骨董商Kの放浪(37)

 東京の桜がもうそろそろ開花するかという三月の下旬、ぼくは日本橋人形町のしゃぶしゃぶ屋にいた。ここは内科医あいちゃんの診療所近くにある先生行きつけの店。昭和初期の文豪の生家として知られている。先生の右横にはネエさん。ぼくの左隣りには才介が座っている。今日は、才介を励まそうと二人が企画した飲み会。

 「さあ、才介くん。もうくよくよしない!」ネエさんが瓶ビールを片手に口火を切り、才介のグラスに注ぎ込んだ。「ここはね。しゃぶしゃぶのお店ですが、おつまみも美味しくてね」あいちゃんは「いつものやつ」と言って何品かを注文。先ずはだし巻き卵の乗った横長の器がテーブルの上に二つ置かれた。

  「さあさあ、どうぞ」あいちゃんは相変わらずのニコニコ顔でぼくらに勧めた。ぼくは一口。薄味の優しい甘みが口のなかに広がり、自然と顔がほころぶ。才介はぐいとグラスをあけ、ぺこりと頭を下げた。「このたびは、すみませんでした」「なに、謝ってんのよ」ネエさんが再びビールを注(つ)ぎながら「ニセモノ買うなんて、大したことじゃあない!」と朗らかに笑った。「そうですよ。わたしも最初の頃は、よくありましてね」そこにあいちゃんの笑顔が重なる。

 

 ――こうして、あいちゃんやネエさんと食事をするのも本当に久しぶりだ。特にあいちゃんとは、イベントや美術館などでちょいちょい顔を合わせてはいたのだが、ゆっくり話すのは昨年の5月以来だろうか。ずいぶん前のことだ。あのときは、世田谷区の美術館で国宝の曜変天目を見に行った帰り、あいちゃんと同行していた骨董商Z氏の娘のMiuと三人で駅前のレストランで食事をしたのだ。Miuと初めて会った日のことだった。美術館内にとどまらず食事の最中でも、あいちゃんが、若い女性を目の前にナンパの持論を展開したのを覚えている。そのナンパの持論はともかく、ぼくはあいちゃんと会うたびに、やはり髪の毛に目がいってしまうのだ。どうみても不自然極まりない。お金があるのだろうから、もっと程度の良いかつらに変えたらと思うが、当然言葉には出せず。

 

 あいちゃんのこの上ない人の良い笑い顔を見つめ才介は尋ねる。「先生も、贋物買ったことあるんですか?」「そりゃあ、もう。今はさすがになくなりましたけどね。若い頃はしょっちゅうでしたよ。ぼくなんか、いろんなお店に行って自分で見て判断するでしょ。ですから、最初はよく変なモノ買っちゃいましてね」そう言いながら、あいちゃんは熱燗を何本か注文した。

 「ぼくの買うモノなんか、ほら、土器が多いでしょ。大概安いものですよ。そんなものでもニセモノがたくさんあるんですから」「そういうもんですか」才介が初鰹の刺身を口に運びながら訊く。「一度ね、アンダーソン土器ですが、ほこりが付いていたものだから、濡れ布巾で表面をちょろっと拭いたところ、上に描かれていた文様が落ちましてね」「えっ!」「要するに、作りものだったんですよ。四千年前の文様が簡単に落ちるわけがない。10万もしないモノですよ」先生が顔を交互にぼくらに向ける。「そういうのにも、贋物があるんですから」「へえ。アンダーソン土器にも」妙に感心しながらぼくも初鰹を口に入れる。ネエさんは届いたお銚子を、「あちっ」と言いながら頸のあたりを指でつまむと、素早い動作でそれぞれの猪口に注いだ。

 「わたしもさあ、よく騙されたなあ」指を耳たぶに当てるネエさんを見つめ才介が訊く。「ネエさんも?」「そうよぉ。自分で間違って買っちゃったモノは仕様がないけど。一番ショックだったのは、お客さんに騙されたことねえ」「お客に?」「うん。あれはわたしが独立して間もない頃だった……」

