骨董商Kの放浪(38)

 「すみません。急いでないので、ゆっくりでお願いします」ぼくはやや身を屈めると、後部座席の両脚の間に置いた箱の位置を最終調整した。風呂敷に包まれたこの箱のなかには、Z氏から預けられたあの埴輪女子の頭が入っている。両方の脚で挟み込むと風呂敷の結び目にしっかりと手を添え、ぼくは万全の体勢をとった。「かしこまりました」ハイヤーの運転手はミラー越しに確認したのち、白い手袋をギアからハンドルへ移すと、静かに車を発進させた。「大丈夫ですか?」隣席の長い髪がなびくように揺れた。「うん。これで動かない」いつもの軽装とは違うグレーのパンツスーツが目に入る。ぼくの返答に、Miuはにこりと微笑んだ。

 この車の行き先は、もちろん、教授の御宅である。Z氏から受けた埴輪の件を電話で伝えたとき、途中で切れてしまったのかと思うほどの長い沈黙ののち、教授は裏返るような声でひと言「見たい」と発したのだった。ぼくの報告にZ氏は即答。「モノはKさんにお預けするので、お客様にご覧に入れてください」なので、さっそくアポを取る。本日の午後二時。最後にZ氏は言った。「娘も一緒に連れていってください」と。

 

 約束の時間より早めに到着したぼくらはハイヤーのなかでしばし時を待ち、ちょうどの頃を見計らって玄関のチャイムを鳴らす。例のごとく伏し目がちな奥様が出迎えると「どうぞ」とスリッパを揃え、ぼくらは奥様の先導でいつもの応接間へ。応接間は、これも例のごとく照明がつけられてなく。ただ、南向きに面したこの部屋の大きな窓からは、申し分がないほどの日差しが入っており。これもよくある光景で。

 フランス製らしきアンティークの椅子に腰かけようと、背もたれに手をかけたところで、さっそく教授が姿を現した。いつもに比べずいぶんと早い登場だ。例のごとく「やあ」と片手を上げながら入ってきたが、その顔にいつもの柔和な笑みはなく、こちらと目を合わせずにそのままテーブルへと歩を進める。先日の電話で、Miuと一緒に伺うことは伝えてあったが、ここで改めてMiuを紹介。教授は眼鏡に手をかけ一瞥。Miuは恐縮したようにぺこりと頭を下げた。「おじゃまいたします」教授のハンドサインでぼくらは着席。「すみません。今日はお時間をつくっていただきまして」ぼくは丁寧に頭を下げた。

 本来ならこのタイミングで、まるで計ったかのように、奥様が紅茶とケーキを載せた長方形のトレイを手に静かに現れるのだが、今日は来ない。期せずしての教授の早いお出ましと三人分の用意もあり、少々手間取っているのだろうか。いつもとは違う様子に戸惑いながら、取り敢えず何か喋ろうと口を開けたが、なんだか重たい空気に押されてなかなか言葉が出て来ない。Miuは当然のことだが、教授も黙ったままだ。ぼくは助けをもとめるように、部屋の扉に目を向けるが、開く気配はまったくない。仕方なしに英国製のテーブルの上に目を置いた。革張りのオリーブ色が、射し込む陽光できらきらと輝いている。しかし、うららかな春の日差しを感じる余裕もなく、落ち着きのない目をちらりとMiuに移し、はっとした。緊張のあまり俯いていると思っていたMiuが、目を開き教授の方をじっとみつめているのだ。それを受けて目線を動かし、ぼくはさらにはっとした。教授が前屈みになって、ぼくの椅子の横に置かれている風呂敷包みを、食い入るように見ていたからである。

 これはいつもと逆のシチュエーションだと、その粘りつくような眼の光りを感じながら、ぼくはふと思った。今までは、教授が、どうだと言わんばかりに出したモノを、ぼくが、うわぁと感嘆の声を上げ拝見していたわけであったが、今日は違う。こちらがお見せする立場になっているのだ。しかも、今からご覧いただく箱の中身は、教授が長年にわたって追い求めてきた代物(しろもの)である。

 ――それは、寝室の壁に掛かっていた水彩画のモチーフ。教授自らが描き、それに向かい、いつか出会えますようにと、毎夜寝る前に願いをかけていると言っていた、埴輪の女性の頭部なのである。

