骨董商Kの放浪(39)

 ぼくは、両手で抱えた小さな風呂敷包みにぐいと力を込め、受付に向かった。二人の女性が座っている。その右側の短髪の女性の前に進み出ると、緊張した面持ちで名を告げた。受付嬢は口元に笑みをたたえ「はい」と答えてからデスクに目を落とし、すぐに顔をあげた。「お待ちしておりました」その瞬間ちらりとぼくの風呂敷に目を当てたが、一定の笑みを崩さずに「あちらのエレベーターで6階にお上がりください」と手のひらで示した。ぼくはこわばらせた顔を一つ縦に動かすと、ぎこちない動きで右奥のエレベーターへと向かった。途中、何人ものスーツ姿とすれ違う。実は今日、ぼくも一張羅のスーツを着込んでいるのだ。ぼくは、8基あるエレベーターのうちの一つに乗り込むと、人垣から手を伸ばし「6」のボタンを押した。

 「6」のランプが消滅し扉が開いたが、誰もおりない。慌てて「すみません」と小声で言いながらエレベーターから出たところで、ぼくは思わず立ち止まった。すらりとした長身の女性が待ち構えていたかのように、整った微笑(えみ)でお辞儀をしたからである。「K様。お待ちしておりました」右足を前に出し左足をやや横に向けて揃え、肘を直角にし、ピンと伸ばした両手をへそ下あたりで重ね、30度の角度できれいに腰を折り曲げている。――いかにも大手化粧品会社の秘書室らしい接遇の姿勢に、ぼくはたじろぎながら「あっ、どうも」とあわてて頭を下げた。彼女の先導で、応接間に通される。「今、秘書室長がまいりますので、少々お待ちくださいませ」女性秘書は会釈をしながらドアノブを静かに引いた。

 扉が閉まると同時に、ぼくは「はあ」と深いため息をつきソファに身を沈めた。そしてあたりを見回すと、取り敢えず風呂敷包みを自分の真横に置いた。

 箱のなかには、香港で仕入れた定窯(ていよう)白磁碗が入っている。買ったはいいが、誰に見せることもなく、部屋のクローゼットの奥にしまいっ放しになっていたモノである。先日宋丸さんから、この碗に興味のある方がいらっしゃるからと、その連絡先を渡されたのでアポを取り、そして今日ここに来ているのだ。しかしそれが、こんな大企業の偉い方とは知らず、本社の玄関口からずっと緊張しっぱなしで呼吸を整える暇(いとま)もない。ネクタイを緩めると、ぼくは深呼吸を繰り返しながら、誰もいない空間で、ただやたらと目を泳がせていた。

 ガチャリという扉の開く音で、ぼくはとっさにネクタイを締め直しドアをみつめる。そこにいたのは、40代後半か、髪にやや白いものが程よく交じった高身長のハンサムな男性。ぼくを見るなり切れ長の目を一瞬大きく開けたが、すぐに優しい目線に戻すと「失礼ですが、Kさんですか?」と問いかけた。上品な微笑に、ぼくは「はい」と素直に返事をし立ち上がる。「わたしは、ここの秘書室長をしております」差し出された名刺を両手でいただいたが、端正な顔立ちとほのかに漂う芳香に気おされ、そのまましばし動けず。やがて我に返ると、急いで自分の名刺を手渡した。「では、あちらの部屋で会長がお待ちですので。どうぞ」「あっ、はい」ぼくがあとに続こうとしたところで、室長が振り返り微笑んだ。「Kさん、あちらのモノも」細く長い指の先にある風呂敷包みが目に入るや、「あっ、すみません」と、ぼくは慌てて取りに戻った。

 

 広い廊下の中央にある「会長室」と書かれた扉を、秘書室長は二度軽く叩くと「失礼いたします」とドアノブをゆっくり押した。ぼくは下を向いたまま息を殺し、室長に隠れるようにして後に続く。すぐに張りのある高い声が広い室内に響きわたった。「ようこそ、お出でくださいました」顔を上げると、10メートルほど先の豪奢なデスクの中央で立っている小柄な老紳士の姿が目に映った。

 「わたしは、会長のFでございます。どうぞ、そちらの椅子に」Fと名乗る白髪(はくはつ)の紳士は、机の前にある応接用のソファに向け右手を大きく開いた。すると、室長が素早い動作で老紳士の脇に進むと、右腕を両手で抱えるように持ち、応接椅子へ誘導した。どうやら脚が弱っているようだ。室長が慎重に足元をみつめながら腕を取り一緒に歩く。しかし、F会長は身体を彼にゆだねることなく、しっかりとした足取りで前に進んだ。老紳士の片腕を軽く支えている室長が、こちらに目を向け合図する。「Kさん、どうぞ、そちらにおかけください」ぼくはそれにしたがいソファに向かう。

 距離が縮まったところで会長に視線を合わせ、はっと息を呑んだ。脚が悪いのではない。目が見えないのだ。秘書の介添えで、ぼくの右手の椅子に腰を落とした盲目の御仁は「はじめまして。ようこそおいでくださいました」と膝に両手を置き、力のある声で丁寧に挨拶をした。閉じているのか、薄く開いているのか、視力のないその眼を見て一瞬言葉を失ったが、すぐにその場で立ち上がり頭を下げた。「どうも、はじめまして。Kと申します。本日はお忙しいなか、お時間をつくっていただき、ありがとうございました」ぼくの緊張具合が伝わったのか、F会長は「ははは。まあ、そう硬くなさらずに」とにこやかに笑い、「ご覧のとおり、わたしは、目が不自由になってしまいましてね」と言ってまた微笑んだ。すぐ脇で立っている室長が「Kさん、そうぞ、お座りください」と促す。まもなく、女性がぼくの前にお茶を運んできた。会長の前にはマグカップが置かれる。