 ネエさんは少しだけ目を上に向け「或る日、わたしがそのお客さんの家に呼ばれたのよ。売りたいモノがいくつかあるからって言われて。いろいろとモノを見せられて。どうぞ好きなモノを選んで結構ですって言うから、わたしは頑張って値段を付けていくつか買ったわ。そうしたら、最後にガンダーラの仏像の頭が出てきて」ネエさんは目を細め遠くを見やるように「その顔がとても綺麗でさあ」と言ったあとぼくに顔を向け「ほら、あのN様のハッダ、あったでしょ?」「はい。あの凄いやつ」ぼくは即座にうなずく。「あれを、御宅で拝見した時分でね。こんなの扱えたらなあって思ってたんだ。だから、わたし、そのガンダーラを一目で欲しくなっちゃって。これも売り物ですかって思わず訊いちゃったの」「ふむ」「そうしたら、売りたいんだけど、安くは売りたくないって言われて。なるほどと思って」ぼくらは前のめりになって聞く。「だから、思い切った値段を言ったの。そうしたら、それで結構ですって言われて。わたしは買ったわ」「はい」と思わず才介が声を出す。「そうしたら」ネエさんはそこで杯を一息にあけると、「ニセモノだったのよ」「えっ!」三人が同時に声を出す。「うん。あの頃、ガンダーラの精巧な贋物が横行していて、ニュースにもなったじゃない?」「ああ、あのガンダーラ事件!」あいちゃんが間髪入れずに指をさす。「そう。わたしはショックだったけど。お客さんには言えないし。そうしたら、知り合いの店で聞いたのよ」ネエさんはぼくらを見つめ「そのお客は贋物と知っていて、それをわたしに売ったってことを。つまり、わたしをはめたってこと。そのお客が店に来て、そう言って笑ってたって。わたしは、立ち直れないくらいショックだった……」ネエさんは徳利を持つと、空いたビールグラスにドボドボと注ぎ始めた。「わたしは、もち、甘ちゃんだったけど、若い女だからってなめられたのが悔しかった」

 いきなりドンという音がし、ぼくらはビクっとした。あいちゃんが拳で一つテーブルを叩いたのだ。「いるんですよ! コレクターのなかには、そういう半プロみたいな性根の腐ったやつがね。ふん!」あいちゃんもネエさん同様ビールグラスに勢いよく日本酒を注ぎ込むと、それを一気に飲み干すや否や空の徳利を振りかざし追加注文。「早くちょうだいよ!」ぼくらもその勢いに押され慌てて猪口をあけた。

 「でもさ、この話し。ちょっと面白い結末があってね」「どんな、ですか?」ぼくは訊く。ネエさんは緩やかな笑みを浮かべて、「あのときはまだ、前の国立にあった小さな店舗だった。わたしが椅子にもたれてうなだれているときにね、その頃よく来ていた作家のJanさんが、彼もまだ若くて」「Janさんって……あのピリカ像の作者の?」「そう」ネエさんは優しく微笑んだ。

 

 ――Jan氏は、今売り出し中の現代彫刻家の一人であり、代表作が「ピリカ」と呼ばれる石製の胸像。奥二重の切れ長の目と太い眉、通った鼻筋に豊かな唇。頭部にはターバンのようなものが、細く長い首にも同様のものが巻かれる、可憐でシャープな印象を持つ女性像である。これが一つ、応接間のネエさんのパソコンが置かれた机の上段に飾ってあり。高さ15センチほどの頭部。以前ネエさんから、これはJan氏作のピリカ像だと聞かされていた。

 「おれ、好きですよ。ピリカ像。大理石の白いやつが」才介が、置かれたばかりの筍の天麩羅を口のなかに放り込んだ。あいちゃんもさくっと口に入れ、にやりと微笑んだ。「ぼくも、好きだなあ。ピリカ像」と首を上げ一瞬フリーズしたあと、「いやあ~」と言って急にうつむくと、激しく額に手を擦りつけ「いやあ、どうしようかなあ、もう!」と地団駄を踏んだ。「何がです?」ぼくは訊く。「いやあね、もしもね、もしもですよ。あういう美女に声かけられたらって、思うとねえ。ぼくとしてはね、ぼくとしてはね。どう答えたらいいかと思ってねえ。あああっ、どうしよう!」そう言いながら、あいちゃんは両手で頭を掻きむしった。ぼくは一瞬息を呑む。大丈夫か……髪の毛。そして、隣りに目を移す。そこにあったのは冷ややかなネエさんの目線。ーーだいじょうぶよ、絶対に、そんなことには、間違っても、ならないから。……みたいな。言葉を発さずとも、そういう台詞が、よどみなく伝わってくるような。

 「それで、どうしたんですか。そのピリカ像の話しは」才介が話しを戻す。そうだ。それを聞きたかったのだ。えらい、才介。と、ぼくはネエさんの方に姿勢を正す。

 「そう。わたしが落ち込んでる姿を見てね。Janさんが、突然言ったのよ」「で?」ぼくと才介。「このガンダーラをぼくにくれませんかって」「で?」続けてぼくら。「だから、どうぞってあげちゃった」「で?」突然あいちゃんが参加。「それから一週間ほどして、Janさんが来て」「で?」全員で。「できましたって、ピリカ像」「ええっ!」皆一斉に驚く。「そう。ピリカ像の第一号。まだ、ピリカって名前ついてなかったけどね」ぼくらは顔を見合わせて、「ということは……贋物のガンダーラから、ピリカ像が誕生したってことですか!」「そういうこと」ネエさんがにたりと笑う。「ちょっと、面白い話でしょ?」「ちょっとどころじゃないですよ!」ぼくと才介は興奮して、「それって、もしピリカ像が世界的に流行したりしたら、めっちゃ、値打ち出るじゃないですか! プレミアムもんですよ!」それに対しネエさんが大きく手を振る。「いやいや、それは、ないんじゃない! って、Jan氏に失礼か。ハハハ!」「そんなこと、わかりませんよ。ピリカ像、化けますよ!」「ちょっと、そこまでは、ないと思うよ。ごめんね、Janさーん!  ハハハ」「いや、いや、いや!」

