「骨董商Kの放浪」(20)

 展示作品の最後を飾ったのが、清時代につくられた「粉彩(ふんさい)」という色絵で、牡丹を描いた一対(いっつい)の碗であった。これが粉彩かと思い、僕は凝視した。三代目の授業で、中国陶磁の最高位と解説していたのを思い出す。官窯のなかの官窯。まさに皇帝の磁器。

 Eと名乗るオークションハウスのエキスパートが僕に近寄り解説。「粉彩は、白磁胎にエナメルの顔料で直接絵を描いています。使われる色も豊富で、図様も緻密で正確になされているので、さながら絵画のようです」たしかに繊細な油絵のようだ。「何というのか、綺麗としか言いようがないですね」僕はそれ以外の形容詞が出て来なかった。「はい。おそらく専門の画家の手によるものではないかと思います」地の白磁の白はもちろんのこと、ピンク、朱、緑、黒など、全ての色が瑞々しい。「これは、清朝のいつくらいですか?」僕の質問に、「これは雍正(ようせい)銘が入っています」とE氏。雍正か。この間、禿寺(はげでら)市(いち)で手に入れた墨彩(ぼくさい)で山水図の描かれた筆筒(ひっとう)も、確か同じ雍正の銘が入っていた。E氏は続ける。「雍正帝の治世は、1723~35年と短い期間ですが、皇帝が磁器製作に特に力を入れたこともあり、中国陶磁史のなかでも特筆すべき作品が生まれた時代です」そうなのだ。三代目も雍正官窯を中国陶磁の頂点と位置づけていた。僕は、二つ並んでいたので「もともと一対なのですか?」と尋ねた。「牡丹の文様は、それぞれ異なった面を見せて展示されていますので、一見一対のように感じられますが、全く同じ図柄ですから、数あるうちの二つだと思います。ただ、中国陶磁はもともとペアにして飾ることも多いので、これも一対で流通したものかもしれません。」E氏は答える。僕は、牡丹の花びらを一枚一枚丁寧に描いている画力に息をのむ。これを見てしまうと、墨彩の筆筒は贋物(がんぶつ)だなと感じた。

 最後の展示ケースを見終わり歩き出したところでE氏が尋ねた。「先ほど、色絵の馬上杯をじっと見つめていましたね」「はい。何だか引き込まれてしまって」僕が答えると、「あれは珍しいモノなんです。万暦(ばんれき)銘の入った豆彩(とうさい)で」「万暦銘の豆彩?」確か、三代目の授業で、豆彩と呼ぶ色絵はたいへん稀少だと言っていたことを思い出す。E氏の説明によると、豆彩は絵柄の輪郭線を黒色ではなく染付の青で描く手法で、明時代の成化年間(1465-87)の作品がつとに名高く、評価が甚だ高いことで有名。これはその成化豆彩をリスペクトして、万暦帝(1573-1620)の時代につくられた作品であるが、成化同様に数が少ない。「万暦の豆彩はとても少ないです。そして、馬上杯の器形となると、世にこれ一点のみです」E氏はキラリと眼を光らせた。

 E氏との話が終わると、ファーザーが笑顔で近づいてきて感想を訊いた。僕は結局「美術館みたいです」としか答えられなかった。なさけないことに。圧倒されてしまったわけで。最後に、何とか付け足しに「中国陶磁、素晴らしいです。頑張って勉強します」と言うと、Saeがさっと僕の横に並び、「私も一緒に」と右手を上げて宣誓ポーズ。「えっ」と僕は一瞬ひやりとし、すぐにファーザーの顔を見つめた。しかし、ファーザーは普通に笑っているだけだった。

 

 ようやく長い梅雨が明けた7月の下旬。僕と才介は、ブンさんに連れられ美術俱楽部の市(いち)に来ていた。個人主催の交換会という市が、美術俱楽部を会場としてしばしば開かれている。今回のは、そのなかでも大規模な一つ。個人会なので、店がその会に属していれば、その店員という名目で案外自由に入れる。今回僕らは、ブンさんの店の店員ということでこの場にいた。

