「骨董商Kの放浪」(21)

 僕は、玩博堂(がんぱくどう)の出している土偶の写真を指し、三代目に訊いた。「これって、やっぱり贋物(がんぶつ)ですか?」それに対し「これの本物は、もちろんある。中国の紀元前3~4世紀くらいの黒陶の俑(よう)。ただ、非常に少ない。もっと造形がシンプルで、身体のラインもなめらか。こんなに固くない。昨今、結構出回っている贋物だよ」と断言。「やはり、そうでしたか。僕もそんな感じがしました」「こういうモノは、あまり見ない方がいいね」三代目は、雑誌を閉じてもとに戻した。

 

 次の日早速、僕は世田谷区の或る美術館で開催している龍泉窯の展覧会に出かけた。平日だが来館者が多い。龍泉窯青磁の人気を僕は再認識する。

 

 龍泉窯とは、中国陶磁を代表する青磁窯。11世紀の北宋(ほくそう)時代から17世紀の明(みん)時代までの長きにわたって焼造され、窯址(ようし)も大規模に及ぶ。なかでも13世紀の南宋(なんそう)時代後半期に優れた作品が生まれ、それらは日本に渡り、鎌倉時代以降、茶の湯の世界で珍重され伝来した。花入(はないれ)、香炉、茶碗がその代表で、現在国宝、重要文化財に指定されている作品も少なくない。特徴は先ずその釉(うわぐすり)にあり、それは柔和な光沢と温雅な粉青色(ふんせいしょく)という、やや失透気味の青緑色を呈していて、明るい光のもとでは華やいだ艶やかな表情をみせる。そして器形であるが、これは伸びやかで均整がとれて、ゆったりとした大らかさが感じられる。日本人にとって、青磁の代名詞といわれるのが、この龍泉窯の製品なのだ。

 

 僕は、国内伝世の名品群はもちろん、いろいろなタイプの龍泉窯青磁をじっくりと観察するように見てまわった。そのほとんどが、貫入(かんにゅう)のないタイプ。貫入のある例は余程少ないのか、たったの1点。径が10センチほどの浅い碗で、平らな見込みに二匹の魚のデザインが、背中合わせにして貼り付けてある。龍泉窯青磁にしばしば見られる「双魚(そうぎょ)文」の碗。これが2点並んでいて、一方は普通の青磁。もう一方が、酸化炎焼成の薄茶色をしたいわゆる米色(べいしょく)青磁だった。

  僕は米色の方を、目を皿のようにして見入った。色はこちらの方が薄く、貫入はやや小さめで、全体的に少しラフな造りになっているようにみえる。これだけを見ると、正直僕が入手したモノの方が、上手(じょうて)のように思えた。しかしこちらは、自然な古さを持ち合わせている感じもし、三代目が、僕のモノを見た印象を「古い感じにみえない」と言ったニュアンスも何となくわかる気もした。しかし、この1点だけではどうにも腹には入らない。僕は、もやもやしたものを抱えながら、会場をあとにした。

 

 会場を出てすぐ、僕は例の雍正(ようせい)の筆筒の評価がきているのか気になり、才介に電話をした。才介は「まだじゃね。オークション会社、夏休み長いらしいから」と、いたって気楽な反応。僕は米色青磁の件を話そうと思い「そうか。今からそっち行っていいか?」と訊く。「何かあった?」「うん。ちょっといろいろと訊きたいことがあって」焦り気味の僕に「ああ、いいよ。別に」と、才介はのんびりとした口調で答えた。

 僕はいったん家に帰り、青磁碗を携えて才介のところへ。一応事務所代わりとなっている才介の家は、東京の下町にある。やや古びたアパートの一室で、僕は先日買った青磁を取り出した。それを見て才介は、「へえ、こんな色した青磁初めて見るわ。貫入びっしりで」と言ったあと「モノ、いいの?」とストレートに訊く。それを受け僕は「はあ」とため息をついて、事情を説明した。