 背を丸め凝然と風呂敷箱を見つめている教授の姿を見て、ぼくの台詞はようやく決まった。「さっそくですが、ご覧になりますか?」一拍置いたあと「うん」と、やや甲高い声が低く響いた。ぼくは風呂敷を解くと、箱をテーブルの端に載せ、差し蓋を上に引き上げた。ぼくの目のなかに埴輪の顔が入る。ぼくの心持ちと同様に、少女の表情もなんとなく硬いような。ぼくは箱内の両脇に手を挿し込み、少しずつ丁寧に台座を引き寄せる。そして手許に取り出すとくるりと反転させ、教授の眼の前に置いた。

 「うおぉ……」身体の奥底から湧いて出たような低い声とともに、黒縁眼鏡が跳ねるように動いた。それからしばらく、世の中のいっさいの動きが止まったかのような時間が過ぎたのち、教授はいきなり口だけ動かした。「あなたたち、すまんが、向うへ行っててくれ!」その歯切れの良い強い口調にぎくりとした瞬間、静かに居間の扉が開かれた。「こちらへ、どうぞ」うつむき加減の奥様が、そっと左手を外へ向け扉の奥に立っていた。

 

 五畳ほどの狭い隣室は、実に無機質な空間だった。剥がれては何度も塗り返したような、まるでヨーロッパの古民家を思わせるまだら色の白い壁に、年代物の柱時計がぽつんと掛かり、いたって小さくつくられた窓からは、外光が弱々しく入っている。その乏しい光量のせいか、すでに天井の照明が点けられていたが、蛍光灯の鈍い白色がかえって、この部屋を空虚なものにしている感じがした。真ん中にある、円形の木製テーブルと二人掛けの古びたソファで空間の大半が占められているが、これら漫然と置かれた二つの家具により、何とか部屋の体裁を保っているようにも思えた。ただ、そんな殺風景な室内において、唯一アクセントになっていたのが、ソファの正面に設置された中国製の脚長の紫檀の卓台であった。そして、その中央に飾られている石の彫刻に、ぼくの眼は奪われた。ソファに腰かける前に、ぼくは吸い込まれるようにして、その物体を観察した。

 

 おそらく仏像の両手であろう。手のなかには何やら横長の直方体の箱のようなものがある。ただ、それも途中から欠損しているので、箱であるかどうかもはっきりしない。左の掌で下から支えるように、右手を上から被せるようにして物を抱え持っているようなしぐさだ。その両手首から上の箇所のみ残された彫刻が、それ専用に作られた黒い台座の上に乗って飾られていた。それ以外の部分――つまり、仏像本体の大部分は失われているのだ。ぼくは目を瞠(みは)った。わずかに残された両の手だけとはいえ、おそろしいほどの存在感を示していたからである。

 その掌は普通の人の二回りくらいの大きさがあり、ここから推定すると仏像の高さは、2メートル以上はあろうか。かなりのサイズである。おそらくどこか有名な石窟寺院に彫り込まれていた一部を剥ぎ取って来たのだろう。

 こうした石窟に刻まれた作品は、寸法が大きいせいもあり、壁から剥がし落とされた時点ですでに破損してしまっているケースがほとんどであるが、その一群のなかにあり、主役たる存在となっているのが「仏頭(ぶっとう)」と呼ばれる仏像の首から上の顔の部分であった。たとえ全身が揃ってなくても充分に評価され、高い人気を誇っているのだ。なかでも、雲岡(うんこう)や龍門(りゅうもん)といった石窟寺院の作品は、仏教美術コレクターの垂涎の的となっている。

 石仏ではこうした仏頭のなかに混じって、今目の前にある手だけの作品も散見される。仏像のほんの一部分であっても、そこに美術的価値が見出されるものであれば、数寄者たちにより後世に受け継がれていくわけである。犬山の部屋で初めて目にしたローマンガラスの破片や、今ここの家の居間に額装されている遮光器土偶の片目など。不完全な形であっても、そこに美を宿しているものならば、時を超え大切にされるのが骨董なのである。

 

 「さあ、どうぞ。おかけになって」奥様が目を伏せて促す。それに応じぼくとMiuは二人掛けのソファに並んで腰かけた。と同時に、アールグレイの紅茶とモンブランが小さなテーブルに置かれた。ぼくらはそれをいただきながら、否応なく目に入る仏手を眺めていた。

 「仏様の手の部分でしょうか?」ティーカップを手にMiuが尋ねた。「うん」ぼくは答える。「中国のですか?」「だと思う。どこかはわからないけど、石窟寺院に彫られたものかと」