 今日はその下見の日。3000点くらいのモノが、床に敷かれた赤い毛氈の上に所狭しと並べられている。「今回は多いなあ」とブンさん。両脇の通路に飾られているモノを左右に首を振り確認しながら進み、興味のあるモノがあると、ブンさんはしゃがんで、太い腕でそれを掴んで見ている。僕らも傍で同じように、自分たちの興味ある品を手に取りながら下見を続けた。

 そんな風にしながら小一時間経った頃、才介が僕の腕を叩いた。「おい、あいつ。知ってるか?」その視線の向こうには、長い髪を後ろで束ねた小柄な痩せた40歳くらいの男が立っていた。「あいつ、めっちゃ贋物扱っている奴」銀縁眼鏡のなかの細い眼が、何やらにやついている。「最近中国モノの贋物を一手にやって、相当な金持ちに売って儲けているらしい。悪い奴だ」横を通り過ぎてから、小声で僕に説明する。「まあ、買う方も買う方だけどな。でも騙している奴はもっと悪い。中国モノが高くなるほど、ああいう輩(やから)がはびこる。骨董の世界はそういうところだ」それを聞いて、僕は振り返りもう一度顔を見る。笑顔のなかの細い目は、笑っていないようにみえた。さらに才介は「知ってるか?あいつのこと、みんな何て言ってるか」「?」「本当は、玩具の玩に、博士の博で、玩博(がんぱく)堂というんだが、みんな贋作(がんさく)堂って揶揄(やゆ)ってるんだ。アハハ」「贋作堂?」「そう。実際に贋物、つくってるのかもしれねえ」と薄く笑った。「でも何でそんな奴が、美術俱楽部にいるんだよ」僕が訊くと「今日のは幅の広い個人会だから、意外とメンバーになれるのかもな」才介はそう言って、怪し気な形をした中国の石を手に取った。

 だいたい見尽くしたかというとき、才介はいきなり、「あ、そうだ!」とパチンと手を合わせた。「何だよ?」「そういやあ、おまえ。この間、フレンチの屋敷にいったとき、」と話し始める。フレンチ…。僕は才介に、先日の一件を隈なく話したのであるが、彼の頭を支配したのは、中国陶磁の大コレクションではなく、どうやらフランス料理だったようで。それ以来才介は、僕が訪れたところを「フレンチの屋敷」、Saeを「フレンチのお嬢」、ファーザーを「フレンチの旦那」、と呼んでいる。才介は続ける。「オークション会社のエキスパートに会ったって言ってたよな?」「うん」「それだよ。思い出した。禿寺で買ったあの清代の筆筒を鑑定してもらおう!」そのセリフを聞いて僕は急に気がなえる。「やめようよ。それは…」「何で?」「だから、何も進んで恥ずかしい目に遭あわなくても…」僕の沈んだ答えに、「あほか。たかだか十万で買ったやつだ。失うものはねえだろ」と反論。「まあ、それは、その通りだ」僕はいったん頷く。しかし…僕の気は進まず。すると才介が言い切る。「おい、K!俺たちゃ、まだまだ素人なんだぞ。駄目もとでいいじゃん!」確かにそうだ。僕らは甘ちゃんだ。怖がることはない。僕は才介の目を見つめ「わかった!連絡してみる」と言った。

 そうこうしているうちに、ブンさんが戻って来た。だいたい下見が終わったらしい。「どうでした?」の才介の問いに「うん。まあ、今回はぼちぼちだな。高いのは高くなるだろうし」僕らは頷く。「しかし、中国モノもかなりあやしいものがたくさん出てるな。売れるからといって」と、ブンさんは向こう側の壁際を指さした。「そんなにですか?」才介は聞くなり、そちらへ向かっていく。ブンさんと僕も後に続く。そこには、漢時代や唐時代の人物や動物の俑(よう)などの出土品が50点ほど置かれていた。ブンさんは「全部駄目だろうな」とささやく。そのなかに、10センチも満たない小さな黒い土偶の人物像が二体あった。顔の造作であるが、凹凸はなく真平(まったいら)。手足も簡素につくられていて、一方は両手を広げ、一方は地べたに座っているような形状。表面は研磨されているのか、黒光りしている。プリミティブ・アートに見えなくもないが、その造形が大仰で何か作為的なモノを感じ、僕は手にも取らなかった。