 「なるほどね。龍泉窯の官窯写しの米色青磁ってわけか。何だか理屈っぽいな」と才介はあっさり。そのあと「おれは、悪いような気がしないけどな。結構通用すると思うよ。このレベルなら」と小さく頷く。「そうか」「ああ。贋作堂なんか、高く売るだろう」「なるほど…。そのレベルか」「まあ、おれなら買わないけどな」Reiにならまだしも、才介にそう言われるとかなりへこむ。「そんなに、落ち込むなよ。そんなこと言ったら、おれなんかしょっちゅうだよ」と言って、部屋の隅からいろいろと中国骨董の雑多な品々を引っ張り出してきた。確かにガラクタだ。才介は、それらに目をやりながら、「40万が高いかどうかは別として、それくらいの被害で済んだんだから良しとすればいいじゃん」そして、「おまえ、師匠なんか、有り金全部はたいて勝負して、それで丸裸にされて、永平寺に一か月間修行に行ったんだから。それも三回だぞ。三回!さすが師匠だよ」と、まるで失敗談を自慢するかのように、師匠の昔話を例に出す。それを聞いて、僕は若干気を取り直した。そして、相談をする。「実は前に、大コレクターから聞いた話しだけど、贋物は絶対見るな、と言われて」僕はN婦人の義父の話しを思い起こしながら、「手許にあるのは良くないと思って。処分しちゃおうかと思ってるんだけど」それに対し才介は、「なるほど。それも一考だな。贋物手許にあると見ちゃうしな。それに目が慣れちゃうと、おまえの取ってた講座の、あの毎回贋物持ってくるジジイみたいになっちゃうからな」と笑って言ったあと、青磁を指さした。「まあ、おれだったら取っておくけどね。いつか化けるかもしれないから」僕も改めて青磁を見つめ考える。しかし、贋物を取っておくのもあまり気分の良い話しでなく。その様子を見て才介は、「おまえがそれでいいなら、いいんじゃないか。ブンさんにでも頼んで、今度の会でも出して売ってもらうよ」僕は了承し、モノを才介に渡した。この件はこれで落着。

 「あとさあ、例の雍正の筆筒だけど」僕は、まだ連絡のない筆筒に話しを戻した。「あれはいかんと思うね」才介は大きく頷きながら、「おれも正直期待してないよ。でもあれも結局は、元手はたかが知れてんだから。別にくよくよ考えてもしようがないだろ」こうした商売についての思考回路は、才介の方が全く上手(うわて)だった。

 

 それから4~5日ほどして、Reiから電話があった。今、東京国立博物館東博)で、『遣唐使と唐の美術』という展覧会を開催しているので、一緒に行かないかとのこと。僕もその展覧会を是非見たいと思っていたところだったので快諾。次の日曜日に訪れることに。

 遣唐使は、周知のとおり、630年犬上御田鍬の派遣により始まった制度で、894年菅原道真の建議によって停止するまで、だいたい20回に及んだとされる。なかでも、717年に敢行した、阿倍仲麻呂吉備真備(きびのまきび)・僧玄昉(げんぼう)の使節団は有名。こうした遣唐使や留学僧たちによって、唐時代の華麗な文化が日本にもたらされ、わが国の白鳳・天平文化の礎になったのである。

 内容的には、717年の阿倍仲麻呂とともに渡った遣唐使の一人、井真成(せいしんせい)の墓誌が、前年の2004年に陝西省西安で発見されたことを発起とする展覧会で、その墓誌はもちろん、加えて金銀器、白磁、三彩の名品などが、中国と国内の著名な美術館から出品されているゴージャスな展観。盛唐期と呼ぶ7世紀後半から8世紀中盤にかけての、最も唐文化華やかなりし頃の秀麗な作品が数々陳列されていた。

