた腰を何気なくおろした。

 しかし、紛らわしいぜ、水玉模様――

 座りなおしたぼくに、温度のないReiの視線がぶつかる。「どなたかいらっしゃるんですか?」「えっ、い、いや、別に……。来るわけないじゃん」出されたばかり水を、ぼくはぐいと半分ほど一気に飲んだ。

 

 蝶ネクタイをした年配のウエイターが注文を取りにきた。Reiは、一枚だけ別になっているメニューを手にし「特性ライスカレーを、シーフードでお願いします」と言ってぼくの顔を見る。「はい。一緒のものを」「かしこまりました」ウエイターは会釈をすると静かに下がった。

 やがて各々の前にカラトリーがセットされる。カレーだけなのに、スプーンとともにナイフとフォークが両端に置かれたのを不思議そうに眺めるぼくをみて、「フレンチですから」とReiが答える。ぼくが小さくうなずくと、Reiが「でも、F会長に直々に会えるなんて、すごいですね」と身を乗り出して訊いてきた。「へえ、そうなの?」「そうですよ。わたしも宋丸さんのお使いで、あそこの本社に行ったことあるけど、いつも秘書室長が言付かるだけなので」「ああ、あのイケメンの」「はい。だから、みずから会長とお話しできたなんて、びっくりです」「へええ、そうなんだ」

 F会長との出来事は、道中おおよそ話をしていていた。「目が見えないのに、どうやってモノが判ったんでしょうね」Reiが訊く。「だから、こんな感じでさあ――」ぼくは老紳士のしぐさをまねるように両手をくねくねと動かしながら、「そんでもって、『彫り文様がうつくしい』って満足げに微笑むんだから」「すごいわ。それだけで判るなんて、よっぽどたくさん良いモノを触っているのね」「うん、そうなんだよ。こっちが、定窯ですと、説明しなくちゃいけないと思ってたところに、いきなり『良い定窯だ』って言うんだから」脳裏にその場面が映し出され、ぼくは自然と高揚しつい声高になっていた。「実際に見えているんじゃないのかなって、思うほどでさあ! そりゃあ、すごいのなんのって」「びっくりだわ。そういうひともいるんですね」「いやあ、ほんとうにもう! アッと驚くタメゴロウってやつだよ!」と言った瞬間、ぼくは、あっ、まずいと思った。これは完全に犬山のセリフだ。あいつの口癖がうつってしまった。なんてこった……。Reiがぽかんとみつめている。犬山と会話していると、ついこういう昔の変な言い回しが口をついて出てきてしまうのだ。この局面(上品な場所×心に響く話題)において、なんて不適切な言い方をしてしまったのかと、浮かぶ犬山の面(つら)に舌打ちをし「いや、本当に、驚嘆の極みで」と、Reiをみつめ慌てて訂正した。

 

 「でも、ぼくが感動したのは、――これがなんで優れたモノであるかが判った理由、って言われたあとに、『それは、宋丸さんが勧めたからだ。宋丸さんにそう言われちゃあ、そりゃあ、良いモノだろう』って、会長が実に愉しそうに話したことなんだ。そういうお互いの信頼関係って、なんか、いいなあって」深くうなずくReiの顔をみつめながら、「F会長の、いかにも宋丸さんを信じてるっていうその言い方が、じんと胸に響いたかな」「すばらしいです」Reiはもう一度深くうなずくと「すばらしいです」と繰り返し、「骨董商とお客様の関係は、単にお金の繋がりじゃなくて、心の絆が一番大切じゃないかなあって。宋丸さんとF会長は、理想的な関係だと、わたしはそう思います」

 Reiは眼を輝かせながら言った。ぼくはその眼をみつめた。そこには、室内の華やかな色彩が映し出されてはいたが、それをもろともしない清冽さがその瞳の奥にあるように思えた。

 

 全体の三分の二にライスの盛られた皿とともに、カレーのルーの入った銀製の容器が目の前に配された。ルーのなかには、大きな海老、帆立、イカ、スライスした鮑が入っている。Reiは先ず海老を皿の空いたスペースに取り出し、ナイフとフォークで刻み、ルーを少々掛けてから食べ始めた。ぼくはそれを見ながら、全ての具材を皿に載せるとそれぞれを切り刻み、その上から、容器ごと傾けながら全部のルーを掛けた。具が大きいせいか、肝心のルーが少ないように感じたが、その味は絶品だった。どちらかというとスープ状になっているカレールーは、さらりとしているが濃厚な味わいで、いかにもフレンチの様相を呈している。一口含んだとたんに、ぼくは「うまっ!」と叫んでいた。その自分の声に思わずあたりを見回す。Reiはくすりと笑い、「やっぱり、美味しいですね」と頬を緩ませた。