 時代はいつだろうかとぼくは考えていた。なにしろ手だけなので判別が難しい。しかしおそらく石窟寺院が各地に開かれた、北魏(ほくぎ)とか北斉(ほくせい)とかいう時代、一般に六朝(りくちょう)と括られる5世紀から6世紀の作ではないか。教授がポケットのなかに常にしのばせている、あの鍍金の仏頭と同じくらいの時代にちがいない。

 「何か持っているみたいですね?」Miuはやや身を乗り出して顔を近づけ「箱?」と訊いた。「うん。そうだね。箱のような……何だろう?」ぼくのつぶやくような問いかけにMiuは「あっ」と反応したあと「宝石箱」と指さしてから、両手で口を覆うと上半身を思い切り前に折り曲げ、大きな笑い声をあげた。「あはは! わたしって、バカですね。なんて、陳腐な解答!」「そんなことないよ。とにかく、大事なものを持っていることは確かなことで」「忘れてください。もうちょっと、考えます」Miuは癒しの笑みを浮かべそう答えると、恥ずかしそうに下を向いた。

 

 ぼくもモノを凝視し考えた。いったい、何を持っているのか。仏の左手は箱のような物体の底を支えるように、手のひらを広げ親指とその他の四本の指で、がっしりと掴んでいるようにあらわされている。その指は太く力感に溢れているので、この箱が結構な重さがあることを伝えている。

 それと対照的なのが右手であり、これは箱の上部をそっと押さえるようにあらわされている。正面から見える四本の指が、実に軽やかな造形を成しているのだ。なかでも小指だけが、上方に引き上げられるような恰好で浮いており、箱には触れていない。その小指のしなやかな曲線は、実に艶めかしくもあり、ある種のエロティシズムを感じさせ、ぼくの眼を釘付けにさせた。

 重さを感じさせる左手と軽さを示す右手。おそらく胸の前で、しっかりと且つ優しく持っている両手の好対照の表現が、この箱のような物体を、形容しがたい「大切なもの」を意味しているように思えた。

 そのなかに入っているものとは、いったいどんなものだろうか――。

 Miuは「宝石箱」と言って笑ったが、もっともっと遥かに大事なもの――。。

 ぼくは思いを膨らませる。以前本で読んだことがあるが、仏教が日本に伝来されて以来、地位の高い学問僧たちが生死をかけて海を渡り、中国の高僧たちから貴重な仏典を持ち帰ったことを思い出していた。空海最澄らが授かってきた経典などは歴史的に知られ、それにより日本で密教の基盤が築かれたのである。その中国でも同様に、仏教が根づいた5~6世紀頃、西域の国々から請来された経典類は、筆舌に尽くしがたい貴重品であったに違いない。「宝物」という言葉は決して適切でないかもしれないが、推し量ることのできない重物(じゅうもつ)であったことだろう。それを思うと仏像の胸の前で、両手で大事に抱え持っている箱のなかには、仏の教えが十全と書き記された経巻類が入っているような気がしてならなかった。

 もちろんこれに対する正しい答えはあるにちがいない。仏教彫刻の研究家なんかに尋ねたら、仏像の持物について、「ああ、それはこれだよ」といとも簡単に返答してくることだろう。しかし今ぼくは、そんな規範に則った正解など聞きたくもない気持ちになっていた。損なった一部から広がる豊かな想像力こそ、骨董を賞翫(しょうがん)するに不可欠であるように思え、そのなんというか浪漫とか夢のようなものを失いたくないと、この仏手を前に強烈に感じていたからである。

 

 柱時計が三つなった。午後三時になる。しかし、隣りの居間からは何の音沙汰もない。やがて、奥様が楚々と入ってきて、紅茶を二人の前に置いた。

 ぼくがお茶を一口啜ったあと、Miuがおもむろに「Kさんて……」と、癒しの笑みで問いかけてきた。「変人ですか?」「……へっ!?」思わぬ言葉にぼくは唖然と見返す。「自分を変人だと思いますか?」変人と言われてもすぐに答えを返せず、「なんで?」と訊き返した。「わたし、変人なんですよ。変人の娘なので」あっけらかんとした答えに、ぼくは瞬きを二度繰り返した。Miuは二杯目の紅茶に口をつけてから、「父って、変人でしょ?」ぼくは答えに窮する。変人かどうかはともかく、常人でないことは確かだ。「変人なんですよ」Miuは続ける。