 僕らは金銀器を皮切りに、順路に沿って展示品を見ていく。そしてその最後が圧巻だった。日本を代表する唐三彩の作品がずらりと並んでいたからである。さすが東博の展覧会。厚味が違う。なかでも目を惹いたのが、兵庫県にある白鶴美術館所蔵の「鳳首瓶(ほうしゅへい)」と呼ぶ瓶。口部を鳳凰形にデザインし、細い頸(くび)に卵形の胴部と高い脚部。植物の茎をかたどった把手(とって)が片方に付いている。瞠目すべきは、胴部に賑やかに貼り付いている文様であった。円形のなかに鳳凰をデザインしたものと、パルメットと呼ぶ古代エジプトギリシャ装飾にある植物文様が、豪勢且つ整然と配され、肩部と裾部には豊かな蓮弁文が施されている。そして、それを覆う白、緑、褐の三色の釉が淡く煌めき、いかにも唐独自のシルクロード文化が匂い立っている。僕がその姿形に陶酔していると、Reiは「超名品ですね」とささやいた。「うん」僕は素直に頷く。するとReiは、「宋丸さんの話によると、この瓶は、戦前期に出土して日本に入ってきたんだけど、同時にもう一つタイプの違う鳳首瓶も一緒に出てきたんだって。そして、そっちの方が上だって」「えっ、そうなんだ。これを超えるモノがあるんだ」僕は驚く。「どこの美術館にあるのかな?」それに対しReiは「個人の方が持ってるって言ってたわ」と答えた。「これ以上の作があるとは思えない」僕はそのときそう感じた。

 

 この展覧会をとおして、僕は、唐文化の気風というものについて考えた。簡単に言葉で示すと難しいが、それは、華やかであり、絢爛であり、精緻であり、豊麗である。写実的であり、量感に溢れ、ダイナミックな気分に満ちている。それは、これまで見てきた、教授の美人画然り、大阪の東洋陶磁美術館の豊頬美人俑然り、Saeのところの三彩馬と貼花文壺然りである。細部ではなく、全体の空気感を把握することの重要さを、僕は学んだような気がした。

 

 帰り際、Reiは僕に渡すものがあると言って、中庭のベンチに向かった。腰かけると、バッグのなかから白色をしたお守りを取り出した。「先週、神社に行ってきて、買ってきたの」見ると、織り込まれた柄の真ん中に「開運厄除」とある。「くれるの?」「はい」僕はそれを手にする。「男は敷居を跨げば七人の敵あり」Reiはそう言って僕をみつめた。「Kさんも、これからたくさんの敵と戦わなければならないでしょ。そのために、持っていて」Reiは、お守りの乗っている僕の右手に自分の両手を添え、そっと包むように僕の手を閉じさせ、「肌身離さず、持っていてください」と言って、ポンと一度叩いてから手を離した。瞬間、Reiの手の温もりが僕に伝わる。僕は閉じた手を再び広げ、その白いお守りを感慨深く見つめた。そして、「ありがとう、Reiちゃん」と言って顔を上げた。晩夏の夕日以上に目に沁みたのは、Reiの柔らかな笑顔だった。

 

 次の週、僕は、ネエさんからの依頼で、総長のお宅を伺うことに。先日、ネエさんの店にあった、キクラデスと呼ぶ大理石の偶像の頭部を総長が購入し、僕がそれを届けることになり。総長は、昨年の骨董フェアで漢時代の青銅坐人(ざじん)を手に入れてから、しばしばネエさんのところで優品を買いもとめている。主に古代の人物像が好み。気に入ったモノを見たとき、一瞬にしてそのなかに入り込んでしまう総長の優しい眼が僕は好きだった。

 

 総長の家へと向かうゆるやかな坂道を上っているとき携帯が鳴った。才介からだ。ひょっとしてオークション会社からの連絡が来たかと思って出ると、先日の米色青磁の件であった。「ブンさんから報告があって、昨日の美術俱楽部の会で出品して売ったそうだ。値段は10万だったって。まあ、仕方ないな」「了解」と僕が言ったあと、ややトーンの下がった声で才介は告げた。「それがさあ、買ったやつ、贋作堂らしい」それを聞いて、僕は何ともやるせない気分になった。

 