 鮑から食べ始めたぼくを見て、Reiはまたくすっと笑った。「本当に、Kさん、鮑好きですよね?」「そうかなあ」「だって、いつも中華の前菜が出ると、先ず鮑から食べるじゃないですか」――たしかに。そうかもしれない。宋丸さんの店が退(ひ)けるときにぼくが残っていたりすると、Reiと三人で夕食に行くことが時々あった。そういうときはいつも宋丸さんの行きつけの中華料理店なのだが、その店の前菜の何種かに必ず鮑が入っており、どうやらぼくは鮑から最初に箸をつけるようだ。しかし考えてみれば、ぼくなんかが鮑などという高級なものを食する機会などそうはない。当然のことだろう。なんといっても、美味しいのだ。特に蒸したやつは。あと――、これは、ちょっと余談になるが、先日やはり三人でその中華店に行ったときの宋丸さんの注文の仕方には驚いた。担当の給仕がやってきて「宋丸さん、前菜はいつもの組み合わせでよろしいでしょうか?」と訊いたときのことである。「この前は、クラゲが美味しくなかったなあ。今日は、クラゲを抜いてくれよ」「そうでしたか。それはすみませんでした。しかし宋丸さん、今日のは、美味しいですよ。だから入れておきましょうか?」「いやあ、いいよ(笑)」「大丈夫です。今日は美味しいので」「そお? 本当かあ?(笑)」「はい」「しょうがないねえ(笑)」「はい」「それじゃあ……、三本にしてくれ」――ええっ、三本? とぼくは目を丸くした。クラゲを三本と注文するひとは、未だかつていないにちがいない。さすがだ、宋丸さん。(結局はたくさん出てきて美味しかったわけであったが)

 

 気がつくと、エリタージュは満席になっていた。ぼくらはすっかり特性カレーを堪能したあと、デザートを注文した。人びとの話し声が、上品に流れるピアノの調べに乗って、心地よく耳に入ってくる。Reiはそれまでの柔和な表情からやや眉をひそめると、ぼくの瞳の中心に視線を合わせるようにして「ねえ、Kさん――」と訊いてきた。「なに?」「前に……言ってたじゃないですか……」「うん……」「ここにある、エリタージュにある、馬上杯のこと……」Reiは小さく深呼吸をして、「あれって、その後、何か進展あったんですか?」「……あれかぁ……」

 ぼくは頭のなかを整理した。以前Reiに訊かれたときは、この件が生々しくぼくの気持ちを揺るがせており、どう対処すべきか混迷し話しを切り出せなかったわけであったが、あれから時間も経ち、少し落ち着いて考えられるようになってきたのは事実であった。

 この件に関して、いったいぼくに何ができるのか? 今一度それを考えてみるにあたり、この馬上杯のストーリーをReiに聴きてもらうというのも、ちょうどよいタイミングかもしれないと、ぼくは思った。Reiの反応やアイデアも、何かのきっかけになるかもしれない。

 

 「実は……」とぼくは、先ずマダムのことについて話しを始めた。

 マダムの祖母は日本人で、戦前に実家の事情で帰国したきり戻れなくなったこと。マダムの父は、幼少期から青年期まで日本で暮らしたが、戦後母国に帰り仕事に就き、その後結婚し二人の娘に恵まれ、祖父とともに北京で順風満帆な生活を送っていたこと。しかし、世の気運が文化大革命へと転換したことで、不遇な状態に追い込まれ、文革が猛威を振るった1966年の冬、マダムが11歳のとき、紅衛兵たちが自宅に押し入り、祖父の愛蔵していた骨董品をことごとく破壊し、そして最もだいじにしていた万暦豆彩馬上杯までも標的となりかけたそのときに、彼らの指揮者たる上役の指令により、壊されずに奪い去られたこと。

 