 ぼくらの騒ぎ声をよそに、あいちゃんは独り瞼を閉じ「いい話だ……うん、いい話だ……」と自分に言い聞かせるように何度もうなずきながら、コップ酒をあおっている。

 

――実は、この話し、なんと現実になったのだ。ある事情にともない、ネエさんのこのピリカ像がNYのコンテンポラリーアートの売立に出品されたのが昨春のこと。そしてこのとき、日本円で実に1億3千5百万という値で落札されたのである。ただそれは、ぼくらがこのしゃぶしゃぶ屋ではしゃいでいたときから、実に32年の時を経た出来事であり。ぼくがこの物語を書き始めた数か月後のことであって。まあ、詳しくは、あとの方でお話しすることとして。だから、このガンダーラの贋物から発した結末は、もっとずっとあとまで続くのである。それは、ぼくが死んだあとも、ずっと、ずっと続くことだろう。「骨董」とは、そういうものである。(笑)

 

 店内は会社帰りのサラリーマンたちでいっぱいになっていた。昨日おこなわれたワールド・ベースボール・クラシックで、日本がキューバを倒して世界一になったこともあり、その話題が随所に耳に入ってくる。

 

 「さあさあ、肉が来ましたよ~」赤ら顔のあいちゃんが卓の上の小皿を端に寄せると、その空いたスペースに一尺皿が二枚登場。それぞれに、程よい霜降りの赤い牛肉が盛られている。「こりゃ、美味そう!」と才介が割箸を両手にグラスを叩く。「これはね、二種類の牛肉でして」あいちゃんが、中央の鍋に火を付けて説明。「ここのは普通のしゃぶしゃぶじゃなくて、ほら、すき焼きのたれでしょ?」鍋のなかを指さす。ぼくはなかを覗き「本当だ。すき焼きのたれみたい」小さな泡が立ち始めているのは、水ではなく醤油色をした汁だ。ネエさんが「ありそうで、他にないのよね。このスタイル」と言いながら、煮立った鍋に野菜を流し込む。煮えるまでの間、皆取り皿のなかにある生卵を割ってかき混ぜつつしばし鍋を見つめ、頃合いをみてあいちゃんが肉を一切れ箸でつまみ「どうぞ」と声を掛けた。その合図で、ぼくらも一斉にしゃぶしゃぶする。葱を一つ巻いて生卵に浸して口のなかへ。確かにすき焼きだ。しかししゃぶしゃぶのため肉が柔らかく、たれの味も濃くなく喉越しが良い。「美味しいです!」ぼくも才介も続けて肉をしゃぶる。二口目を食べてから「おれ、ご飯、いただきます!」と才介が手を上げるのを見て、「ぼくも!」と手のひらを開いた。

 白米の上にたれの浸み込んだ肉をのせると、才介が一気に頬張る。「うん」とうなってまた一口。それを見てネエさんが微笑む。「よかった、よかった。ちょっとは元気が出てきたみたいで」「はあ、すみませんでした」才介が碗を片手にひょいと頭を下げる。「今思うと、品物を欲目で見ちゃって。やっぱりダメですね。欲が先に出ちゃうと」「しかたないわよ。今の中国モノの市場が、そんな感じなんだから。みんな、どれだけもうかるかしか考えてないんだから」「おれも、雍正の筆筒がびっくりするくらいで売れたので、元染も、もうかるかどうかでしか見てなかったんだと思う」「みんな、そうやって成長していくのよ。勉強、勉強」「だいぶ高い授業料払いましたけど」才介は頭を掻きながら「でも、香港で仕入れたモノが予想以上に売れたし、この間の唐三彩の売上分をKが半分都合してくれたので、筆筒のもうけがなかったと思えば、そんなに被害はなくって。これからは、リセットして、地道にやります」

 ドンと卓を叩く音がした。「そうです! 地道です! 地道が、一番です!」目の座っているあいちゃんを見て、ネエさんが軽やかに手を上げ「お水、くださ~い」。どうやらあいちゃんには、酒乱の気があるようだ。ぼくは烏龍茶に手を伸ばす。