 

 僕は才介の提案を受けて、早速、ファーザーの展示室で会ったエキスパートのE氏に連絡をとった。だいたいのところを話すと、モノを持ってきてほしいとのこと。僕らは、銀座にある東京オフィスに出向く。そこは、大通りに面した、1階に有名なブランド店のある大きなビル。名刺にはこのビルの5階とある。「さすがに、すげえところにあるな」才介はエレベーターに乗ると5のボタンを押した。受付で名前を言うと、奥の応接間の一室に通され、僕らは、落ち着かない様子で出されたお茶を一口。白を基調としたモダンな室内。やがて、E氏が登場。先日はどうもとお互い挨拶をかわし、僕は才介を紹介。才介は「このたびはどうも」と言って名刺を渡す。E氏は笑顔で受け取り、僕らの前に座った。

 僕とE氏は先日を振り返り雑談。その間に、才介はバッグのなかから薄紙に包んできたモノを取り出し、テーブルのトレイの上に置いた。E氏はそれを手に取る。そして真剣なまなざしで、しばらく図柄と裏の銘を確認。僕らは固唾(かたず)をのんで見つめる。そして、E氏は口元をゆるめてモノを戻した。「はい。お預かりしてもよろしいでしょうか?」とE氏。「はあ」という僕らの生返事に、「香港のエキスパートに連絡を取りますので、少々お時間をください」それを聞き僕は「贋物でしょうか?」と窺う。「雍正官窯は、難しいので、丹念に調べる必要があります」とE氏は明言を避けた。「これは、箱も無いですし」と加える。やはり、駄目か…。僕は少々落ち込む。才介は「わかりました。お願いします」と何となく前向き。それを受けE氏は、テーブルに置かれた才介の名刺を取り上げ「結論が出ましたら、こちらに連絡させていただきます」と言った。

 

 僕らはぶらぶらと電通通りを新橋に向かって歩く。僕は、先ほどのE氏の対応を思い返し「あの感じは、やっぱり厳しいんじゃないか」それに対し才介は「いや、おれはいけると思うな」と反論。「何で?」「だって、あのひとも一応エキスパートだろ?すぐわかる贋物だったら、その場で駄目だって言うだろう。預かったりするかな」「いや、ああいうところは、社交辞令みたいなところがあって。いったん預かってから、駄目だって言うんじゃないか」僕の推論に才介は「あなた、案外マイナス思考ね」と茶化した。すると才介が急に立ち止まった。「どうした?」才介は、路面のビルの上を指さす。「おい、見ろよ」いくつか縦に並んでいる看板の一つに「玩博堂」の文字が見える。「へえー、こりゃ驚いた。ここに店を構えるなんて、よっぽど儲けてんだな。贋作堂」才介は看板を睨んだあと、「目の利かない金持ち連中が、いいカモにされてるんだな」と軽笑した。

 

 この年の夏の終わりの或る日、僕はReiを連れて東京の或る骨董市(いち)に出かけた。ここは定期的に行われており、誰でも参加できることで知られている。僕はたびたび訪れているが、Reiは初めて。ここでは、才介と来るときに、細かいモノを仕入れることもあった。いつものように、雑多に並べられている品を流し見しながら、気になるモノがあると手に取る。Reiも同様に僕のあとに続いて下見をする。今日は、夏の終わりもあってか出品数も少なく、そう関心を示すものはないなと思っていたところ、一つの中国陶磁が目に留まった。それは、径が10センチ、高さが3~4センチほどの薄茶色をした浅い青磁の碗であった。