 そこまで話しをしたところで、デザートが運ばれてきたが、Reiはそれに目もくれずにじっとぼくをみつめていた。ぼくはその気丈な眼を見て、開きかけた口をいったん閉じた。ぼくは躊躇っていた。これからの話しが、あまりにも凄惨であったためである。香港の豪華な中華レストランの個室で、淡々と話したマダムの言葉を思い起こしながら、ぼくは蘇ってくる自分の感情を抑えるようにして、話しを始めた。

 

 この事件ののち、マダムの両親はスパイ容疑で逮捕され、その2年後に祖父が亡くなり、またその翌年に母が地下牢で絶命したこと。父が労働改造所から解放され戻ってきたのは、逮捕されてから8年後のことであり、その翌年にその父も亡くなったこと。ついに姉と二人きりとなったマダムは、中国を脱出しようと試み、香港へ渡る商船に乗り込んだが、姉がみつかってしまったこと。そのとき姉が「わたしは独りで乗り込みました」と叫んだことで、マダムはみつからずに済み、香港へ渡ることができたこと。このときマダムは22歳であったこと。香港で新たな生活を始めたマダムは、親友との出会いもあり充実した日々を送ることができ、その後日本人と結婚し日本に移り住み帰化したこと。そのご主人の仕事が成功したことで、現在は裕福な身分となり幸せな日常を過ごしているということ。

 ――そして何といっても、30年近く前に離別した姉のことを重んじているということ。

 時間的にも経済的にも余裕ができたマダムは、彼女の消息を知ろうと四方八方手を尽くしているが未だ判明せず、ひょっとしたら、姉と略奪された馬上杯が何か見えない糸で繋がっているような気がしてならないと言っていたこと。だから、馬上杯の行方を何としてもつかもうと、マダムは常に中国美術のマーケットに目を光らせているということ。

 

 ぼくの話しが進むにつれ、Reiの表情がみるみるこわばっていくのがわかった。しかし、マダムの現在の幸せな現状を知ると、少しほっとしたような表情を浮かべ、Reiは手つかずのクリームブリュレに小さなスプーンを挿し込んだ。ぼくも表面に載っているクランベリーを口のなかに入れた。

 

 「それで、その馬上杯が、ここにあるモノかと思ったんですか?」これまでのぼくの話しを分析して、Reiは尋ねた。「うん。実は前に、ここの馬上杯を見たことがあって――。香港でマダムから今の話しをされたときに、ひょっとしたら、マダムの探している馬上杯が、ここにあるモノじゃないかと思ったんだ。滅多にないものだって聞いていたから」「結局……違ってたんですね?」「うん……。宋丸さんに訊いたら、世に一点しかないものだって言ったので、間違いなくエリタージュの馬上杯が、マダムの言っているそれだと思ったんだけど、マダムが確認したら、これじゃないって……」「本当に、違うモノだったんですか?」「うん。だって、ここのは、戦前期から日本にあって、日本の古い二重箱に入っているんだ。かつて宋丸さんが修行していた店のご主人が扱ったモノで、それを昭和45年の万博の年に、宋丸さんがこちらにおさめたものだと、そう言ってた」「つまり、もう一つあるってことですね……」「そういうこと……」

 

 そこでぼくらは黙り込んで、お互い少しずつクリームブリュレを口に入れていたが、やがてReiが「そのマダムの家にあった馬上杯がみつかると、お姉さんと会えるっていう確証はあるの?」と問いかけた。ぼくは考え「いや……それは、ないと思う」と答え、「確証はないけど、馬上杯がみつかることで、ひょっとしたら、この件が何か新たな方向へ動くんじゃないかって、良い方向へ流れるんじゃないかって。あくまでもマダムの願望だろうけど、そんな感じのことを言っていた……。あと、もしみつかれば、持っているひとに、頼みたいことがあるって」「何かしら?」「いや……、それは、聞かなかった……」Reiは小さな吐息を一つ漏らすと、「でも……頼みの綱が馬上杯って思う気持ち、すごくよくわかる……」とぼそっと言って、ティーカップを口に運んだ。ぼくもコーヒーを一口飲んでから、思ったことを口にした。

 「でも、普通に考えたら、文革の真っただ中でしょ? その上役が没収したとはいえ、それが、そのまた上役にみつかったら、造反だ!ってことになって、また没収されて……。結局は壊されてるんじゃないかなあ。やきものなんか、あっという間に割れちゃうし……。もし、難を逃れたとしても、40年もの月日が経っているわけだから、その間に失われているんじゃないかなあ」