 「蜜柑を剝くときだって、丁寧に丁寧に白い部分を取るんですよ。普通の人はだいたい取れたら食べちゃうじゃないですか。でも、父は、本当に、20分くらい時間かけて、ちょっとでも白い部分があったりすると。爪でいくらやっても取れないときってあるじゃないですか。そういうときでも、楊枝とか、場合によってはピンセットとか出してきちゃって、そういうの使って、しつこく取るんですよ。そしてきれいに取り終わったら、テーブルの上でしばらく眺めるんです。そして、『うん』ってうなずいてから食べるんですよ。もう、表面とか乾燥しちゃってるのに。……変人ですよね?」

 ぼくの返事を待たずに「あと、おでんとかでよく煮込んだ蛸があるじゃないですか。その蛸の吸盤だけを、取るんですよ。それを別のお皿に入れて。吸盤だけ。それで吸盤のところだけ集めて、お皿にそれがいっぱいになって。……ああ、気持ち悪い」といったん顔をしかめて「それで、先に身の方を食べてから、それから、吸盤だけ入ったお皿をじっと見て『何か別の料理みたいだね』なんて言って、満足気にゆっくり味わうように食べるんですよ」Miuはふうっと一息吐くと、「あと、この間……」――案外よく喋るなこいつ、とぼくは思った。

 「昨年の終わり、本田美奈子白血病で亡くなったじゃないですか。わたし、超、悲しくって。最後に、病院のなかでお世話になった看護師さんたちに向けて『アメイジング・グレイス』を歌った場面をテレビでやってたのを思い出して、わたし、そのとき、何となく、その歌を口ずさんでいたんです。そうしたら、父が横を通ったときに『いやあ、Miu。それいい歌だよねえ』と言うから『うん』って応えたら、『星影の小径、かあ。名曲だ』って。『はあ?』って言ったら、『小畑実』ってわけわからないこと言って、『アーイラァーブューゥ、アーイラブュー』って歌いながら出かけて行ったんですよ。わたしが音痴だってのは仕方ないですけど、何ですか? 『アーイラァーブュゥ』って。ほんと、変人。Kさんの周りにもいますか? そういうひと?」

 ぼくはあっけにとられながらも、即座に肯定した。いる、いる。癒しになっていないMiuの目を見据えて、ぼくは思い出す。それとまったく同じようなことがあったことを。あれは昨年末犬山の部屋で、ぼくも同様に本田美奈子を偲んで『アメイジング・グレイス』を鼻歌で奏でていたときのことだった。そのメロディを聞くなり犬山が「おい、その歌、あれだろ」と指さし、「何つったっけなあ、それ、それ」と目をつむり眉間に皺を寄せるので「アメイジング・グレイス」と言おうとしたら、「あの、ウルトラQ第12回の『鳥を見た』の回の、少年が鳥に別れを告げながらの、ラストシーンに流れていた、あの曲だろ?」「へえっ??」「いいメロディだよなあ、いい!」なんじゃ、そりゃ? と思ったが、このときぼくはそれ以上つっこまなかった(というか、その時点でつっこむ気力を既に失っていた)。

 

 「変人」の定義は知らないが、その類いの人間は周りに結構いる、とぼくは思った。会社勤めをしている時はさほど感じなかったが、この仕事に携わってから、意外に多い、いや、ひょっとしたら、ほとんど変人じゃなかろうか、というような気がしてきた。Z氏然り、犬山然り。そう考えると、その最右翼は、宋丸さんだろう。あの領域となると、世の中にそうはいない。あいちゃんも、間違いなく変人だ。かつらはともかく、独身で、古アパートの部屋を四つも借りていて、ほんのわずかな寝床以外は、紀元前の土器でぎっしりと埋め尽くされているのだから。となると……、総長だって、そうかもしれない。「好かれ悪しかれ、私の現れ」なんて言って、ニセモノ買ってもにこにこ微笑んでいるわけだから。普通じゃないことは確かだ。ことによっては、宋丸さんの上をいっているのかもしれなく。それと、この家の主(あるじ)だ。教授も、負けず劣らずの強者(つわもの)といえるだろう。

 ――ぼくは時計に目をやる。針が三時半にさしかかろうとしているのを見て、この白髪の眼鏡の猫背の老人こそ、一番の変人かもしれないと思っていた。

 

 奥様が三度目の紅茶を持って現れ卓の上に置く。「すみませんね」というような低姿勢に、ぼくらも「いえいえ」というように頭を下げる。奥様が消えるように部屋を去ると、Miuが「お客様にもいるんですよ。変人が」と口を開いた。まだ続くの、この変人の話し? と、ぼくは暖かい紅茶を口に運びながら耳を傾けた。