 

 「お声を聞くと、ずいぶん若そうですが、失礼ですが、おいくつですかな」笑顔をそのままに訊く。「はい。今年で、29になります」ぼくは膝頭を合わせ答える。「そりゃあ、また、若い骨董屋さんだ」「はあ、単なる若造です」「いや、若いということは素晴らしい。あなたは、良い仕事を選んだ」

 刻まれた深い皺がゆったりと揺れた。その笑い顔は、ひとを惹きつけるに充分な魅力を持っていた。ぼくの頭に「人徳」という言葉が浮かぶ。こういうひとのことを言うのかもしれないと、ぼくは直感した。

 F会長は迷いなく手を伸ばすとマグカップの取っ手をつかみ、ゆっくりと口に運んだ。おそらくそれは、寸分違わぬ位置に置かれているのだろう。会長がカップをおろそうとすると、室長がそれを受け取り定められた位置に戻した。ぼくの右隣にF会長。その横に秘書室長が立っており、ぼくの正面にはソファが置かれていたが、その向こうの壁、つまりぼくの正面の壁、――とはいってもここから5メートルくらい離れてはいるが、その壁面に置かれた棚の上に、高さ20センチほどの土偶が飾ってあった。おそらく中国のモノだろう。距離があったので、それが漢時代なのか唐時代なのか判然としなかったが、女性の像に思えた。その立像の佇まいと、深い皺の刻まれたF会長の泰然とした笑みが、不思議とぼくの気持ちを落ち着かせていた。

 

 「それでは、Kさん。そちらの方を」室長が風呂敷包みに手を向ける。その声に白髪(はくはつ)の頭が右に動く。「そんなに急(せ)かしちゃあ、いけませんよ。室長」それに対し秘書は腰を折り「しかし会長、このあと急な会議が入ってしまいましたので」と耳打ちをする。「まあ、まあ。こういうものは、急かしちゃあ、駄目です。そんな気分で見てはいけない。ねえ、Kさん」まるで見えているかのように、細い目をぼくに注いだ。「はあ……。あっ、でも、お忙しいのでしょうから。今、お出しします」ぼくは隣に置いた風呂敷包に手をかける。「ははは。ごめんなさいねえ」会長はそう言いながら「テーブルの上に敷物を」と指示。秘書は長身を折り曲げると卓の下から50センチ四方の更紗のような布を取り出し、手際よく広げた。ぼくは箱の紐をほどこうとしたところで、はたと気づき、その手が止まってしまった。

 ――そうなのだ。相手は目が見えないのだ。あまりにも自然な流れについうっかり忘れていたが、これを出したところで見ることができないのだ。なんということだろう。このあといったいどうやって、事を進めたらよいのだろうか……?

 ぼくの躊躇いを感じたのか、室長は屈んだまま敷物を手のひらで指し、優しい調子でぼくに投げかけた。「この上に置いてください」ぼくはそれにしたがい、箱から碗を取り出すと、おそるおそる卓の上に置いた。更紗のあずき色に定窯の牙白色が冴える。すると室長が両手でそれを結び持つようにして、そのまま会長の手許に運んでいった。「あははは」老紳士は小さな笑い声を漏らしながら、下腹の辺りで碗を受け取ると、掌のなかで転がすように撫で始めた。俯いている顔は、じっとそれをみつめているようにみえる。ぼくは説明をせねばならないと思い口を開こうとした瞬間、「これは、良い定窯ですなあ。実に、良い」「えっ?」とぼくは思わず声を出す。白磁の碗の内側を這うように、枯れた指先が動いている。「ん、うん……! 蓮華の線も、うつくしい」老紳士は納得したようなきれいな笑みをつくった。

 ぼくは呆然とし言葉を失った。冗談だろ? 持っただけで、これが定窯だと判(わか)るというのか?  であるとするなら、このひとは相当な熟練者である。かなりのレベルだ。ぼくはじっとF会長をみつめた。確かに、碗を手中で操るようなそのしぐさは、只者ではないというオーラを発していた。

 ――定窯の器形にはいくつかの特徴があった。器胎の薄さ、高台の低く小さいところ、口縁部に嵌め込まれた「覆輪(ふくりん)」という金属の輪っかなど。確かに定窯を熟知しているひとからみれば、手に取っただけでそれと判るのかもしれない。しかし、ぼくが驚愕したのは、文様の美しさを指摘した点であった。これは、さすがに見ないと判らないのだ。こればかりは触れるだけで判るものではない。