 そのとき、バンっというテーブルを叩く音がした。ぼくはびくっと反応。Reiの眼が血走っている。「なんてことを、言うんですか!」「あっ……」「あります。絶対に、あります!」「あ、うん……」Reiはぼくを正視し、「前に、宋丸さんがKさんから高麗青磁の小皿を買ったとき、何て言ったか覚えてます?」「ああ……。『百年待ったよ』ってやつ?」「はい」Reiは確(しか)とうなずいて、「宋丸さんは、あの小皿を昔から知っていて、いつか手に入れたいと思っていて、ずっとそのときを待っていたんだと思います」「うん」「だから、思いは、届くものだと思います」「うん……」

 ネエさんも、ハッダの頭を手に入れたときに言っていた。「優れたモノはなくなったりしない。思い続けると、またいつか、きっとめぐりあう」と。先日の教授の埴輪の皇女もそうだった。願いは、叶ったのだ。それにマダムの思いは、これらとは別次元だ。狂おしい烈しさのようなものが込められている。きっと、その念の力で、祖父の馬上杯を引き寄せるような、そんな気がする。

 

 暫しの沈黙のあと、Reiが目を伏せたままぽつりと言った。「ねえ、お祖母さまは、どうしてるのかしら?」「えっ?」ぼくはきょとんとみつめる。Reiが顔を上げ、「日本にいるお祖母さま……」何を言うのかと思い、ぼくは半分吹き出すように「そんなん、とっくに亡くなっているだろう」「うん。今はそうかもしれないけど……」「えっ? どういうこと?」Reiはまだ焦点が定まりきらないというような眼をして「わたしたち、少し視点を変えたらいいんじゃないかしら」と言った。「視点……て?」

 「Kさん。マダムにとって、一番の目的は、お姉さんに会うことですよね?」「……うん。その通りだ」「必ずしも馬上杯をみつけることじゃないですよね?」ぼくは考え「うん」と答えた。Reiは紅茶を一口飲んでから、「マダムが香港に行ったときは22歳って言ってたけど、それは何年の話しですか?」「マダムが1955年の生まれだから、1977年か」Reiは一つこくりとうなずいて、「そのときお姉さんは何歳だったんですか?」「たしか、三つ上って言ってたから、25歳か。なんで?」「はい。お姉さんの立場になって考えてみたらどうかと思って」「なるほど……」「お姉さん、船で捕まったあと、どうなったと思います?」ぼくは上目遣いで考えながら、「そりゃあ、北京に送り返されて……、ああいう時代だから、地下牢とかに放り込まれて……、えっ? ひょっとしたら、お母さん同様、そこで、命を落としたかも……」また、バンっとテーブルを叩く音がした。「そんな風に、考えないでください!」「だって、文革ってのは、そういうもんだろ?」「文化大革命は、1977年に終結宣言が出されています。仮に逮捕されたとしても、刑は軽いものだと思います。マダムやお姉さんのような若者がたくさんいたんですから」Reiの確たる返答に、「えらい詳しいね?」とぼくは訊く。Reiはニッと笑って、「わたし、大学のとき中国史とってたので」と答えた。

 ――なるほど。今日はやっぱり、Reiに話しをしてみてよかったと、ぼくはそのとき強く思った。

 

 「ですから、わたしが考えるに、お姉さんは25歳で、たった独りになったわけじゃないですか。ご両親も亡くなり妹とも別れて」「うん」「そうしたら、頼れるのは、日本いるお祖母さまだけじゃないかなと……」

  それを聞いて、ぼくはマダムの話しを思い出した。たしか――、両親が逮捕され祖父が亡くなった直後、二人は貧しい農村へ送られそうになったところを、祖母の尽力で知り合いの家で保護されたと言っていた。

