骨董商Kの放浪(30)

 翌日の午後、ぼくは宋丸さんの店に向かった。今日の目的は二つ。先ずは、今回仕入れたモノを見てもらうこと。定窯白磁碗と黒釉碗の二点。そして、Saeのところの万暦豆彩馬上杯について訊くこと、である。扉を開けると、Reiが笑顔で出迎えた。

 「よかったですね。良い仕入れができて」今回仕入れたモノについてはすでにReiに知らせてあり。「良い仕入れなのかどうかは…」判決は今日、宋丸さんによってくだされる。その宋丸さんであるが、どうやらまだ来ていないようだ。「その黒い碗の方は、Kさん、どんな感じなの?」「うーん。ぼくは、変な新物(あらもの)には思えないけど。どうかなあ」ママの店で買った黒釉の碗について、Reiは、宋時代に磁州(じしゅう)窯(よう)という華北の窯で黒釉の作品が数多く焼造されているから、そういうものではないかと考えているようだ。ぼくもそうかもしれないと思いながら、でも何か別のモノのような気もしていた。何しろ宋丸さんの見解を聞きたい。

 

 Reiの出されたお茶を一口飲んだところで、宋丸さんが風呂敷包みの箱を小脇に抱えて入ってきた。「おう、どうだったよ。香港は」「無事、帰ってきました」「ハハハ。そりゃ何よりだ」宋丸さんがドカッとソファに腰を落とすと、まもなくRei熱いお茶を前に置いた。「それで、今日見てもらいたくて。仕入れたモノ」ぼくは持ってきた風呂敷包みを解く。それを見ながら「おい、おい。あんまりびっくりさせるなよ、K君」と、宋丸さんは楽しそうにお茶を口に運んだ。

 

 「これなんですが」と、ぼくは、先ずは定窯白磁、それから黒釉碗を、Reiの敷いた紫の袱紗の上に並べた。宋丸さんは腕組みをしたままソファにもたれかかり暫し眺める。そして、お茶をゆっくりと口に含んだ。真剣な眼だ。その動作を一、二度繰り返したのち、ようやく身体をやや屈め、卓上の白磁を右手でつかんで裏をひっくり返し小さく頷くと、すぐに袱紗の上に戻した。ぼくは固唾をのんで凝視する。再びお茶を啜ってから宋丸さんは口を開いた。「うん。これは、良いもんだ」よしっ!ぼくは心のなかで叫び、両こぶしに力を入れた。宋丸さんは上体をややそらせ、白磁を遠目から眺めるようにみつめたあと、「良いもんだ」と確認するようにつぶやいた。「ありがとうございます!」横に立っていたReiが両膝を折り曲げ白磁に顔を近づける。「愛らしいモノですね」なかなか良い表現だ。ぼくは満面の笑み。宋丸さんは、お茶のおかわりを告げると、隣りの黒釉碗を手に取った。

 

 これだ、問題は。ぼくはさらに凝視。宋丸さんは、定窯と違って両手に持つと、見込みをじっと見たあと、裏を返し高台部分を確認し、手のひらのなかで元に戻すと、今度は口縁部をぐるぐる回しながら、覗き込むように見込みに眼を近づけた。何やら時間がかかっている。頃合いをみて、ぼくは唾を飲み込み「どういうモノでしょうか?」と訊いた。

 宋丸さんはそれに応えず、ゆっくりと碗を卓の上に置くと、Reiの淹れた新しいお茶に一度口をつけ、再び黒い碗を手にした。そしてやや窓側に寄ると、陽の光にかざすように碗の角度を変えながら顔を動かした。それに応じて器の表面が時おりてかるのが見える。Reiも横で立ったまま、その様子をうかがっている。両手のなかで碗を微妙に動かしながら、宋丸さんは、もさっと言った。「おい、何だか、やたらと擦れてないかよ?」「…はい」そうだ。黒色の碗の見込みには、引っ搔いたような擦れ痕がいくつも入っており、それが結構目立っていてぼくも気になっていたのだ。しかし、それが後から付けたものではなく、本来の自然な状態によるものとぼくは感じていた。宋丸さんも、その擦り傷が気になっているのだろう。