 僕の気を引いたのは、表面に入る細かい貫入(かんにゅう)と呼ばれるひびで、これは、前に宋丸さんの店で見た、あのN婦人の南宋官窯(なんそうかんよう)の青磁碗に共通するものであった。しかし、こちらは色が青くなく、茶色い。ただ、三代目の講義で、南宋官窯には少ないながらこのような茶色い青磁釉もあり、その色を稲穂の色にたとえて「米色(べいしょく)青磁」と呼んで解説していたことを思い出す。手に取ると、とても軽い重量感が伝わる。それは、ボディが薄いことを物語る南宋官窯の特徴だ。釉色が茶色いのは、酸化炎焼成といって、窯のなかに酸素を入れて焼成したためで、通常青磁は、酸素を入れずに焼く、還元炎焼成のため青くなる。釉色の違いは、その焼成法によるもの。酸化炎焼成による茶色い青磁を見るのは初めてであった。高台径も大きいため平たい見込みも7~8センチくらいあり、碗というより筆洗を思わせる器形。僕は手のなかで何回もひっくり返しながら、見込み、側面部、底裏部分をじっくり観察。貫入が細かく入り、釉は透明感があり、なかなか良さそうな気がする。ただ、器形が少し鈍重な趣もあり、釈然としないところもあったが、講義では、南宋時代を代表する龍泉窯(りゅうせんよう)という大規模な青磁窯でも、同様の米色青磁をつくっていたと説明していたので、これもそういうものかなと僕は感じていた。

 僕の様子を見てReiは「買うんですか?」と訊く。僕は「うーん」と首を傾げたあと、モノをReiに渡す。「どんな感じ?」Reiはしばらく手のなかで見つめたあと、「正直、わからないわ。見たことないので。でも、欲しいかと聞かれたら、わたしは欲しくないです」とコメント。なるほど。Reiらしい。僕は彼女からモノを受け取って元の場所に戻し、次へ進んだ。しかし、気になってまた戻る。値札には400,000円とある。高いといえば高いし。安いといえば安い。要するに中途半端な値段である。雰囲気から南宋官窯とは決めづらいが、龍泉窯の官窯写しの米色青磁とすれば、納得はできるかも。

 僕は思案した。透明度のあるガラス質の釉が眼に冴え、この貫入がそれとマッチしている。それに、米色青磁は数が少ないため、稀少性という面からみても魅力的だ。贋物をつくるなら、青色の正統派の方にするだろうから、ニセモノということは無いだろう。やはり捨てがたしと結論し、僕は買うことにした。

 

 宋丸さんに見てもらった方がというReiの提言を受け、翌日、それを持って店へ。宋丸さんは、米色青磁を袱紗(ふくさ)の上に置いて、全体をじっと見つめている。「どうでしょうか?」僕は宋丸さんの顔を覗く。宋丸さんは、やや上体をそらししばらく眺める。そして言った。「お嬢さん、もう一杯お茶ちょうだい。熱いやつ」

 お茶が来るまで宋丸さんはそのままの姿勢だ。手に取ることもせず。やがてお茶が運ばれる。それを一口啜って「もっと、大らかなモノじゃないか」と、ようやく一言。大らか?宋丸さんらしい表現だ。「と言うことは…、駄目、ですか?」僕の問いに、「うむ。そうだなあ。もっと、大らかなモノだろう」少しは覚悟していたが、やはり僕は落ち込む。Reiは心配そうに僕を見つめている。僕は一杯目の冷めたお茶にやっと口をつけた。

 

 そのあと僕は、青磁を持って三代目を訪ねることにした。そこは、南青山の骨董通りにある、敷居の高さでは業界屈指の重厚な3階建てのビル。僕は思い切って扉を開けてなかに入る。すでにアポは取ってあったので、三代目が応接間の一つに案内。ここだけでもネエさんの展示室分はある広さ。僕はさっそく、青磁をテーブルの上に置いた。それを見て三代目は、「ははあ、米色青磁ですか」と言って手に取る。僕の緊張は高まる。三代目の眼は、底裏の高台(こうだい)部分に集中する。そして左手の中指の腹で、畳付(たたみつき)という、置いたときに畳などの地の面に接する、釉の掛からない部分をなでながら、何やら確かめている。そして言った。「うーん。この手は官窯(かんよう)ではなくて、龍泉窯の作にあると思います」僕は授業でそれを習ったし、自分でもそう判断したので、すかさず訊いた。「はい。ですから、これもそういうモノかと思うんです。龍泉窯の南宋官窯写しかと」「はい。あまり多くはないけど、そういうモノもあります」