  「でも、C先生も、あれは学者でも見分けがつかないくらいのレベルの贋物だって。言われたところで、ぼくはいまだにわからないけど」ネエさんがうなずく。「際どいニセモノってあるからねえ」「ネエさんは、どうやって真贋を見極めてるんですか?」才介が訊く。「そうねぇ……」ネエさんはちょっと首を傾げて「なんていうかなあ。第一印象かなあ。ニセモノって、どこか奇を衒(てら)ってるじゃない。色が綺麗過ぎるとか、形が整い過ぎてるとか。違和感があるっていうか。要するに、不自然なのよ」――不自然、と言われてぼくはつい、あいちゃんの頭部に目を注いでいた。こんなところでそう思うのは、たいへん失礼なことかとは思ったが、ぼくはじっと見つめてしまっていたのだ。ふと横を見ると、才介の視線もあいちゃんの頭に向かっている。こいつも「不自然」という言葉から、あいちゃんの髪の毛を連想したのだろう。まあ、それはそれとして、贋物の見極めに対し、「不自然」とか「違和感」というフレーズは、C先生も強調していたわけであり。

 「で、どうだったの。愛知県での展覧会は?」とネエさんが質問。「いやあ、とにかく展示室が広いので、東京で見たのとは別の展覧会かと思いましたよ」そう言ったあと、ぼくはC先生による総長コレクションについての一件を伝えた。「好かれ、悪しかれ、私の現れ」の話しだ。

 それを聞くなりネエさんが、「ああ、それは、総長らしいなあ」と感嘆の声。「好かれ、悪しかれ、私の現れ、かあ。こういう道に入ったひとは、誰しも、商人であれ、蒐集家(しゅうしゅうか)であれ、みんな、その言葉が当てはまる。そのひとの色というのが、コレクションには出るからね」「なるほど。そうかもしれません」うなずくぼくにネエさんは続けた。

 「コレクションって、たいていは、蒐(あつ)めたひとが亡くなってから売られたりするじゃない。わたしもよくそうしたお家の片づけに携わったりするけど。そのコレクションを見てね、わたしはそのひとと会ったことはないけど、どんな性格のひとだったかが、なんとなくわかるのよ。このひとは、ずいぶんと几帳面なひとだったのかなあ、わりあい鷹揚なひとだったのかなあ、かなり小うるさかったんじゃないかなあ、好奇心が強くて包容力のあるひとだったのでは、ってね。コレクションって、そのひととなりが出るものなのよ」それを聴きぼくは自然とうなずいていた。「そうかもしれませんね。総長のコレクションは、人柄がにじみ出ていますよ。偉大な優しさっていうか」「うん、そうね。贋物買ったら、普通は恥ずかしくなってひとには見せないものだけど、総長は、それも『私の現れ』って言うんだから、器が違うわよ。懐が深くないとそんなセリフは出て来ない。すごい」

 ドンっと卓を叩く音が響いた。「素晴らしい! さすが、総長! 大人(たいじん)です、大(たい)! 人(じん)!!」真っ赤な顔ををしてそう言い放つと、あいちゃんは締めの煮込みうどんを、ずるずるっと激しく何度も啜り続けた。

 

 「でもさあ、そういう仏様のようなひとを騙そうとするなんて、極悪非道だね」ネエさんは、グラスをテーブルに打ちつけた。「あの、贋作堂!」総長のところで見た黒陶俑の贋物がぼくの頭をかすめる。と同時に、才介の大粒の涙が目に浮かんだ。すると、先日の憤怒が忽然とぼくのなかに湧き上がってきた。「許しませんよ! 酷過ぎます!」ぼくの怒声に、才介は目を閉じ大きく息を吐いた。「悔しいけど、引っかかったおれの負けです」それに対しネエさんが「違うわ!」と目をとがらせて言い放った。「そういう、負けとか勝ちとか、商売の問題じゃなくて、人間としての問題よ!」「その通りです! 人道的問題です!」ぼくもグラスを打ちつけた。「いずれ、天罰が下されるわ。そういうやつには!」いきり立つネエさんの声を受け、才介は手を水平に広げると、「まあ、いいですよ。その件は。おれのなかでは、区切りがついたので。これからは、前を向いて、また頑張ります」それを聞きネエさんが「そうね」と言って、少しだけ残っていた徳利の中身を才介の杯に注ぎ入れた。「えらい。才介。おまえは、男だ」丁寧に最後の一滴まで注ぎ終えると、「ごめんね。せっかく楽しく飲んでたのにね」ネエさんは自分の杯を才介のそれに、こつんと軽く合わせた。

  そのとき、ドンっ、ドンっ! とテーブルの叩く音が響き、その衝撃でコップが一つ倒れ、わずかに入っていた液体がこぼれ床に流れ落ちた。さすがに周囲のひとたちが振り返る。

 「ぼくはぁー!  決して、許さないぞぉー!  堕ちろぉー!  地ぃ、深ぁーくぅーう!!」あいちゃんの叫声に、かなり向うの席の客までこちらに顔を向けている。「まあ、まあ、先生」とぼくはなだめる。