 「うーん」宋丸さんは一つうなったあと、両手でつかんでいた碗の右手をはずした。ぼくは宋丸さんの一挙手一投足に集中する。すると宋丸さんは、はずした右手をいきなり口のなかに入れた。「ん!??」そして、四本の指を口のなかで何度も回すと、べったりと唾(つば)のついたそれを碗の見込みに擦りつけた。「うっ!」ぼくとReiはお互い渋面を交わす。宋丸さんはその動作を五、六度繰り返すと袱紗の上に碗を戻し、見直すようにじっと目を向けた。そして「これで、良くなった」と、カカカと一つ軽快に笑ったあと、ぼくに視線を投げた。「おい、どうだよ。良くなっただろ?」確かに、宋丸さんの唾によって見込みのきつい擦れ痕が抑えられてはいる。しかし…。ぼくは宋丸さんのつばきにまみれた碗を引き寄せる気力がでず、「はあ」と言って宋丸さんをみつめた。すると宋丸さんはにたりと笑い、指を三本立てた。「?!」頭のなかに、前に見たような光景が広がる。そうだ。これは、高麗青磁の小皿を買ったときのしぐさだ。あの時は、確か、300万だった。そうか、よし!買ってもらおう!もはや宋丸さんのつばきに覆われた碗など持ち帰りたくない。ぼくみは乾いた喉を潤すように、残っていたお茶を一気に飲み干すと「お願いします!」と頭を下げた。それに対し宋丸さんは、またカカカと笑い奥に下がっていった。

 「よかったですね!」Reiがしゃがんで近寄る。「うん!」うきうきしながら両膝をしきりと擦っていると、案外早く宋丸さんが戻ってきた。そして、ぼくの前に茶封筒を置いた。「ん?」結構、薄い。「…」「確かめてくれよ」ぼくは封筒のなかの一万円札を数える。30枚あった。なるほど。「30」ということか。了解。大丈夫。充分儲けは出ている。ぬか喜びした自分を反省するように、ぼくは頭の後ろを三度叩いてから、「どうもありがとうございました」と深々と頭を下げた。

 

 「ところで、いったい、これはどこの窯のモノですか?」黒釉碗を前に、乾杯の儀式である瓶のコーラを口に含みながらぼくは訊く。「これかあ」宋丸さんは嬉しそうに笑ったあと、「耀州(ようしゅう)だろう」と言った。「耀州窯ですか」「厄介なモノだな、おい、K君」宋丸さんはコーラをぐびっと一飲みしてから、「あー、面白い」と、カカカと笑った。

 耀州(ようしゅう)窯(よう)とは、宋時代の青磁の名窯として知られているやきもので、オリーブグリーンの釉色が特徴。定窯同様、器面に彫り文様が施されている例が多く、色が深く濃いため、表面と彫られた文様部分に溜まる釉色のグラデーションが最大の見どころとなっている。この碗は、ほとんど青磁しか生産していない耀州窯でつくられた至極稀な黒釉の作品。つまり、たいへんな珍品ということ。したがって、駆け出しのぼくにわかるはずはない。見込みの擦れ痕だが、宋時代になると碗のなかで茶を点(た)てるようになる。この時期茶筅(ちゃせん)の代わりに金属の匙で強くかき混ぜた。これを「撃払(げきふつ)」という。かき回しながら強くうちつけたり(撃)、軽く払いかえす(払)ということからその名が付いたのだが、表面についた幾多の擦り痕はその「撃払」によるもの。つまり、当時についた自然な傷ということである。

 

 コーラを美味しくいただいたあと、ぼくは大きく息を吐き両膝の上に手を置き背筋を伸ばすと、二つ目の大事な目的を切り出した。マダムの件である。

 