 「富山県のお客様なんですが、よく電話がかかってくるんですよ。でも、方言がきつくて、そのうえ早口で、それでもっていつもハイテンションだから、何言ってるのか、ほんと、さっぱりわからないんですよ。父に、『このかたの言ってること、わたしほとんどわからないんだけど』って言うと、父は『いいんだよ、ぼくもわからないんだから』って。えっ? なに? わからないのに相手してるの? って、思って。そのひと、年に何回かお店に来られるんですよ。一度、父の留守の時にいらしたので、父に言われたとおり、何点かお見せしようと品物の箱を持ってくると、『なにを、するーっ!』って大きな声を上げるので、『父からこれをお見せしなさいと言われているので』と、わたしが箱の紐をほどこうとすると、『やめてくれーっ!』って叫ぶように言うんですが、だって、モノ見にわざわざ来たわけですよね。だから、箱の蓋を開けて手を入れると、『なんてことを、するんだぁー!』って両手を前に突き出し顔をそむけるんですが、わたしも父から言われてるから、箱の中からモノを取り出して、畳の上に置いたんです。そうしたら、『ぎゃあー!』と声を上げたかと思ったら、急に静かになって。じぃーっと遠目に眺めてから、突然飛びつくような動作でそのモノに近づくと、何度も何度も掌のなかでくるくると回して、それが終わると、ふぅーって大きな息を吐いて、『これ、おいくらですか?』って、訊くんですよ。わかります? この話し?」

 うん。なるほど。それは骨董業界「変人」あるあるの話しである。ぼくが口元を緩ませ何度かうなずくと、Miuは癒しの微笑に戻ってから「でも、わたし、そういう変人みたいなひとが、なんとなく好きなんです。だから、わたしも変人だと思うんです」と言って、おかしそうにけたけたと笑い、ぼくの顔を見つめると「Kさんも、変人ですか?」と改めて尋ねた。ぼくは考える。確かにこうしたひとたちは、実のところ、みんな好きだ。面白い。何の抵抗もなく自然とつきあえる。ということは、ぼく自身が変人なのかもしれない、という結論になるのだろうか。――この仕事をするには変人になるべし、なのかもしれないが、これらのひとたちとは、まるっきり、レベルが違う。比べると、まだまだひよっこだ。いや、卵だ。いや、ひよこか? どっちだ? 檜になれないあすなろの木が頭に浮かぶ。あすなろだ。そう思ってぼくは答えた。「変人のあすなろかな?」「変人のあすなろ?」Miuは目を輝かせ「なんだかよくわからないけど、素敵な言葉ですね」と言うと、「わたしも、変人のあすなろです」右手を小さく顔の横に上げた。

 

 「ボーン」と一つ、柱時計から音が放たれた。時刻は四時半。ここに来てから二時間半が経つ。まだ見続けているのだろうか。奥様がそっと置いた四杯目の紅茶は、アールグレイからダージリンに変わっていた。本日二つ目の菓子は、弾力のあるシフォンケーキ。ここでケーキが出て来るとなると、まだまだかかるなと、ぼくは思った。

 奥様のある種熟練したお茶出しのしぐさなどからみて、今日のようなことは特別なことではないにちがいない。普段は拝見する側なのでわからなかったが、骨董商らがモノを持参するときは、おそらくこの部屋で長時間も待たされ、同じようにして紅茶とケーキが一定の間隔で出されるのだろう。美味しそうにケーキを口に運んでいるMiuを見ながら、ぼくはかねてから訊いてみたいことを、この際だからと口に出してみた。Miuの父上のことである。ぼくは、少なからずZ氏に興味を抱いているのだ。

 「Zさんて、どうして骨董商になったのかな?」シフォンケーキが食べ終わるタイミングをみて、ぼくは訊いた。Miuは唇に手をあて少し考えてから「ふーん。わたしも詳しくは訊いたことがないんですが。父が東大に入ったとき」「東大なんだ」「そうなんです。でも、父が入学した年に、東大紛争っていうのがあって、全共闘っていうんですか? そういう学生運動にのめり込んだみたいですが、でも、すっかり嫌になってしまって、大学を中退して、当時流行っていた無銭旅行みたいなことをしようと、香港からロンドンまで、アルバイトをしながら、列車やバスなんか乗り継いで、ヒッチハイクなんかして、ユーラシア大陸を一年かけて横断したらしいんです。そのときに、いろいろな国で、骨董品とか古い日常雑貨の面白いモノを見て歩いて、それで興味を持ったって一度話していました」「へええ。そうなんだ」それは、Z氏らしい話しである。