  あいちゃんが一点を見つめ、再び「堕ちろぉーお!!」と叫んだところで、若い女性店員がやってきた。彼女の「すみません」というか細い声に、「何っ!」とあいちゃんが目を剥く。「あの……」「何っ!」「……デ、デザートは……何にします……か?」「ええっ!  こんなときに!  デザートだってえ!」あいちゃんは店員をかっと睨み、バンっと思い切りよく両手をテーブルについて立ち上がると、「メロンです」と言って手洗いに向かった。女性店員がぼくらに目を向ける。才介が小声で「メロンで」。続けてぼくも「同じく」。ネエさんも「わたくしも」と小さく手を上げたあと、「ごめんなさいね。いつも」とすまなそうに目くばせをした。

 

 それから数日後のこと。衝撃的な事件が起きた。その日の昼間、ぼくが何気なくテレビをつけたときだった。その画面を見てぼくは思わず「あっ」と声を上げた。元染の大皿がそこにあったからだ。

 どこかで見たようなと思っていると、カメラが動き、明時代初期の釉裏紅(ゆうりこう)の大皿が。続いて、また元染の大皿、次にまた明初染付の大皿と、5~6点の大皿が映し出されている。皆、一見してわかる真っ赤なニセモノであった。

 アップになったそれらを見て「贋物じゃん」とぼくはつぶやく。すると、画面が切り替わり、30歳くらいの栗色の髪をした女性レポーターがマイクを片手に早口で喋っている映像が流れ出した。このとき、画面の右端の「骨董品贋物取引の実態」の文字が目に飛び込んできた。そのテロップは、荒々しい太文字で記されている――。

 「ええっ!? 何じゃ?」ぼくはテレビの前に腰を下ろし、女性レポーターの話しに耳を傾ける。

 「こちらは、TDKオークションの下見会場です。昨日の週刊誌に取り上げられました骨董品のニセモノが並べられています。さきほど、映像でも映されていたものですが、これらがなんと驚くべき値段で売られていたことが判明いたしました。いずれの品物にも、当時の領収証が付いてあった模様です」再び画面が切り替わり、領収証が映し出される。それを見てぼくは仰天した。あの大屋敷で見た領収証だったからである。「えっ!? あれ、じゃん!」領収証の宛名、つまり元社長の名前のところは、切り抜かれているが、値段と品名、そしてこの領収証の発行主、つまり贋作堂の住所氏名はそのままになっている。個人情報ということもあってか、画面上、住所氏名の部分にはモザイクがかけられているが、「¥30,000,000」と「元青花牡丹唐草文大盤」の品名は、画面に大きく映し出されている。

 再び女性レポーターに画面が切り替わった。レポーターは領収証を一枚手にしながら、「今回6点の出品物にこうした同じ売主の書かれた領収証が付いているのですが、すべて高額で、金額は15,000,000円から30,000,000円となっています。しかし、このTDKオークションでの評価値は、それぞれ10,000円から15,000円という低い額なのです。要するに、これら高額で取引された商品がすべてニセモノであったということなのです。骨董品は、一般的には難しい一面を孕んではいますが、それにしても、あまりにも酷い出来事ではないでしょうか」

 訴えるようなコメントを残し、画面が切り替わる。それを見てぼくは目を見開いた。三代目の姿が映ったからである。「東京美術商協同組合理事」の肩書の下には三代目の名前が。どうやらこれはライブ映像ではなく、事前に収録したインタビューのようだ。三代目は語る。

 「この一件は、われわれ骨董商にとって、甚だ遺憾であると感じています。骨董というのは、ご存知の方も多いかと思いますが、公式な鑑定機関がございません。つまり、真贋の問題ついては、非常にあいまいな部分を含んでいるわけです。だからこそ、買い手と売り手の信頼関係が最も重要となるわけです。つまり、お客様にとって、われわれ骨董商への『信頼』が、すなわち鑑定証書となるわけです。今回の事件は、それをまったく裏切る卑劣な行為であり、言語道断、断固として許すわけにはいきません」そこでインダビュアーから一言入る。「今回の××氏は……」実際は実名をあげているのだが、名前の部分には「ピー」という音が入っている。「……東京美術俱楽部に所属している美術商と聞いていますが」それに対し、三代目が一層きつい目つきで答えた。「一部報道ではそのように伝えているようですが、それは違います。美術俱楽部の会員ではございません。美術俱楽部は、様々な『交換会』と呼ばれる美術商によるオークションを開催する場を提供しているところであり、××は、その一部の個人主催の市場に出入りしている一業者に過ぎません」三代目はそこで一呼吸置くと、「それに、さきほど××が参加している個人会の代表者と話し合い、××は除名ということになりましたので、東京美術俱楽部とは一切の関係性はなくなりました。その件につきましは、このあと改めてわれわれの理事長から報告があると思います」三代目はカメラを正視し、「とはいえ、骨董品を商う側の人間として、骨董を愛する方々の信頼を損なうような行為が行われたことに対し、この場を借りてお詫び申し上げます」と頭を下げた。そして画面はスタジオに移った。どうやら、TDKチャンネルの昼のワイドショーで取り上げているようだ。