 確かに、この碗の内部には蓮の花の文様が流麗に彫られている。しかし、刻された文様の上には釉(うわぐすり)がかかっているのだ。なので、彫りあらわされた線の調子までは、判るはずはない。それに定窯の「刻花(こっか)」という彫りは、非常に浅くあらわされるのが特徴である。したがって、彫られた線の凹凸は、表面にかけられた釉薬により、ほとんど無いに等しいのだ。触れただけでは九分九厘判らないのだ。九分九厘。九分九厘……。……。なるほど。それは……ゼロではない。しかし……この有るか無いかの線の窪みを感じ取るには、指先に尋常でないほどの鋭敏な感覚が求められる。尋常でないほどの鋭敏な……。

 このときぼくの眼に、器を愛撫し恍惚にひたっている聾唖(ろうあ)の老人の表情が映った。そして、ぼくは悟った。目が見えない分、指の感覚が並外れて研ぎ澄まされているのだということを。このひとには判るのだ。刻花の流れるような優美な線や、瑞々しくかかっている釉の艶までも。

 ぼくはしばらくF会長の指を見つめていた。年相応の皺がたたまれてはいるが、それは決してやせ細ったものではなく、むしろ豊かな弾力があり、若々しさを感じさせた。と同時に、この指をどこかで見たような気がしていた。よく似た指を。ぼくは頭を巡らせ思いつく。そうだ。それは、宋丸さんの指だ。宋丸さんの指も、外側は幾重もの皺に覆われているが、その内側は、70代後半とは思えないほどの栄気を感じさせる、そんな指をしていた。それにそっくりだ。

 

 ぼくは顔を上げ、率直に尋ねた。「どうして、おわかりになるんですか?」

 ぼくの左目の端に、やきものの立像が映る。先ほどからちらちらと目に入るこの俑(よう)は、いったいいつの時代のモノなのだろうか。ぼんやり思いながら、ぼくは老紳士の解答を待った。こぼれた笑みからすぐに、張りのあるまっすぐな声が放たれた。

 「そりゃあ、あなた。伊達に30年も骨董、蒐(あつ)めちゃあいないよ。あっ、はっは!」会長の愉しそうな笑い声が高らかに室内に響きわたる。その声で思わず、ぼくは正面を向き姿勢を正した。再び立像が目に映った。漫然と見ていたそれに焦点を合わせたぼくは、これが北魏(ほくぎ)時代の加彩(かさい)の俑であるのが判った。頭上に冠を載せているので、文官という男性の像であるが、美しい顔立ちは、一見女性のようにみえる。これは北魏時代の俑の特徴であった。冠に施されたラピスラズリの青と、衣装に賦彩されたベンガラの赤が鮮やかに残っている。姿形も含め、遠くからでも、気品のようなものが感じられた。――秀作だと、ぼくは思った。

 

 老練な職人のような手の動きが止まり、室内に澄んだ高音が響いた。

 「気に入りました。これは、いただきましょう」F会長は碗を室長の手に戻すと「あとは、あなたの方で進めてください」「承知いたしました」秘書は碗をテーブルに載せ、「それではKさん。ひと先ず、これをおしまいください」「はい」そしてぼくは、改めてF会長に向き直り膝に手をあて、「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。

 ぼくが碗を箱に入れ紐に手をかけたときであった。

 「あなたは、先ほどからあの俑を見ていますね」会長の問いかけに、ぎくりと指が止まる。「は、はあ……」何だか心まで見透かされているような気がしてきた。「はっ、ははは」盲目の老人が笑う。ぼくは手を止めたまま再び俑を見つめた。遠目ながら端正な顔立ちが目を惹いた。

 「北魏でしょうか? 見事なモノですね。立ち姿もお顔も、うつくしい」ぼくは素直な感想を言葉にした。

 

 「あなた、Kさんと言いましたね」「はい」「もう一杯、お茶でもいかがですかな」それを聞くや室長が近寄り、「会長、すぐに次の会議のお仕度を」と小声で伝える。ぼくはそれを聞き、紐を結ぶ手を早めた。会長は笑みを浮かべながら秘書の肩の辺りを軽く叩くと、「ははは。そんなの、きみ、30分くらい待ってもらえばいいことだろう」「しかし……」「待ってもらいなさいな。わたしはねえ、このひとと、ちょっぴり話がしたいんだよ。若い骨董屋さんと話をすることなんて滅多にないからねえ。二人きりにしてもらえんかね、室長」整った顔が少々歪む。秘書はしぶしぶ了解すると「手短にお願いしますよ」と言い残し、部屋から出ていった。

 

 やがて女性が現れ、ぼくのお茶だけを差し替えていった。F会長は、肘置きに腕を載せ両手を腹のあたりで組み、背もたれに寄りかかると首をやや上げ宙に目線を置くようにして、話しを始めた。

 

 「わたしはねえ、骨董が生きがいなんですよ。四十の中ほどからかなあ、取り憑かれたのは」と言ってから口元を緩め、「でもそれまでは、骨董なんか買うものかって思っていてねえ。まあ、父親のせいだがね」ぼくの方へ顔を移すと、「親父(おやじ)も好きでねえ。骨董が。居間やら部屋にいろいろと飾ってあって。よくいじっていたなあ」

 再び顔を上げくうをみつめると、昔話でも語るような口調で、「何で骨董が嫌だったかというとねえ……。戦争中のことだが、東京に空襲が来ると、家の敷地につくった防空壕のなかに、家族みんな避難するわけなんだけど、いつでも親父だけやって来ないんだ。自分の部屋のなかで、ずっと見ているんだよ。骨董を。空襲警報が狂ったように鳴り響いているのに。わたしは、それが嫌で嫌で、たまらなかったんだ。まだ、12歳だったからねえ。お父さんが死んじゃうって、いつも防空壕のなかで泣きわめいてたよ」