 総長の家は都心の閑静な住宅街にあったが、そこから歩いてすぐのところに別宅があり、コレクションはそちらの方に収蔵されているとのこと。30坪ほどだろうか。コンクリート三階建てのモダンな外観。僕が玄関のブザーを押すと、眼鏡の奥の優し気な細い目が出迎える。「Kさん、ようこそ」「失礼します」なかへ入りホームエレベーターで地下室へ。そこはコンクリートが打ちっぱなしの、2階まで吹き抜けとなっているスタイリッシュな展示室。3フロアなので、この吹き抜け観が半端ない。地下とはいえ、充分な広さの庭から光が採り込めるように設計されている。庭には中国の背の高い怪石が幾つか並び立っており、コンクリートの壁と見事に調和している。なんて素敵な空間だろう。壁面の展示台には、大小様々な骨董品が置かれている。

 「さあ、Kさん。おかけになって」総長と僕は、丸いテーブルを挟んで座る。そして、早速にキクラデスを総長の前に置いた。そのとたん、笑顔がはじける。「いやー、これは惚れ惚れするなあ」その言葉を耳にしながら、僕は一緒にこの顔だけの像を見つめた。

 

 キクラデスとは、エーゲ海中部に点在するギリシャ領の島々を指す名称。そこで、紀元前3000年から前2000年に古代文明が興り、その象徴的産物がこうした大理石の偶像であった。その多くが裸体の女性像。完全な形で残る例はめったになく、市場で目にするのは、だいたいが首から上の頭部のみ。顔の造作はシンプルで、面長の平たい面の中央に、縦筋のように鼻のみが彫りあらわされている。元祖プリミティブ・アート。これもやや太めの長い首の上に平坦な顔の造作が印象的で、大きさ10センチ弱と、このタイプでは寸法がある。よって全身像は、かなりのサイズと推測される。首の中央から金属の心棒を通して金属製の台座に繋げている。総長はその台を持ち、壁面の飾り棚の一箇所に据えた。大理石の白がほのかに輝く。頭部のみだが、キクラデスの魅力を充分に発していて、僕はうっとりと眺める。横にいる総長も同様だ。

 

 そして、僕の目がその横の陳列品に向けられたときである。強烈な衝撃に襲われ、頭が真っ白になった。そこに飾ってあったのが、あの贋作堂の広告に出ていた、二体の黒陶の人物だったからである。驚きのあまり、見開かれた目をそのまま総長に向ける。総長は、にこにこと笑っている。僕のかすかに震えた指先が黒陶に向けられると、総長の笑顔がさらに増した。「いいでしょう。このふたつも」。

 僕は、すぐに答えることができず、少し間をおいてから、「これって、玩博堂というお店にあったものですか?」と訊いた。「知ってますか、そのお店。最近そこから買いましてね。これもいいんだなあ」総長の笑みは止まらない。何と言ったらよいか、僕が思案をしていると、「Kさん、このふたりは、どんな話をしてるんでしょうねえ」と問いかけた。それを受けて、僕は二体の小俑(よう)に視線を向けた。右の方は、少し身体をくねらせ、大仰に両手を広げている。左は、両腕を前方にやり地べたに跪(ひざまず)き、低い体勢から平らな顔を上に向けている。この呼応しているような二体の恰好が、確かに話しをしているようにみえる。

 総長は二つの俑を見つめながら想像を膨らませる。「僕はね、この二人が実に楽しそうに話しをしているように見えるんですよ。右のひとが、今日はこんな凄いことがあったんだぞって、そのあらましを、自慢気に得意そうに、手を広げ身体を曲げて一生懸命伝えている。そして、左のひとが、それを興味津々といった感じで、へえー、そんなことがあったんだって、目を輝かせて聴いているように見えるんですよ。Kさんは、どんな風に見えますか?」

 そう訊かれて僕は非常に戸惑った。総長の言っていることはよくわかる。しかし、これは贋物なのだ。その純真無垢な笑顔を見ていると言い出しづらくなったが、でも、本当のことを伝えなければと思い、意を決して口を開いた。