 番組のMCをしている赤縁眼鏡の元お笑い芸人が「いや~、どうですか、これは!」と大げさなリアクションをみせて、「えっ、で、で。いくら? 結局、いくらなの? 領収証の総額って?」とキョロキョロしながら、右端に立っている女子アナに問いかける。「ええっと……ちょっと、待ってください」女子アナが書類に目を通す。「はい。総額で、1億5千万円です」「えええっ! 1億、5千万! 酷くないですか、これ?」コメンテーターの一人の若いアナリストが「詐欺ですね」と一言。それを受けMCは、「ぼくは骨董のことなんか、まったくわからないけど、どうですか? Oさん?」

 誰でも知っている70を過ぎた男優のO氏は彫の深い顔をややしかめると、「いやー、実はね。わたしも、ちょこっと、そういう趣味があってね」「ええっ! Oさん、骨董買うの?」「いや、いや。こづかい程度の額ですよ」「こづかい程度だって言っても、Oさんのおこづかいだったら、凄いもの買えるでしょ!」「何を言う」O氏は笑顔で何度も手を横に振りながら、「でもねえ、さっきの美術俱楽部の方が言ってたでしょ。ちゃんとしたところで買わないと、ダメなんですよ」「そう言いますもんね。鑑定番組とかでね。うちの親爺が百万円で買った古そうな壺が、鑑定結果『5千えーん!』なんてね。よくありますよね」「そうそう。だから、そういうところにつけ込む悪徳業者に引っかかったら、悲劇なんですよ。裁判したところで、どうにもならない。公式な証明書がないんだから」「そのへんは、どうですか? 先生?」

 先生と呼ばれた様子の良い国際弁護士は、「うーん。例えば、今回のようなオークション、つまりオープンマーケットで売れた値段というのは、一つの基準にはなると思いますよ。TDKオークションって、知名度あるんですよね?」MCが大きく笑いながら「あのね、先生。一応、ここのテレビ局、TDKですから」コメンテーターの席から一斉に笑い声があがる。弁護士も笑みを浮かべ「であれば、一定の評価になると思いますし。いくらでしたっけ? 売れた金額は?」それに対し女子アナが答える。「いえ、これはですね、これからなんです。3日後のオークションで売られます」「でも、評価額が1万とかでしょ。大して売れないでしょ」アナリストが口を挟む。

 弁護士は続けて、「あと、領収証にある品名が、時代と性質が細かく書かれているじゃないですか」すると、画面に先ほどの元染大皿の領収証が映し出された。「これ、これ。日付もちゃんと入っていて。結構詳細に表記してあるので。例えばですが、品名のところが、時代も書いてないただの『皿』とかだけだと、現物とは違うって言い逃れができますが、このケースであれば、訴えたら詐欺罪、立証できるんじゃないでしょうか」「だって、あきらかに悪質じゃないですか。1万のモノを、3千万だなんて」アナリストが語気を強める。MCがテーブルに肘をのせながら身を乗り出した。

 「ちょっとさあ、今、領収証が映ったから、つけ加えちゃいますとね。この住所、今モザイクになっているところ。言ったら、不味い? 名前は言わないから、ダメ?」首を伸ばしてスタジオ奥を見つめる。「いいよね? だって、オークション会場に並んでるんだから、領収証。ねえ?」MCは一つうなずくと、コメンテーターに顔を向け「なんと、中央区銀座六丁目! どう?」どう? と問われたアナリストが、口をへの字に曲げると肩をすくめ、「ノーコメント」と唇の端で嗤(わら)った。

 このとき画面に、元染の大皿の写真が映った。それは、以前パリのオークションに出品され約3億円で落札されたモノであった。新聞の一面に記載されていた三代目のコメントがぼくの脳裏をよぎる。

 MCが思い出したように、「そうそう! これ! 今画面に出ている、これは、本物ですよ!」声を高めて、「これ、高かったんですよね?」と女子アナに振る。「はい」と言ったあと書類に目を落として、「これはですね。昨年末のパリのオークションに出たもので、そのときの金額が、日本円で、約3億円で落札されたようです」「3億!」O氏は思わず身をのけぞらせると、「いや~、でも、それが本物の値段ですよ」腕を組み大きくうなずいた。MCがにやけながら、「でもさあ、わかる?  さっきのニセモノと、この本物の違い。ちょっと、見せてくれる?  ニセモノの写真?」贋物が映る。続けて本物の画像。スタジオ内から苦笑にも似た声がばらばらと上がる。「おれ、まったく、わからないんだけど」「いやいや、わかりませんよ」と弁護士も笑う。「どう?  Oさん、わかる?」MCの問いに「う~ん。ぼくは、なんとなく、わかるけどね。比べてみると」「さすが! 鍛えられている」「いや、なんとなくだよ」O氏は笑いながら片手を振った。