 会長はそう言うと、一息つくようにマグカップに手を伸ばした。それを見てぼくは両手でカップの底を持ち上げ、手許に運んだ。「ああ、ありがとう」会長は一口飲むと話しを継いだ。

 「わたしは学童疎開新潟県にいたんだが、それが耐えられなくてねえ。何度も東京行きの汽車に乗り込もうとして、こっぴどく叱られて。でも、どうしても家に帰りたくてねえ。そうしたら、父も母も、どうせ死ぬなら一緒に死のうって言ってくれたものだから、わたしは家に戻れたんだよ。それなのに、親父は、焼夷弾が降っているってのに、防空壕に入らずに、部屋のなかでじっとしている。あるとき、近くに爆弾が落ち物凄い轟音と炎が舞い上がったのを見て、わたしは、防空壕から飛び出して部屋に向かったんだ。後ろから母親の金切り声が聞こえていたが、それを振り切るようにして親父の部屋へ入った。そうしたら、一本の蝋燭の火が包み込む僅かな空間のなかで、親父はじっと動かずに、手許に置いたいくつかの骨董品を怖い顔をして睨んでいたんだ。それが、また恐ろしくて『なに、やってんだよう!』と怒鳴ったのを覚えているよ。だから、憎かったんだなあ、骨董が……」会長がカップを戻そうと身体を屈めたのでぼくは受け取り、元の位置に正確に戻した。

 

 「戦争が終わって、20年近く経って、親父は亡くなった。そしてわたしは、祖父の興した会社を継いだ。わたしは、親父が死んだら、骨董品を全部売っ払ってしまおうと決めていたんだ。厭わしかったんだなあ、それらのモノが。子供の頃から、いつも冷めた眼で見ていたからねえ」再び会長が、ぼくの顔に目を合わせるように、首を動かした。

 「しかし、亡くなる何か月か前だった。親父がわたしに珍しく骨董の話しをしたんだよ。初めてじゃあ、なかったかなあ、あんなに語ったのは。わたしが嫌っていたのを知っていたからねえ。そのとき、言ったんだよ。『おれは、戦時中、空襲警報が鳴り響いているときが、一番審美眼が磨かれた』と。――わたしは思い出していた。あのときの情景を。薄暗がりで見た父親の怖い顔を。この時わたしは思ったんだ。人間というのは死に直面したときに、最も感性が研ぎ澄まされるのかもしれないと。だが、ここまでして美を追求するなんて、親父の真意をまったく理解できないでいた。わたしにとっては、どうでもいいことだと思っていたからねえ。ただ、このときの親父の言葉が妙に耳に残っていて、だからわたしは、親父の残した骨董品を処分できないでいたんだ」

 

 F会長はそこでいったん言葉を切ると、後頭部を背もたれにあて、ゆっくりと体重を後ろにかけて、天井を見上げるような体勢をとった。そして、ふうっと深く一つ息を吐くと、見えない瞳を遠くに沈ませるようにして、静かに語り出した。

 

 「親父が死んでから一年くらいのことだった。わたしは最愛の家族を失ったんだ。交通事故だった……。久しぶりの休日で、わたしが運転をし、助手席に妻、後部座席に12歳になる一人娘。対向車線からはみ出した大型車が、物凄いスピードで突っ込んできたんだ。車はぺしゃんこになった。何故かわたしだけが、奇跡的に助かったんだ……」

 ぼくの目は大きく開かれたが、老紳士の瞼は閉じられたままだった。「それからというもの、わたしはがむしゃらになって働いたよ。何かに集中していないと、この虚しい気持ちが果てしなく続くように思えて、仕事に没頭したんだ。会社は業績を上げどんどん大きくなっていった。祖父や父の念願でもあった一部上場企業にもなった。しかし、わたしの虚無感は埋まらなかった。そんなときだったよ」

 ――会長は背もたれから、すうっと首だけを起こした。

 「銀座の大通りを歩いていると、大きなギャラリーの横に置いてある立て看板が目に入ったんだ。骨董店だった。わたしは、そのビルの三階にある小さな店に吸い込まれるように入っていったんだ。それが、宋丸さんとの出会いだった。扉を開けると、わたしより幾つか上の店主が、屈託のない笑みを浮かべて『いやあ、よくお出でくださいました』って。まるで、約束でもしていたかのようにわたしを出迎えてくれてねえ。促されるままに椅子に腰かけた瞬間、わたしは雷に打たれたような衝撃を受けたんだ。目の前に飾ってあった土の人形の顔が、亡くなった妻と娘にとってもよく似ていたものだから」

 F会長は背もたれからゆっくりと体勢を起こすと、右を向いた。その先には立俑がある。ぼくの目も自然とそれに向けられた。

 「宋丸さんは、これが、中国の北魏時代という6世紀頃の、当時の文官の姿をうつした俑(よう)という副葬品だと説明してくれた。そしてこれは、有名な画家がずっと大事にしていたものだとも教えてくれた。わたしは、迷うことなくこれを買ったんだ。即決だった。それが、骨董との始まりだったなあ……」感慨深げにそう言うと、「それから、暇をみつけては宋丸さんの店に通ったんだ。そして、買った。宋丸さんは、いろいろと教えてくれたよ。しばらくすると、わたしの好みが宋時代のやきものに集中していることがわかったんだ」