 そのことをReiに話すと、「やっぱり……。だから、どこかで日本のお祖母さまと繋がりがあったんですよ。少なくとも、お祖父さまが亡くなった後くらいまでは」「ふうむ……」「それって、何年くらいの話しですか?」「農村へ送られそうになったとき?」「はい」「おじいさんが亡くなったのが、馬上杯が奪われて2年後って言ってた気がするから、そうすると、1968年頃か……」「マダムが香港へ渡ったのが、1977年……。その間、きっとお祖母さまとは何らかの形で交信していたんじゃないかしら?」「つまり、お祖母さまの居所を知っていたってこと?」「――はい」「じゃあ、今、お姉さんは、日本にいるかもしれないってこと?」「可能性はありますね――」「ふ~ん」とぼくは腕を組み、首をひねった。「でも、そうしたら、なんで二人はそんな危険を冒してまでして香港へ行こうとしたんだ? 日本へ来ればいいことじゃん」「それは当時、正式に認められてなかったんでしょうね。だから、密入国のようなことをしなければならなかった」「だとしたら、香港へ渡ったマダムは、なぜ日本のお祖母さまに連絡を取らなかったんだ? 香港からだったらわけないことじゃん」「……そうねぇ」今度はReiが首をひねる。「お祖母さまと繋がっていたなら、マダムは、とっくにお姉さんを見つけ出しているだろ」「……そうですね。う~ん……。お祖父さまが亡くなった頃はまだ繋がっていたけれど、それから途絶えてしまったのかもしれませんね……」「亡くなったのかもしれないし……」「それもありますし……。戦後中国に戻れなかったのも、何かお祖母さまのご実家の方の、複雑な事情がありそうですし……」「そうだよ。この間のマダムの話しのなかに、お祖母さまのことが出て来なかったところをみると、やっぱり、縁が切れちゃっているんだと思う」

 Reiは遠くをみつめるようにして、「すごい時代ですね……。日本が中国と戦争して、世界大戦になって、戦争が終わったと思ったら、中国では文化大革命が起こって……。そういう時代の荒波に翻弄されてしまった人生なんて……。到底わたしたちには、理解できないですよね……」

 

 ぼくらは再び黙り込んでしまった。冷めたコーヒーの最後の残りを口に入れると、ぼくは言った。「だから、お姉さんは、今まだ中国にいるんだと思う」「……そうですね。文革のあとは、平和になっただろうし。25歳のお姉さんは、その後、結婚して家庭を持って、幸せに暮らしているのかもしれませんね」「うん。きっとお姉さんの方でも、マダムを探していると思う。絶対」「はい。それは間違いなく、そうだと思います」Reiは明るい顔をみせた。「となると、つまるところ……」ぼくは、膝頭のあたりを軽く一つ叩き、「それらすべてを繋いでいるのが、馬上杯ってことになるのかもなあ……」それに対しReiも、「やっぱり、馬上杯をみつけることですかね……」と言って小さくうなずいた。

 ――そのときであった。ぼくの上着の内ポケットに入っている携帯が鳴った。ぼくは胸から取り出す。「電話ですか?」「うん」携帯を開き着信表示を見て、ぼくはぎくっとした。「Sae」と出ている。そのまま硬直しているぼくを見て、「出ないんですか?」とReiがみつめる。「あっ、いや、ちょっと、ごめん」と慌てて立ち上がると、受信ボタンを押しながら、ぼくは大股で席から離れた。「Kさん? わたし、Saeだけど……」「あっ、はい。ぼくです」思わず声が上ずってしまった。そしてフロアの出入口のところで止まり、あたりをきょろきょろと見回す。まさか……このあたりにいるのか? 「ねえ、Kさん、今どこにいるの?」「えっ、い、今?」ぼくはまた見回す。「Saeさんは?」取りあえず確認。「わたし? ……家だけど」それを聞き「ああ、そうなんだ」と言ったあと、ぼくは安堵の吐息を静かに漏らす。「今、ちょっと、外食中で……」「そうなの?」「ああ、うん。で、どうしたの?」Saeの声が突如跳ね上がった。「それが、たいへんなのよ!」「えっ? 何が?」「例の馬上杯、来月のロンドンのオークションに出るんだって!」「えええっ!  まじっ!?」ぼくは、フロアのステップのところに足を掛けたまま、思わず叫び声をあげた。「そうなのよ。さっき、オークションハウスB社の担当者から連絡が入って。エキスパートの学者さんが、同じものがうちにあることを知っていて、写真の画像を送ってくれないかって。貴重な類品として図録に載せたいんだって」ぼくはにわかに言葉が出ず――。「だから、ちょっと、相談したくて……」「うん」ぼくはごくりと唾を飲み込んでから、左手を受話器に添え確認するように訊いた。「それって……マダムの言ってたモノ?」「それが、まだ、そのモノなのかどうか、わからないのよ。万暦豆彩馬上杯が出るっていうだけで。今ね、ロンドンに問い合わせてるの。出品される作品の写真データを送ってくれって」