 若いアナリストが冷静な声をはなった。「でも、本物だったら3億円するものを、3千万で買えますよ、格安ですよって言って売ったんでしょ。わかってて。ただみないなニセモノを。これは、完全な詐欺ですよ」「まあ、そうでしょうねえ」と弁護士が応える。MCがまとめに入った。

  「いやあ、それにしても、骨董は怖いですね」「その通りです。ほんとうに、怖い世界ですよ」O氏が真顔で答えると、MCはカメラに向かい「これは酷い話だ。こういうね、悪徳業者がいるんですからね。皆さんも気をつけてくださいよ。本当に、酷い! こいつ、ちゃんと税金払ってねえんじゃないかな」皆、一斉に笑う。「はい。それでは、次の話題……。その前に、CM? はい、CMでーす」

 

 それから数日後の美術俱楽部で開催された或る個人会では、この話題で持ち切りだった。こんなおいしい話はないという連中が寄り集まっては、お互いのとっておきの情報を交わし合っている。それによると、贋作堂にはめられた同業者は何人もいて、そいつらの一人が週刊誌にリークしたとのこと。そして贋物の流通については、どうやら組織ぐるみであったようだ。これに関しては、あの元染玉壺春の一件からもうなずける。

 中国の美術館では、盗難に備え本物を飾らず本物そっくりのレプリカを展示する場合が多く、それを制作する工房があるようだ。そこにいる腕の良い職人たちの手でつくられたモノが、市場(マーケット)に流通しているとのこと。精巧な写し物をつくる工人は、陶磁器だけでなく書画にもいる。こうした匠の技を悪用して、先日のような売立図録を含めた詐欺行為が出来上がったのだ。そして、その主格にいたのが贋作堂であった。

 中国古美術の市場の巨大化とともに、こうした贋作集団が台頭してきて、それに騙されるひとたちが急増し、その額もおのずと高くなっていったのである。今回の「玩博堂事件」により、骨董の真贋について世間の注目が寄せられることになったが、その根本的問題については完全に解決されたわけではない。正式な鑑定書のない分野なのだから、時が経つと別の形で、また同じようなことが繰り返されるのだ。それは、ある意味「骨董」の持つ宿命とでも云おうか――。

 何はともあれ、今回の事件で贋作堂に天罰が下ったのだ。この1か月後には、贋作堂に騙されこれまで泣き寝入りをしていた蒐集家たちが、徒党を組み訴訟を起こすという事態に発展することになる。あいちゃんの言葉を借りれば、贋作堂は、「地、深く、堕ちた」わけであり、もうその姿を見ることはなくなるだろう。

 

 ぼくは、前後左右に首を伸ばしてひとの動きに目を配った。しかし、いない。今日この個人会に出向いた目的はただ一つ。それは、ブンさんに会うためである。

 さっき情報を交わしていた同業者たちが、週刊誌にリークしたのは騙された業者の一人という言い方をしていたが、この事件のシナリオを書ける人間はただ一人。ブンさん以外にいないのだ。元社長が、ゴミにでも出すかと言っていた贋物の大皿群とその領収証を大手のTDKオークションに流せることのできるひと。マスコミとの繋がりまではわからないが、大元の筋書きを立てられるのは、ブンさんしかおらず。だから、ぼくはブンさんに訊きたかったのだ。

 やがて、競りが始まった。「3万円! 4万円! 5万円!」競り人の威勢の良い声が一階の交換会場内に響き渡る。参加している人たちの顔をぐるりと見回すが、ブンさんはいなかった。本来であれば、来てもよさそうな個人会である。ひょっとしたら、あとから来るのかもしれないと思い、ぼくは会場内をぐるぐると歩き回っていた。しかし、ブンさんは現れなかった。

 

 ぼくは、美術俱楽部から駅までの裏道をとぼとぼと歩いた。会が早めに終了したので、日はまだ高い。今回の「玩博堂事件」の真相は、情報通の業者連中の話しがおおよそのところであろうが、いくつか解せない点がぼくにあった。

 週刊誌にリークしたのは、ブンさんなのか。あのひとが、本当にそんなことをするだろうか。仮にリークしたとしても、テレビ局まで巻き込んでの策略を独りで考えたのであろうか。週刊誌側から番組のネタとしてテレビ局に提供したということは考えられるが、あまりにも短期間に事が首尾よく運び過ぎているように思う。

 それと、なんといっても、最後に三代目が登場したことだ。しかも、自分の店の名ではなく東京美術俱楽部理事の肩書を持ってインタビューを受けたことである。贋作堂が美術俱楽部の会員であれば、その所属団体の幹部として釈明するのはわかるが、会員でもない人間のしでかしたことに、わざわざ出張って弁明する必要など、ないといったらないのだ。むしろ上部組織から見ると、進んで触らなくてもよい案件であろう。それを敢えてテレビの取材まで受けたことに対し、ぼくは何だか腑に落ちない気分であった。