 会長は丁寧に言葉を選びながら「鋭さを感じさせる引き締まった器形。清澄で上品な釉の調子。流れるような線で彫り込まれた文様。――宋時代の洗練された美意識が、わたしを虜(とりこ)にさせたんだ」そう言うと、一息つき、純真な笑みを満面にあらわして、「そんなものが出るとねえ、もうたまらなくなって買ったよ。有無を言わさずにね。だからねえ、定窯白磁なんかは、大好きでねえ」と感じ入るような言い方をし、胸のあたりで軽く両手を広げると、「わたしは、あまり大きなものは好まなくてね、掌のなかにおさまるくらいの寸法のモノが好きだった―― 」そして、赤味のさした顔をぼくの方に向け、「買ったらねえ、そりゃあもう、仕事の合間でも、家にいる最中はもちろん、寝る前でも、とにかく撫でまわし、飾って眺め、いったん箱に閉まってはまた取り出して、『やっぱり良いモノだ』って独り言ちて悦に浸ってねえ」自然と高まる自分の声に、相槌をうつように首を何度も縦に動かしながら、「骨董を持つようになってから、わたしの生活は変わったんだ。骨董を蒐(あつ)めることで、わたしの空虚な心が満たされていってんだよ。まるで乾いた喉を潤すように、わたしは骨董を買い求めたんだ」

 

 F会長は、再びソファの背に身をまかすと、「家族を失い孤独になったわたしを、骨董は救ってくれた。われを忘れ懸命になって仕事に邁進しても解消できなかった、なぜ生きているのだと自分に問いかけても答えの出なかった、あのときの虚無感を、骨董は優しく埋めていってくれたんだ。わたしにとって、それは生への渇望といってよいものだった。わたしの明日への活力になったんだ」このときのF会長の無垢な表情が、ぼくの目の奥に印象的に残った。

 

 「わたしは、日ごろの不摂生がたたって、数年前に失明した。しかし、ちっともショックはなかったよ。充分愉しんだからねえ。幸い、わたしの好きなモノは、中国陶磁だ。宋時代のやきものだ。絵画とは違う。触れることができるのだ。わたしのこの手にしみ込んだ感触は、永遠に消えはしないよ。だから、今日の定窯なんか、手にした瞬間にどんなモノか頭のなかに映し出されたよ。はっきりと鮮やかに。ひょっとしたら、実際に眼にする以上に、うつくしくね」

 会長は再びマグカップに手を伸ばした。ぼくがすぐに手を挿し出そうとすると、「大丈夫」という風に片方の手で制すると一口含んで、卓の上に戻した。杯の置かれる音が静かに聞こえた。

 

 「良いモノを手に入れると、その上が欲しくなる。骨董とは、そういうものだ。わたしも、よりうつくしいモノを求めて蒐集を続けた。そしてわたしは、だんだんと親父の気持ちがわかるようになっていった。親父にとっても、骨董は生きがいだったんだ。 最後に親父は、空襲警報が鳴りわたっているときが、一番審美眼が磨かれたと言っていたが、それがどういう意味か、わたしはねえ、目が見えなくなってから、なんとなくわかるようになったんだ。……うまくは言えんがねえ」

 

 薄い眼が覗き込むような視線をつくった。「あなたは、さきほど、どうしてわかるのか、と訊きましたね。形ならまだしも内側の文様まで、なんでわかるのかということでしょう?」ズバリそうだった。「はい」それに対しF会長は深い笑みをたたえると、「ははは。正直言うとねえ、指の感覚だけじゃあ、わからんよ。ただねえ……」まるで悟りの境地を得た高僧のような顔つきで、「長年の経験から、一つ言えることはある。一級品というものは、形や色や文様が高い次元で調和しているということだ。バランスがとれているということだよ」テーブルの上に置かれた箱に視線を落とすと、「この碗は実に繊細で鋭い器形をしている。そして、指から伝わる肌合いもしっとりしている。そういうモノは間違いなく、華麗な線刻文様があらわされているに違いないと。かすかに感じる線の具合からだが、わたしは、確信したんだ」それを聞いて、こくりとうなずくぼくの顔を、F会長はじっとみつめるようにして言った。

 「――それと、もう一つ。なぜ、これが優れたモノだとわかった理由……」ぼくはただ口を閉ざし、老齢の紳士をみつめた。「ははは。そりゃあねえ、宋丸さんが、言ったからだよ。『会長、良い定窯がありますよ』って、勧めたからだ。宋丸さんがそう言うんじゃあ、間違いない。わたし好みの一品だろうとね」

 ぼくに注がれた細い目がやや開いたようにみえた。

 「これは、あなたが、買ってきたのですか?」「はい」会長は、ぐいと右手を差し出した。「すばらしいものを、ありがとう」ぼくは思わずその手を握った。びっくりするほどの圧力に、ぼくも自然と力が入った。「こちらこそ、ありがとうございました」「骨董はねえ、人を騙すこともできるが、人を救うこともできる。あたなは、良い道を選んだ」老紳士は満面の笑みでさらに力を込め握り返すと、もう一方の手でぼくの手の甲を二度軽く叩き、「あははは。わたしは、まだまだ、愉しむよ。よろしくお願いしますよ」光りを失ったその眼に向かい、力強く「はい」と答えると、ぼくは左手を添え深々と頭を下げた。