 「父は、放浪癖があるんですよ。だから、時々、急にいなくなるんです。昨年なんか、いなくなったかと思ったら、アフリカとかに行ってたりしてて、一カ月も。そうしたら、変な汚い雑巾なんか買って来て、それを額に入れて飾ったりして」――曜変天目の陶片を見に初めてZ氏の店を伺ったとき、床の間に飾られていたあれか、とぼくは思い出す。あのときZ氏は、それを見ながら「新骨董」という言葉を投げたのであった。

 「あれね。覚えてる。なんか不思議な魅力をはなってたね」「わたしは、よくわからないですけど、とにかく、そういったモノを欲しがるひとが、不思議と父の周りに集まってきて。そのなかに、有名なアーティストとか、芸能人とかがいて。そういうひとたちが面白がって、お店に来るようになって。マスコミでも取り上げるようになって。それで父も、ちょっと知れた存在になって」「それで、カリスマ骨董商」「カリスマかどうかは知りませんけど」「それで、その雑巾って、売れたの?」ぼくの問いにMiuははにかむように答えた。「はい。すぐに」

 ――ほお。あの雑巾を買うのだから、そのひとも、よっぽどの「変人」なのだろう。

 「それは、さすがの話だね。他の店じゃあ、絶対売れない」ぼくは笑ってそう答えたが、こういうとき犬山だったら、「恐れ入り谷の鬼子母神!」とか声をあげて深く感心するのだろうな、とぼくは勝手に想像した。

 

 トイレから出て戻りかけたときである。居間の扉が少し開いているのに気づいたぼくは、いったん立ち止まると、引き寄せられるようにして、そこに近づいていった。腕時計を見ると、すでに五時半を過ぎている。そろそろ日没なのか、先ほどから急にあたりが暗くなり始めている。かすかに開かれた部屋のなかからは、明かりが漏れていない。

 誰もいないのかと思い、ぼくは扉を少しだけ開いてなかを覗き、ぎょっとした。テーブルの上には埴輪が乗っており、それをじっと見つめている教授の姿があったからである。夕暮れ時まで照明をつけないでモノを見ていたことは、今までよくあることであったが、これほど暗くなっても灯りをつけないことはなかった。というか、こんな時間までぼくはこの部屋にいることはなかったのであるが。

 薄暗がりのなかで、ほのかに浮かび上がるような埴輪の赤い土の色が、まるで幽玄にゆらめいている炎のようにみえ、ぼくはそのまま見入ってしまった。皇女の表情までは判然としないが、それは午後二時の光りとは異なる強い翳を落としており、まったく別物であるかのようなシルエットをつくり出していた。そして視線を右に移し、ぼくは戦慄のようなものを感じ、思わず後ずさりしそうになった。モノを凝視する教授のまなざしがあまりにも鋭く光り、一対一の真剣勝負をしているかのように見えたからである。このひとは、もう三時間以上、この埴輪と果たし合いをしていたのである。

 鬼気迫るような光景を、固唾を飲んでみつめていると、後ろからひとの気配がした。「もう、じき、ですから」目を伏せた奥様のその声で、ぼくは応接間の扉をそおっと閉めた。

 

 隣室に戻ると、七杯目の紅茶が置かれていた。無味乾燥なこの部屋も、三時間以上もいると、なんだか居心地の良さが芽生え始めていて、ぼくはカップを片手にソファの背にもたれかかりながら、紅茶をちびりちびりと飲んでいた。しばらくすると突如Miuが振り返った。「Kさん――」長い髪がぼくの肩に触れる。「なに?」ぼくはソファから身を起こしてカップを戻す。

 「わたし、想像しました」「うん」「この仏様の手」と指をさす。「持っている箱の中身」「ほう。なに?」癒しの眼に力が込められ、「これは、人びとの願いとか、望みとか、そういうのが入ってるんじゃないかって」「人びとの願い……?」「はい。仏様だから、そういう人びとの願望っていうか……どうぞかなえてくださいって。そういう思いがここに込められているじゃないかって」Miuはぼくの目をまっすぐ見て、「だから、これは、希望の箱です」「希望の箱?」「はい。みんなの思いがつまっていて。だから、ずっしりと重くて、ふわっと軽いんです」

 ぼくは改めて石像に眼を移した。なるほど。どの世でも人間が等しく抱く願いや望みを受けとめてくれる箱ということか。ぼくはその中身について、目に見えるものとばかり思っていたので、その発想に不意をつかれ、驚きの目をしばしMiuに向けていたが、それはやがて感服の色に変わった。