 

 うーむ。こりゃあ、たいへんな事態になってきたぞ。ここにきて、同様の馬上杯が出てくるということは……。それは、おそらくマダムの祖父の旧蔵品にちがいない。もはやそういう流れになってきているのだ。マダムの切なる思い(ひょっとしたらお姉さんの思いも入っているかもしれなく)が、結実しようとしているのだ。

 ――「だから、Kさん…」そのSaeの声に耳を傾ける。「画像が届いたら、知らせるわ」「了解」ぼくは電話を切った。

 

 席に戻ったときの、ぼくのただならぬ表情を読み取ったのか、Reiが即座に訊く。「何か、あったんですか?」ぼくはReiを見据え「うん」と答えた。「今、情報が入って――。来月のロンドンのオークションに、同じタイプの馬上杯が出るんだって」「ええっ!」その眼が見開く。「――どういうことですか?」「おそらく、それが、マダムの馬上杯なんだと思う」「――本当ですか?」「まだ、確定してないけど、たぶん……。二つとないようなモノなんだから……」それを聞き、Reiは信じられないという顔をしたまましばらく呆然としていたが、やがて、うん、うん、と二つ大きくうなずいてから、「わたしも、そう思います。きっと、出てきたんだと思います」と言って、「よかったぁ……」と顔を綻ばせ、「やっぱり……思いはかなうんですね」とぼくをみつめた。その顔を見て、ぼくも大きく一つ息を吐いた。にこやかな目と目が交錯する。

 すると、Reiは目を大きく開け、二三度ゆっくりと瞬きを繰り返したのち、「ところで――」と訊いてきた。「それって、どこからの情報ですか?」「えっ?」「今の電話……、ですよね?」「あっ、こ、これ?」と、ぼくは携帯を手にしたまま言葉につまる。「これはぁ……何つったら、いいのか……」ぼくが目を逸らし、しきりと後ろ髪を搔いていると、「――あと、一つ確認したいことがあって」とさらに問いかけてきた。「Kさん。さっき、ここのエリタージュの馬上杯を見たことがあるって言ってましたが……、誰に見せてもらったんですか?」えっ? 直球がきた。「だって、ここのコレクションは、プライベートですから、普通では見られないはずですよね? たしか」Reiはたたみかけるように、「どうやって見ることができたんですか? 宋丸さんに頼んだようにも思えないし……」ぼくは必死になって頭を回転させたが、中身はマダムの馬上杯に占拠されてしまっており、うまい台詞が出て来ない。「う~ん……」と小さくうなったときであった。先ほど注文を取りに来た年配のウエイターが、トレイを持って現れた。何やらデザートが載っている。

 「季節のデザートをお持ちいたしました。本日は、八朔(はっさく)のゼリーでございます」蝶ネクタイのウエイターがガラスの器を手に取り、Reiの前に置いた。「えっ」とぼくらは顔を見合わせる。Reiが「すみません。頼んでませんが……」と目を向けると、ウエイターは柔和な笑みを崩さず無言でうなずき、「お紅茶のおかわりは、いかかでしょうか?」とReiの前にメニューを差し出した。「はあ」と言いながらReiはメニューを受け取り、目を落とす。その瞬間、ぼくの膝元に向かって蝶ネクタイの右腕が伸びた。紙切れが握られている。ぼくは思わずそれを受け取った。メモ用紙が折り曲げられているのを確認し、ぼくは蝶ネクタイを見やる。しかし、こちらの方に一切目もくれず、Reiの注文を取っている。ぼくは膝に掛かっているナプキンを陰にしながらメモ書きを開いて、うっと声を上げそうになった。

 

 「これは、わたしからの、差し入れです。それ食べたら、2階に来てね。さっきの打ち合わせをしましょう――」その一番下に「Kさんの声と重なって、ドビュッシーの名曲が聴こえたわ」とある。ぼくは顔を上げ、耳を澄ませた。この音楽かぁ……。2階って…………。家にいるんじゃあ、なかったのかよ……。