 

 下降していくエレベーターのなかで、ぼくはじっと右手をみつめていた。盲目の老紳士の手力の余韻がまだ残っている。今、ここに来たときの圧するような緊張はなくなっていたが、別種の緊張がぼくを包んでいた。

 エレベーターが開く度に数人の社員が乗ってくる。ぼくは見回し、ふと思う。このなかで、最もスーツを着こなしていないのは自分であろう。それは間違いない。しかし、このなかに、あの老紳士、つまり自社の会長と一対一で、何十分も喋る機会を持つことのできるひとは何人いるだろうか――。いないに違いない。たとえ一生勤めたとしても、そのトップの経営者と相対して話すことなど、ひょっとしたらないかもしれない。それを考えると、骨董の持つ力は偉大だ。骨董を介すれば、どんなに偉い雲の上にいるようなひとでも、こんな二十代の若造と、対等に喋ってくれるわけであり。思いっきり純真無垢な笑顔をみせてくれるわけであり。だから、ぼくはこのとき、骨董に対し、畏怖の念というか、とんでもない仕事に足を踏み入れてしまったんじゃないかという思いが全身を貫き、身が引き締まった気分になったのだった。F会長の「生への渇望」という言葉が蘇る。ぼくは反芻する。「生への渇望」――。

 

 目の前の扉が開き、ぼくは玄関口へと歩を早めた。今までの緊張感が一気にほぐれ、途方もない悦びが身体中にみなぎっていく。よしっ! やったぞ、売れたぞ、定窯碗! 文句ない素晴らしいところへ、おさまったぞ! ぼくは立ち止まるや「グッ、ジョブ!」と言って、両拳に力を入れガッツポーズをした。すれ違うスーツ姿たちの冷めた目線をよそに、ぼくは再びガッツポーズをし、「よっしゃぁ!」と小声で叫んだ。そして「宋丸さん、ありがとう」と付け加えた。今回の件は、宋丸さんが取り計らってくれたのだ。「きみの定窯を気に入るだろうお客様がいるから、直接連絡を取って行ってみろよ」――あのとき宋丸さんは、自分が預かって売るのではなく、ぼくに自分の仕事を譲ってくれたのだ。そしてそれが、ぼくにとって、何物にも代えがたい深い体験になったことに対し、ぼくの胸は感謝の念で溢れかえっていた。腕時計を見る。午後四時。遅出の宋丸さんが活動しているちょうどよい時間だ。真っ先に報告に行こうと、正面玄関を出たところで、見知ったひとが目に入った。街路樹の脇に佇んでいた空色のツーピースが小走りに近寄ってきた。「どうでした?」と、Reiはえくぼをみせた。

 

 今日、ここに来ていることは、Reiはもちろん知っていた。頃合いをみて待っていたのであろう。ぼくはReiの笑顔に答える。「うん! バッチリ!」右手の親指を立てたぼくをみて、Reiは「よかったあ。よかったですね」と両手を合わせ微笑んだ。「うん! だから、これから宋丸さんに報告に行こうと思って」ぼくが二三歩前に踏み出す足をReiが制する。「その件ですが、大丈夫です」「ん?」「宋丸さんに報告に行かなくても」「いや、そういうわけにはいかないよ。先ずは、宋丸さんに」と言ってまた一歩足を出そうとしたところで、Reiが阻む。「実は、今日、宋丸さんから、言われて来ているの」「何を?」Reiは、ニッと笑うとハンドバッグのなかから何やらカードのようなものを一枚抜き出すようにして見せた。クレジットカードだ。「クレジットカードじゃん」ぼくの問いに「はい。宋丸さんのです」「どうしたの?」「くすねてきちゃいました」「ええっ?」「なあんて、嘘です」Reiは、事の成り行きを全くつかめないぼくの顔つきをおかしそうに眺め「宋丸さんからの伝言です」と言って話し始めた。

 「今日はこれで食事でもして、K君の話を一部始終聴いて、あとでぼくに報告してくれよ、とのことです」「ふむ」「ですから、今日は、わたしがすべてを聴きますので。わたしに、話してくだされば結構です」Reiはカードを手にし、またニッと笑った。「でも、それって、本人じゃないと使えないんじゃないの?」ぼくがカードを指さすと、「大丈夫。今日行くところは、宋丸さんの指定したお店なので、わたしでもOKなの」Reiが指で丸をつくる。指のかなたに明るい空が見えた。「でも、Reiちゃん。まだ、こんな時間だよ」ぼくは腕時計をReiの顔に向け「まだ、どの店もやってないんじゃない?」「はい。だから、それまで時間をつぶそうと思って。美術館でも行って」「美術館ていっても、もう閉館時間だよ。だいたいどこも、最終入場が4時半じゃなかったっけ?」「今日は何曜日?」Reiの問いに、ぼくは携帯を取り出し画面を見て答える。「金曜日」。Reiはうなずいて「東博は、金曜日は、9時までやってます」東京国立博物館は、週末の金土は夜9時まで開館しているのだ。「お店は6時に予約してあるので、東博で時間つぶしてから行きましょう」Reiはそう言うと、すたすたと駅の方へ向かって歩いていった。