 「希望の箱」とは、目から鱗。言い得て妙。浪漫がある。夢がある。人びとの願いはずしりと重く、でも実体がないゆえ、ふわりと軽いのか。さすがカリスマの娘。ぼくは再び正面に向き直り、「希望の箱かあ。そうかもしれない。うん。なんか、すごくいい」仏像のたおやかな右手の小指をみつめながら、そう答えると、ふと思った。ひょっとしたら教授も、寝室に飾られた水彩画同様、この箱にも、あの執拗なまなざしで願いをかけていたのかもしれないと。そして、今日ついにそれが通じ、埴輪と巡り合えたのかもしれないと。ようやく、恋焦がれた皇女との邂逅が実現したのだと。

 

 あとは……、それを手に入れるかどうかである。

 

 実は、この話を電話で伝えたとき「見たい」という言葉のあと、値段を訊かれたのだ。当然だろう。買う側の立場なら、誰しもそれを尋ねる。それも他に例をみない逸品であれば、なおさらのことである。このときぼくは、Z氏が定めた7000万という数字をそのまま伝えたのだ。埴輪の首としては狂気ともいえる値段。しかし、この稀代の品に相応しい、敬意を表した額。Z氏の言った、上にも下にもいかない、譲歩してはならないという7000万円という数字。これを、伝えたのだ。その瞬間「んっ」という、短い異音が受話器から漏れた。そして五、六秒の沈黙のあと、小さなうめき声とともに「持ってきてくれ」と言ったのだ。その声の響きには、半ば覚悟を決めたような静謐な強さが感じられた。

 

 値の高いモノがすべて「名品」とは限らない。ただひとつはっきりしていることは、「名品」は値が高い、ということである。

 そのことは、半世紀以上にわたり骨董蒐集をしてきた教授からすれば、百も承知二百も合点だろう。ただ、破格ともいえるこの値段を、いざ現実として突きつけられたときに、はたして受け入れることができるのかどうか、である。

 教授はそれを、移りゆく光のなかで変容する皇女の微笑と対峙しながら、自問自答を繰り返しているのだ。それに価するモノなのかどうか。腹に落ちる決断をくだせるのか。三時間も四時間も格闘しているのだ。

 

 仏によって、願いはかなうかもしれない。しかしそれを最終的に実現するのは、結局のところ自分自身なのではなかろうか。希望は、あくまでも希望なのだ。神によりそのチャンスは与えられるかもしれないが、それをものにできるかどうかは、そのひと次第であろう。望みは、それが高ければ高いほど、簡単には実現しない。――つまり名品は、たやすく手には入らないのだ。いや、手にしてはいけないのだ。

 死に物狂いで必死になって手を伸ばし、やっとひっかかった指先でもってぐいと引き寄せつかみ取る、そういうモノなのかもしれないと、先ほど扉の間隙から目にした息も詰まる光景を思い浮かべ、ぼくはそう思っていた。そして、そう思いながら、仏の右手の小指をじっとみつめた。すると、先ほどまでは軽やかな曲線を描いていたその指のラインが、酷く武骨に屈曲しているようにみえてきたのだった。

 

 そのときである。隣室から、「うおぉーう!」という高低の交錯した異様な声がこだました。それは、歓喜とも絶望とも、どちらともとれるような音階を持っていた。八十をとうに越した老人から放たれたとは思えぬほどの声量であった。ぼくはその声を耳にした瞬間、教授が倒れでもしたのではないかと危惧し、慌てて応接間に向かった。Miuもあとに続く。部屋の前で立ち止まるや否やドアノブに手をかけ、ぼくは思い切り扉を開けた。

 ほとんど暮れかけている空から入る光は勢いを失っており、目を細めないと情景がつかめなかった。まもなくその眼に映ったのは、椅子に深く身をゆだねている教授の姿だった。全てを出し尽くしたかのような疲労に満ちた老人の姿だった。

 ――果し合いは終わったのだ。

 

 「置いていってくれ」埴輪に目を向けたまま、両手をだらりと垂らすと、教授は絞り出すようにそう言った。

 

 7000万という金を用意できるひとは、世の中には、そこそこいるにちがいない。しかし、この埴輪につぎ込めるひとは、教授ただ一人であろう。いくら金を持っていても、株や不動産と同じような感覚で、骨董の名品は手に入るものではない。そのモノに対して、金額以上の、愛情と情熱がなければ獲得できないからである。だから、名品は流転はしても、間違った方向には決して動きはしない。それに相応しい道程を踏むものなのだ。それはまるで、作品がみずからの行き場所をみつけ出すかのような。そこに縁というものを感じざるを得ないような。あらかじめ敷かれたレールの上に乗っかっているような。見えないが、何か釈然と定められた、喜ばしくそして頼もしい帰趨(きすう)があるのだ。