 しかし、マスコミで大々的に取り上げ、東京美術俱楽部という権威のある美術商組合の理事の一人が、この問題の重要性について言及したことで、これが一つの「事件」として成立するに至り、それによって、贋作堂が追放されたわけであり。

 

 ぼくの目の前を小さな子供が走っていった。その後ろから若い両親が、その子の名前を呼びながら早足で追いかけていく。今日は日曜日。公園に満開の桜を観に出かけるのだろう。明日は花見日和と昨日の天気予報でもそう伝えていた。そうだな、桜でも観よう。ぼくは、方向を変えて公園へ向かった。

 公園は多くのひとで賑わっている。一番奥には、薄桃色の花びらで覆われた一本の大木が、東京タワーを背に堂々と立っていた。縦横無尽に広がっている枝々から、桜の花が所狭しとのぞかせている。見事な桜の絢爛ぶりに目を細め「満開だ」と一言つぶやくと、「なんだ、花見か」と後ろから声がする。振り返ると、黒革のジャケット姿が目に入った。いかつそうな男の顔が崩れている。

 「ブンさん!」ブンさんはゆっくりと桜の大木に歩を進めた。ぼくはあとに続く。「何やってたんですか。今日、美術俱楽部の会、来てなかったでしょ?」「ああ。知り合いに電話したら、大したモノ出てないって言うし、一点だけ頼んでたら、買えましたよって、さっき電話が来てな。モノは俱楽部に置いてあるってから、取りに来たところだ」「そうだったんですか」そう言って、ぼくはブンさんを見つめた。

 「この間の、贋作堂の事件、仕組んだの、ブンさんですよね?」「――あれか」「はい」「――おれだ」「やっぱり……、週刊誌にリークしたのも?」ブンさんは、ふっと笑うと、「正確に言うと、それは、おれじゃない」一呼吸おいて、「おれは、あの社長のところへいって頼んだ。贋物の大皿に領収証を付けて売らせてくれと。すると、あの社長のことだ。あんたの好きにしろと言ってくれた。だから、おれは、TDKオークションに持ち込んだ。酷いニセモノということで向うは出品を嫌がったが、ゴリ押しした。担当者をよく知ってたからな」

 そう言うとブンさんは、桜を見やるようにやや顔を上げた。「おれの仕事はそこまでだ」「えっ?」「そこからは、あいつがやった」「あいつって?」「三代目だ」「えっ?  し、知ってるんですか? 三代目?」ブンさんは楽しそうに笑った。「はは。ほとんどのやつはびっくりするだろうが、おれとあいつは、同じ年にこの業界に入った数少ない同期だ。出自は天と地ほどの差だけどな」ブンさんはまた笑うと、ポケットに突っ込んでいた右手を、胸のところで軽く二度叩くとぼくに顔を向けて言った。「唯一といってもいい。この業界の、おれの、マブダチだ」「そうだったんですか!」「だから、あいつに相談したとき、そんなやつは、骨董商の風上にも置けないって、この話しに乗ってくれた。ちょっとは知ってるみたいだったな、元染のこと」ぼくは無言で耳を傾ける。「あいつは、新聞とかによく記事書いたりしてるから、マスコミには顔がきく。そして、東京美術商協同組合理事の肩書を使ってくれた。制裁を加えるためにな」「なるほど。そういうことだったんですか」

 ぼくは釈然とした。ブンさんと三代目がタッグを組んで、才介の敵(かたき)を取ってくれたってわけか――。「ありがとうございます!才介が喜びます!」ブンさんが歩きながら、軽く首を左右に振った。「勘違いするな。そりゃあ、才介に対する気持ちはあった。しかし、それだけじゃない。おれは同じ商売人として、許せなかった。ただ、それだけだ。三代目も一緒だ」

 一陣の風により、いったん舞い上がった花びらが緩やかに落ちていくのが目に映る。ブンさんはまたポケットに手を突っ込むと、ぼくの方へゆっくりと歩み寄った。

 

 「おれは、あのとき、才介の負けだと言ったが、それはあくまでも今回の商売の上でのことだ。人生においては、あいつは何ら負けちゃいない。本物の敗北者は、あの贋物野郎だったってことだ」

 ブンさんはポケットから右手を抜くと、指を一本ぼくに向けた。

 「才介に言っとけ。本当の勝負は、これからだってな」

 そう言うと、ブンさんは笑いながらぼくに背を向け歩き始めた。十歩ほどして片手を上げる。ぼくはその姿に一礼し、改めて桜の大木を見上げた。透き通るような薄紅色が東京タワーの朱色と重なって、青い空に鮮やかな色彩を描いていた。

 

(第38話につづく 6月2日更新予定です)

 

釉裏紅牡丹文稜花大盤 明時代(14世紀)

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