 

 東博までの道々、興奮の冷めやらぬぼくは、今日の出来事のあらかたをReiに語ってしまっていた。Reiはぼくの話しを何度もうなずきながら興味深く聞き入っていたが、東博の門をくぐると、急に無口になり、まっすぐ東洋館へと向かった。いつもは平成館の常設展示を見てから、本館、そして東洋館へと進んでいくのだが、今日は時間も限られているということもあるのだろう、Reiは庭内に入ると躊躇なく右手の建物に歩を進めた。ぼくもReiに続きなかに入る。ぼくにとっては久しぶりの東洋館だった。

 1階、2階と、Reiは歩調の強弱をつけずに淡々と観て回った。ぼくもReiのペースに合わせ一緒に歩く。おそらく3階の中国美術の展示室ではゆっくり鑑賞するのだろうと思っていたが、Reiは流したような見かたで、そのまま階段を上っていった。4階を通り越し、5階の韓国美術の部屋へ入る。そしてそのなかの高麗青磁のガラスケースの前で、Reiはようやく足をとめ、やや神妙な顔をして、「ふう」と小さな吐息を漏らした。

 

 ――ぼくらの目の前には、透かし彫りの化粧箱があった。ずらりと陳列された青磁群のなかでも一際光彩を放っている、高麗青磁を代表する名品の一つである。

 

 Reiは、その作品を無言でじっとみつめてから、顔をぼくと反対方向に移し、少し時間をかけながらぐるりと展示室を見回した。自然とぼくもその動きに目を沿わせた。Reiは、そのあとしばらく沈黙し、そしてやや視線を落とすと、「初めてKさんと会ったのは、ここでしたね……」と言った。それは、どことなく感傷に浸るような言い方だった。ぼくは思い返していた。あのときReiは、あいちゃんに同行して博物館に来ており、この部屋で初めて挨拶を交わしたのだ。Reiの澄んだ笑みが脳裏に蘇る。「うん。そうだね」とぼくは答えた。しかし、正確には、その前の平成館の考古室で、ぼくはReiを見ているのだ。朱色のセーターに白のコートを抱えているReiの姿。遠目ではあったが、その立ち姿は今でも鮮明に思い出せる。

 「もう、二年以上前ですね」Reiはしんみりとそう言って、うつむいた。グレーのパンプスがぼくの目に映る。――確かにそうだ。あれは、二月初旬の寒い日であった。ぼくがこの仕事をおぼろげながら始めた頃のことであった。早いもので、あれから二年以上経つのだ。

 Reiは顔を上げると、目の前のガラスケースをぼんやりみつめながら、ぽつりとつぶやくように言った。「わたしたちって、どういう関係なんでしょうね……」

 ぼくはとっさにReiをみつめた。しかしReiは振り向かず、再びうつむくと、しばらくそのままじっとしていた。ぼくは答えに戸惑った。

 

 Reiのことは、もちろん今まで考えたことはあった。宋丸さんが店に来る前の時間に二人で長い間喋っていたり、今日みたいに一緒に美術館へ行ったり、食事をしたり、映画を観たり。そんななかでReiの存在は、単なる「友達」という概念では括れないものになっていたことは確かであった。同時に、ぼくのなかにあるReiの「領域」に踏み込むことのできない自分がいることも確かであった。Reiを好きであることに違いないのに。なぜ、踏み込めないでいるのか? いったい、その要因は何なのか? しかし、ぼくはこのときそれを認識しつつあった。その認識しつつある要因の背景にあったのは、ぼくの未完成さ以外の何物でもなかったのだ。ひいては、つまり、自分の不甲斐なさ、覚束なさなのであった。この地に足のついていないぼくを矯正し導いてくれるのは、Reiの「領域」のなかの或る部分であったが、すべてではなかった。ぼくにとってそれは、「骨董商」という無限大の世界であった。ぼくの意識の大半は、現在ぼくのしている仕事に傾けられているのだ。だから、今Reiの「領域」に入ってしまうことは、何か一種の自己欺瞞、もしくは自己逃避になるように思えてならず、また、その決断は今ではないという、確然とした感覚が日増しに膨らんできていて、それに対し抗(あらが)うことに、ぼくは固執することができないでいたのだ。

 

 ぼくの当惑する様子をみて、Reiは両手を口元で覆い「わたし、変なこと訊いちゃった……」と、くるりと機敏に体勢をぼくに向け、にこりと笑みを浮かべた。丸みのあるショートボブが微(かす)かに揺れ、きれいな左耳がみえる。あきらかに作り笑いというReiの表情にぼくはさらに当惑しながら、口を開きかけたときであった。

 「Kさん……前にこの化粧箱、高麗青磁のなかで一番好きだって言ってたけど……」Reiは目の前に並べられている化粧箱にいったん目を置いてから、「今でもそうですか?」とぼくをみつめ確かめるように訊いた。ぼくも改めてそれに眼を移してからReiをみつめ、「うん。もちろん。ぼくは一番好き」と答えた。「わたしも。一番好き」Reiはもとの笑顔に返るとそう言って、「じゃあ、どこが一番好きですか?」小首を傾げ、ぼくの顔を覗くようにして訊いた。「うん……」ぼくは化粧箱をみつめながら、「釉溜りの、青味の強くて、ガラス質で透明感があって、それでいて深くてたっぷりとした何ともいえない釉(うわぐすり)のうつくしさかなあ」化粧箱の上蓋と身の裾部、そして透かし彫りになっている唐草文様の間にも、厚く掛けられた青磁釉が溜まっている。この作品の突出しているところは、透かし彫りを多用した器形はさることながら、その青の釉色の美しさにあった。ぼくの答えに、Reiは、何か安心したようなまなざしをぼくに向けると、「わたしも。一緒です」と優しい笑みで応え、自分に言い聞かせるように「よかったぁ……」と、小さな声で付け加えた。