 ――うーむ。こいつも、なかなかの、強者(つわもの)だな……と、ぼくは思った。

 

 半ば放心状態のぼくの顔を見て、「なんか、変じゃないですか? こんなタイミングでまたデザートが出てくるなんて?」とReiが問う。ぼくは「さあ……」と首を傾げながら、「今日は宋丸さんの予約だから……特別に出てきたんじゃないの……」と上手にかわしたが、Reiは解せない顔でじっとぼくをみつめてから、はっとわれに返ると、「Kさん。まだわたしの質問に答えてないじゃないですか」と再び詰め寄ってきた。「馬上杯の情報は、どこから入ったんですか?  それと、もう一つ。エリタージュの馬上杯は誰に見せてもらったんですか?」「うん。わかった。まあ、それは、また、おいおい……」と言ってぼくはゼリーを頬張る。「んっ! うまい! Reiちゃん、この八朔の、つぶつぶが!」実際に美味しかったのだ。「ちゃんと答えてください」そう言いながらReiもゼリーを口に入れ「うん」とうなずいた。「うまいでしょ?」「おいしいですよ……ってえ、話しをすり替えないでください!」「わかった、わかった。でも先ずは、せっかくきたんだから、ゼリーを食べようよ」「それは、もちろんいただきますよ。でも、答えてくださいよ」「うん。だから、それは、おいおい……」「なんですか? その、おいおいって」「とにかく、それに関しては、おいおい話すから……」

 ぼくは、そのあと、「おいおい」を15回くらい言って、この窮地を乗り越えた。

 

 エレベーターで2階に降りると、先ほどの蝶ネクタイのスタッフが待ち構えていて、個室の扉を開けた。Saeが座っている。開いたノートパソコンに向けられていた大きな眼を、ゆっくりとぼくに移すと、Saeはふふっと笑った。「可愛らしい彼女さんね」「――彼女ではないので」ぼくは椅子を引いて腰かけると、「家にいるんじゃ、なかったの?」「家にいましたよ。電話しているときは……。でも、受話器から、ドビュッシーが流れてくるんですもの。だから、タクシーでここに来たの。うちからすぐだし。善は急げで――」ぼくが口をへの字に曲げていると、Saeが息を弾ませ、「早速、届いたのよ。ロンドンから、画像が」「まじっ!」Saeはこちらにパソコンを向けると、英語で綴られているメールの画面を出し、そこに添付されている写真を何枚かクリックを繰り返ししながら一枚一枚流してみせた。そして、6枚目の写真のところで指をとめた。

 ――「これ」Saeがさす。アップにされた画面には、赤い唐花の左上に緑色の釉がポチっと付いている。ぼくは瞬間「あっ」と声を出し、マダムの言葉を思い返した。

 

 「うちのは、赤い花文様の左斜め上に、ちょこんと、緑色が飛んでいて……。よく覚えている。それが可愛くて……」

 

 まさに、これだ! マダムの家にあった馬上杯だ! ぼくは画面を指さし立ち上がった。「これだよ! 間違いない!」「うん。おそらく、そうでしょう」同感というようにうなずくSaeを見ながら、ぼくは携帯を取り出した。「よし、マダムに教えてあげよう」と画面を開いたとき、「ちょっと待って」とSaeが制した。「どうしたの?」「Kさん、この件で、もし自分ができることがあったら尽力したいって、言ってたでしょ?」「うん……、その通り」「わたしも……、この話しを聴いて、マダムにも会って、うちの馬上杯もからんだりしていて、なんか他人事(ひとごと)ではないような気がしていて……、だから、わたしも、おんなじ気持ちなのよ。何か力になれないかなあと思っていて……」

 Saeの大きな黒い瞳が鮮やかな光りをもって揺れ動いていた。それにつれ、浮かび上がってくるように映る縹(はなだ)色の水玉模様を、ぼくはじっとみつめていた。

 「――わたし、ロンドンへ、マダムと一緒に行こうかと思ってる……」「うん」「――だから……Kさんも、一緒に来て」「……うん」とぼくは答えていた。

 