 「総長、これは、レプリカだと思います。本物はあります。しかしこれは、それをうつした模造品です」僕は総長の横顔を凝視した。しかし、その表情に全く変化はなく、絶え間ない笑みを浮かべたままだ。そしてさらに、その笑みが増していった。僕は、小刻みに押し寄せて来る胸の鼓動を押さえながら総長を見つめた。何とも不安定な静けさが流れていくなかで。

 

 やがて、総長は柔和な笑みを湛えたまま、土偶に向けていた視線をゆっくりと宙に浮かせた。「Kさん。僕は、レプリカでも良いと思ってるんです」「えっ!?」「写しモノであっても、これはこれで、何となく2000年前の雰囲気がある。僕はそれを感じられるだけで満足なんです。いいじゃないですか。この時代の人びとの暮らしぶりが垣間見れて。今と同じように、ひとは日々生きている。そんな気分が感じられるだけで良いんですよ」そう言って顔を僕に向けた。総長の深い笑みと予想外の解答を受けて、僕はその眼をじっと見つめ、ただ口を閉ざすだけだった。そして、再び不思議な間がおとずれた。ただそれは、ざわつく僕の心をなだめるかのような穏やかな優しさを抱えていた。

 

 やがて、総長は両手を後ろに組んで、左奥の壁面に飾られている大きな家の模型のようなモノに向かってゆっくりと歩き出した。僕もそれに続く。それは、やきものでつくられた家屋のミニチュアだった。実際に住んでいた一軒家をモデルにして、埋葬用につくられたモノだろう。瓦葺の屋根の門を入口にして、左右に同様の瓦葺の棟、そして奥には大きめの主室のあるこれも瓦葺の棟。高さが50センチほどある。これらを煉瓦壁で四角く繋ぎ、囲われた長方形の中庭には、小さな人物俑が三体置かれている。

 それは、四合院(しごういん)と呼ぶ中国の伝統的な住宅様式で、その歴史は三千年に及ぶとされ、現在の北京でも、まだこうした家々が立ち並んでいる。これは、その四合院をやきものでつくったミニチュア模型であった。かなりリアルにできていて、そこだけタイムスリップしたかのような空気に包まれている。そして、左斜め上からスポットライトが注がれ、その光がこの古びた建物をよりいっそう現実的にみせている。何ともいえない風情を漂わせているこの建築模型を、僕はしばし見入った。

 その様子を見て総長はおもむろに訊いた。「Kさん。これは、朝陽でしょうか?夕陽でしょうか?」思わぬ問いかけに、僕は虚を突かれた感じで、スポットライトの光を受けて立つ家屋を見つめた。何となく黄昏時をイメージし、「夕陽でしょうか」と僕は答えた。総長は、じっとその四合院の佇まいを見つめ「夕陽もきれいだと思いますが…」と言ったあと、目をいっそう細め遠くを見つめるようにして、「僕は、朝陽だと思うなあ」と感慨深げにつぶやいた。

 

 僕は、その総長の慈愛を込めた眼の輝きを見て、ふいに自分が可笑しくなった。そして、僕に鬱陶しくまとわりついていた嫌らしい不快な蟲(むし)のようなものが、一掃されていくように感じた。ちっぽけでつまらない自分を浄化していく涼風が、身体のなかを吹き抜けていくように感じた。

 

 僕は、陽のあたる四合院の姿を見つめた。すると、そのスポットライトが、清々しい朝の光となり、家のところどころに射し込んで、これから爽やかな一日が始まろうとしている、そんな情景が目の前に広がったのである。そうだ。確かに、この作品には朝陽が似合っている。そして思う。これはひょっとしたらレプリカかもしれないが、もはやそれはどうでもいいことなのかもしれないと。骨董には、無限の解答があるのだ。

 

 僕はこのとき、四合院を見つめている総長の清純な笑顔だけが、まやかしではないただ一つの真実であるように思えた。

 

(第22話につづく 9月30日更新予定です)

 

灰陶四合院

米色青磁双魚文盤 龍泉窯 南宋時代

唐三彩貼花文鳳首瓶 唐時代(7-8世紀)

キクラデス頭部





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