 するとReiは飛び跳ねるようにして、隣のガラスケースに向かうと、「これも、きれいですよね?」と笑みを浮かべて指をさす。径が12~13センチの素文の碗である。澄んだ青緑色が目に映え美しい。上手(じょうて)の作品だとぼくは思った。

 「この色を何というのか知ってます?」Reiは尋ねた。「青磁の色?」「はい」ぼくは、どこかで聞いたことがありそうだと思ったが、思い出せなかった。「何だっけ?」Reiは碗をみつめ、「ひしょく」と言った。「ひしょく? ひしょくって、越州(えっしゅう)窯(よう)青磁の『秘色(ひしょく)』のこと?」――唐時代の9世紀に中国の越州窯で最高峰の青磁が焼造され、それを「秘色青磁」と称し、その名は当時内外に轟くほどであった。だから、「秘色」というと越州窯の青磁を指すものだとぼくは思っており、「それって、越州窯のことじゃないの?」と訊き返した。Reiは軽くうなずいてから、「その『秘色』ではなくて。高麗青磁の「ひしょく」の「ひ」は、翡翠の「ひ」です。『翡色』です」「へえぇ。翡翠の「ひ」で、『翡色』かあ。なるほど……」たしかに、この高麗青磁のエメラルドグリーンの澄んだ色調は、翡翠の色を彷彿とさせる。あたかも宝石のようなその青に改めて見惚れ、ぼくは何度もうなずいた。「なるほど、『翡色青磁』かあ。その通りだ」中国の青磁を凌ぐともいえる高麗の青磁釉の美しさを形容するに相応しい言葉であると、ぼくは思った。「でも、よく知ってるね」それに対し、Reiは「宋丸さんが言ってました」と、はにかみながら答えた。

 

 「さあ、行きましょうか。ちょうどいい時間なので」Reiの言葉に「うん」と応えると、ぼくらは東博を後にし、地下鉄の駅まで長い道のりを歩いた。

 「で、これから何を食べるの?」ぼくは訊く。「何が食べたいですか?」「えっ? でも、予約してるんじゃないの?」「はい。してます」「じゃあ、何?」「ライスカレー」とReiは答えた。「カレーライス?」「はい」ほお……。なんと、カレーライスできたか。さすが庶民派、Reiの選択だ。「いやですか?」「全然。大好き。カレーライス!」ぼくの頭のなかはカレーライス一色となり、以前犬山が下手なギターを片手に歌っていた、昔のフォークソングのメロディまで、思い出したくもないのに耳に蘇ってきた。カレェー、ラァーイスゥ……。「お腹すいてきましたね」Reiが言う。「うん。急ごう。で、場所は何処?」「大門です」美術俱楽部の方面か、あのあたりは、そういう店が結構ありそうだと、ぼくは想像を膨らませた。

 

 駅を出ると、Reiは西へ向かって通り沿いを歩き出した。繁華街とは逆方向である。「こっちじゃないの?」ぼくは反対側を指さす。「こっちです」と言って、Reiは迷いなく進む。やがて向こうに公園が見えてきた。「ん?」ぼくは何となく嫌な予感がした。「こっちなの?」「そうですよ」ひと気のまばらな通りをReiは突き進む。そして右折。薄暮に包まれた公園のなかに入り、Reiはようやく足を止めた。ぼくの眼前に赤煉瓦のヴィクトリアン様式の建物が聳え立つ。エリタージュ・ハウスだ。

 「えっ⁉ ここ?」目を丸くしているぼくに「ここです」とReiは静かに答えた。「ここって、フレンチだよ?」「知ってるんですか?」「あ、いや……でも……そんな、感じじゃん」「はい。フレンチです」「だって、カレーライス、じゃなかった?」「はい。ここのライスカレー。とっても美味しいんですって。わたし一度食べてみたかったんです」「まじ……」ぼくはたじろぐ。ちらりとエリタージュを見やり「Reiちゃん。こんな高級なところは……」と言うぼくに、Reiはバッグからクレジットカードを取り出し、再度見せる。「宋丸さんが、予約してくれたので」「いや……でもさあ、こういうところは、ちょっと、入りづらいっていうか……」それを遮るように、「Kさん、その恰好、とってもよく似合ってますよ」と言ってぼくの方へ足を一歩踏み出した。「今日はこのために、スーツで来たんでしょ?」

 Reiはぼくの首元に手を伸ばすと、ゆるんだネクタイをきゅっと締め直した。

 ――うーむ。やっぱり、なんだか、こいつにはかなわないなあ、と思いつつ、ぼくはReiのあとに続いた。

 

(第40話につづく 9月4日更新予定です)

加彩文官俑 北魏時代(6世紀)

 

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