 前所有者が、借金を積み上げ一家離散してまでも、最後まで手許に残した埴輪の皇女――。この名品が次に選んだのは、教授だったのである。

 

 ぼくは教授に深く一礼した。Miuも同様に頭を下げる。ぼくが居間から出ようとすると、扉の側に立っていた奥様が音もなくぼくに近寄り、手に持っていたものをそっと差し出した。それは、持ってくるときに埴輪を包んでいた焦げ茶色の風呂敷だった。それが、きちんとたたまれ、持ちやすいように丸められていた。

 

 駅までの道をMiuと歩いた。すでに日は落ち、煌々と輝く大きな満月が出ている。「なんか、今日の満月ずいぶん大きいね」「知らなかったんですか?」Miuはクスッと笑って「今夜はスーパームーンなんです」「へえ、そうなんだ」Miuは感慨深げに月を見上げ「あの博士、ずっとあの部屋で、埴輪と向かい合ってたんですね。午後二時からの変わっていく光のなかで、少女の顔を見つめていたんですね。なんて情熱的なのかしら」そしてぼくに目を向けると、「すごいエネルギーです。きっとあの埴輪にも、それに等しいエネルギーがあるんでしょうね」「うん。そうかもね。なんたって、名品だから」ぼくは丸めた風呂敷を小脇に挟むと、ハーフコートのポケットに両手を突っ込んだ。月の光に照らされ、路面に二人の影がぼんやり広がっている。Miuが口を開いた。「たぶん、あのまま、部屋の照明をつけずに、ずっと見ているんだと思います。窓から入るこの月の光のなかで」そうかもしれない。移ろいゆく自然の光りを照明にして、教授はいつまでも埴輪の皇女見続けることだろう。

 「ミスター・ムーンライト」Miuは再び顔を上げるとそう言って、いきなり「ララララーン、ランラララー」と口ずさんだ。ぼくはその横顔を見る。

 「ひょっとして、それが、さっき言ってた『アーイラァーブュゥ』ってやつ?」Miuは両手でパンっと腿を叩くと、「違いますよ! これは、うちの父が好きな、ミスター・ムーンライトって歌のメロディです。どうせ、わたしは、音痴です!」「冗談ですよ。冗談」「結構、です。わたしは音痴ですから!」「でも、どこかで聞いたことあるような。もう一度歌ってみてよ?」「いやです!」Miuはそう言ってふくれたかと思ったら、急に癒しの目をして「でも、今日で、わかったんです。わたし、やっぱり、変人が好きだってこと」と言って小さく笑った。

 

 ――そんな具合でぼくらが帰途に着こうとしていたちょうどその頃。東京から9600キロ離れた英国ロンドンにある大手オークションハウスB社では、来月中旬に開催される中国美術セールに向け、着々と準備が進められていた。縦に長いアーチ型の窓からは、午前の柔らかい日ざしが入っている。図録の校了が近づいていることもあり、アシスタントがせわしなく動き回っていた。その一人ブロンドの髪をした若い女性社員が、プリントされたばかりの書類を手にし、一番奥の席へ向かってつかつかと歩を早めた。

 「今回のメインピースの一つですが、この名称でよろしいでしょうか?」掲載する作品名について、彼女は確認を求めた。高名な博物館の学芸部長であり、B社のチーフ・コンサルタントをしている50代の銀髪の女性学者は、組んだ足をそのままに書類を受け取ると、薄い縁の眼鏡に手をあてじっと目を落とした。二三度強くうなずいてから「これは、たいへん珍しいモノだわ」顔をあげると「Importantの前に、“Very Rare”という形容詞をつけて」中国陶磁を専門とする女性学者は細い顔を崩し、「ずいぶんと貴重なモノが出るのね。わたしは、今まで一点しか見たことがないわ。確か、日本にあったはず」「かしこまりました」若い社員は席に戻ると、さっそくパソコンのキーボードを叩き、正式名称を作成した。

 

  「A VERY RARE AND IMPORTANT DOUCAI STEM CUP, MARK AND PERIOD OF WANLI(稀少な優れた豆彩馬上杯、万暦在銘)」

 

 (第39話につづく 7月28日更新予定です)

 



 

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