 きっと、それが正解なのだろう。ここまできたら、見届けなければならないし、微力ながら何かできることがあるかもしれないのだ。

 「百年待ったよ」と言った宋丸さんの言葉が、「思い続けると、またいつか、きっとめぐりあう」と言ったネエさんの言葉が、「寝る前に、出会えるように願をかけている」と言った教授の言葉が、そして、以前Z氏が言った「骨董の持つ業(ごう)」というフレーズが、次々とぼくの頭のなかを駆け巡って、最後に馬上杯が瞼の奥に浮かんだ。

 ぼくはSaeの顔に今度はしっかりとうなずいて、携帯に目を移したときであった。液晶画面が光り着信音が響いた。画面には登録外の見知らぬ数字が並んでいる。

「彼女からじゃない? さっき、Kさん、つれなく帰しちゃったから――」「いや、違う。知らない番号だ……」ぼくは取り敢えず受信のボタンを押した。

「もしもし……」すると「もしもし」と言う女性の声がする。「ん?」「Kさんですか?」「はあ……」「わたし、Miuです……」「Miuちゃん?」Saeの目を気にしながら、「どうしたの?」「ごめんなさい。遅い時間に」「いや」「さきほど、先日の数学博士から連絡が入って」「それで?」「はい。お金が用意できたので、取りに来てくださいとのことで。父に言ったら、そうしたら、またKさんと一緒にお伺いしてくれって」「いつ?」「明日の午後です」「わかった」「でも……何かそのときに相談したいことがあるって……」「相談? ……なんだろう?」「それは、行ってみないとわからないみたいで」「了解。明日、行きます」と言ってぼくは電話を切った。

 

 「いろいろと忙しそうね、Kさん」「あっ、うん……」Saeはパソコンの画面を自分の方に戻し、「セールは、5月15日。ヴューイングは、10日から。場所はロンドン、ボンドストリートにあるB社2階。そう、マダムに伝えて」と、ゆっくりと口角をあげて言った。「わかった」ぼくはいったん閉じた携帯を再び開けた。

 

 

 翌日の午後1時、ぼくとMiuを乗せたハイヤーが教授の家の前で止まった。「じゃあ、こちらで待っていてください」ドアを開けた運転手にぼくはそう告げた。今日は、現金をもらって帰らなければならない。ぼくの手にはやや大きめの風呂敷。Miuに続いて車を降りる。

 玄関先で出迎える奥様に「失礼いたします」とお辞儀をし、燦燦と陽の入る応接間へ。座ってすぐに奥様がお茶を持って現れた。今日はいつものペースだ。奥様が目を伏せ「少々お待ちを」と会釈しその場をさがる。入れ替わるように扉が開き、教授が片手を上げてやってきた。手には紙袋を持っている。おそらく現金が入っているのだろう。ぼくらは立ちあがる。かけなさい、という教授のハンドサインで、ぼくらは椅子に腰をおろした。教授は紙袋を自分の右脇に置くと、さっそく手を差し入れ、なかにある現金を少しずつ取り出すとテーブルの上に置いていった。徐々に百万円の束が積み上がっていくのを、ぼくは静かに見つめていた。そして、全部を出し切ったあと、教授は札束を数えながら揃え始め、それが終わると、黒縁眼鏡に指をかけたまま、じっとぼくに目を注いだ。

 ぼくは現金に目を向けた。百万円の束が十個重ねられた山が五つと、その横に五つの束が置いてある。全部で、五千五百万であった。

 ――価格は、七千万円である。ぼくは無言で教授をみつめるしかなかった。

 やがて教授の口が開いた。「すまんが……これしか用意できなかった」「……」「あとは……ぼくの所蔵品を一つ合わせるから、それでなんとかしてもらえないかねえ……」

 ――相談とは、このことだったのか。

 

 教授は背を丸めると、左手の床に向かって指をさした。この部屋に入ったときは気がつかなかったが、数学の専門書が窮屈に並んでいる本棚の下に、何やらモノが一つ置かれていた。ぼくは目を凝らしてみつめ、息を呑んだ。

 

 ――それは、Miuが「希望の箱」と名づけた仏手の石像であった。

 

(第41話につづく 10月6日更新予定です)

豆彩花唐草文馬上杯 明・万暦在銘

にほんブログ村 美術ブログ 古美術・骨董へ にほんブログ村 美術ブログ 創作活動・創作日記へ にほんブログ村 美術ブログ 美術鑑賞・評論へ にほんブログ村 美術ブログへ