 三代目は、そう言ったあと、再び手に取り、今度は口縁部を指でつまんで一周させ、少し考える風にして碗をもとの場所に戻した。「Kさん、若いし。これからだと思うので、正直に言っていい?」僕は唾を飲み込んで「はい」と返事。三代目の口がゆっくりと開かれる。「僕は、難しいモノと思う」難しいというのは、駄目だということ。やはり、そうか。僕は、望みが完全に断たれたような気分。「どのへんがでしょうか?」僕の張りのない声に「うん。これは、一目瞭然のニセモノとは違って、細部までよくできているから、なかなか言葉であらわすのは難しいけど、やっぱり違う。古い感じがしない」と言ってモノを見つめた。三代目のこの表現を、僕も何となく理解した。真贋の見極めというのは、得てして直感的なものだ。落ち込む僕の姿を見て三代目は「まあ、それは個人的な見解ではあります」と言って続けた。

 「古美術と言うのは、鑑定書の無い分野だから、人によって意見はわかれたりする。これを本物として扱うひともいるでしょう」「どういうひとが?」「このレベルになると、たくさんいると思う」「たくさんですか?」「うん。モノに精通しているひとはニセモノとわかるけど、そういう業者は意外に少なくて、たいていはいい加減に判断して本物として取り扱う。鑑定書がないのだから、証明の仕様がないからね。だから、ニセモノもそれなりの値段が付いて、平気で売られていく。骨董には常にそれがついてまわる」三代目は、骨董のグレーの部分を端的に説明した。そうなのだ。骨董は正式な鑑定機関がないので、目の利かない商人から買ってしまうと、すなわち贋物を掴まされることになるのだ。僕は、三代目の講座に来ていたあの爺さんを思い浮かべた。「受講していたお年寄りで、毎回ニセモノ持って来るひとがいましたけど」僕がその話しを向けると、三代目は笑いながら「そう。あのひとは良い例だね。ちゃんとしたお店で買っていれば良いコレクションになったかもしれないけど、世の中ああいうコレクターの方が多いかもしれないね」たしかに。本人は本物と思っていても、たいていはニセモノだったりするテレビ番組が頭に浮かんだ。僕は三代目の話しを聴き、骨董の世界の不透明で難解な実情を改めて感じていた。そして結論した。この青磁に関しては、宋丸さんと三代目が駄目だと言っている以上、贋物であることは間違いないということを。

 

 「ありがとうございました」僕は深々とお礼を言って部屋を出た。帰りがけに店頭の品々をじっくりと見たが、あまり頭に入らなかった。最後の展示棚の下に、展覧会チラシと骨董雑誌が置かれているのが目に入る。そのなかの雑誌の表紙が龍泉窯の青磁だった。それを見て三代目が思い出したように、「あ、そうだ。ちょうど今、龍泉窯の展覧会が世田谷の美術館で開かれているので、見に行ったらいいよ」「それは是非」「確か招待券の余りがあったからあげる」三代目が奥に下がっている間、僕はその雑誌をぱらぱらとめくった。最後の方は、有名なお店の広告が並んでいる。そのなかの一頁に目が奪われた。この間美術俱楽部の交換会の下見で見た、中国古代の二体の黒陶土偶が載っていたからである。そしてその下には、「中国骨董 玩博堂(がんぱくどう)」の文字が大きく出ている。招待券を持って戻ってきた三代目が、それを見て渋い顔をした。「その店ね。困るんだよね。贋物を堂々と出しちゃって」僕はもう一度その頁に目をやる。このとき、そののっぺらぼうの土偶の顔が、僕をあざけり笑っているようにみえた。

 

(第21話につづく 9月16日更新予定です)

黒陶土偶二体 戦国時代(前3世紀)

米色青磁碗 南宋時代(12-13世紀)

 

粉彩牡丹文碗一対 清・雍正在銘(1723-35)


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