 「宋丸さん、実は、知り合いのところに万暦豆彩の馬上杯があるのですが。それについて訊きたくて」宋丸さんの目がじっとぼくを捉えたまましばし留まる。そして、「それは、エリタージュにあるものか?」「えっ!」何とも素早い反応。ぼくは「し、知ってるんですか?」と逆に訊く。「あれはぼくが扱ったモノだからな」やはり、そうか。「あれは名品だ。世に一つしかない。万暦豆彩の馬上杯といったら、あれしかない」宋丸さんは静かに目を閉じた。ぼくは前のめりになり「昭和45年の領収証が入っていて」と言うと、「昭和45年かあ。そうだったなあ。万博の年だった。あの御仁(ごじん)に買ってもらったのは」宋丸さんは懐かしそうに顔を上げる。「それは…、直前に中国から入って来たものではなかったでしょうか?」ぼくはさらに前のめりなって訊く。再び宋丸さんの目が留まる。そして口を開く。「中国?」「はい。中国から仕入れてきたモノじゃなかったですか?」宋丸さんの顔が急に崩れた。「バカなことを言うなよ。ハハハ。あの頃、中国から来るわけないだろ」笑いながら、「あれは、戦前にうちの旦那が扱って。その家から出たモノだ。古い良い箱に入っているよ。仕込みの二重箱で」「そうでしたか」ぼくは少し肩を落とすとお茶に手を伸ばした。話は、また振り出しに戻ったような気がした。

 

 「良かったですね。宋丸さんに認められて」街並みがクリスマス仕様となり始めた銀座通りを歩きながらReiが微笑む。「うん」ぼくは最初の関門をクリアしたことに手応えを感じていた。定窯は、三代目の目利きがあったが、黒釉に関しては、ほぼ勘で買ったようなものだ。素性はわからぬが、贋物ではないような。その程度の勘だ。でも、それが間違いなかったことは、ぼくに大きな自信をもたらせたのである。

 帰り際、ぼくが扉の取っ手を押しかけたところで、いつものように宋丸さんの長話しが始まったが、宋丸さんはその最後にこう言ったのだ。「しかし、K君。香港ていうところは、おい、面白いところだなあ」ぼくはそのフレーズを思い浮かべていた。そうだ。あんなモノがママの店に置き去りにしてあったのだから。ぼくは中国陶磁の奥深さを改めてかみしめていた。

 Reiが横できょろきょろと首を動かした。「どうしたの?」「ねえ、お守りはどこ?」「あっ、鞄のなか」ぼくは背負っていたリュックに指を向ける。「出して」「今?」「そう」Reiが手のひらを差し出す。ぼくはいったん立ち止まって鞄を下に置き、ジッパーを開けお守りを取り出した。再びリュックを肩に掛けると、Reiはぼくの背後にまわり、右サイドにあるフックにお守りを結びつけた。「これで、よし!」Reiは二、三度お守りを軽く叩くと微笑する。「でも、そんなところに付けたら、お守り汚れちゃうぜ。白いんだから」「いいんです」過美なイルミネーションのなかで、Reiの澄んだ笑みが眩しく映る。ぼくは首をねじって小さな白いお守りをみつめた。ひょっとしたら、本当は、このお守りに助けられたのかもしれないと、このときそんな思いが頭をよぎっていた。

 「ねえ、Kさん。もう忙しくないでしょ?」ベージュのアウターの袖口をやや引っ張り上げながらReiは訊いた。「うん。まあね」一瞬マダムの件が頭をかすめる。「じゃあ、映画観に行きません?」「映画?」「はい」「映画かあ。しばらく行ってないなあ」「観たい映画があって」「へえー、いいよ。行こうよ。何?」「三丁目の夕日」「ん!」その瞬間ぼくは顔をしかめた。目を閉じ独り悦に浸っている犬山の顔が、でんと頭に浮かんだからである。「嫌ですか?」と覗き込むReiの目線に「いやいや、大丈夫。行こう!」と、ぼくは気を取り直し元気よく答えた。

 

 マダムからの連絡が入ったのは、それから数日後のことであった。東京に戻ってきたという。ぼくはすぐにSaeに知らせ、エリタージュに伺う日程を決める。三日後の水曜日となった。

 その日マダムは、黒革のハーフコートに身を包み、意を決したような面持ちで現れた。エリタージュの入口で、ぼくはSaeを紹介する。「はじめまして」Saeが笑顔で会釈。「今日はごめんなさい。突然押しかけまして」マダムは、柔らかながら引き締まった笑みをみせ丁寧にお辞儀をした。「どうぞ、こちらです」とSaeは先導しエレベーターで展示室のある3階へ向かう。その間ぼくらは終始無言。張り詰めた空気が周囲を覆う。

 展示室の隣りにある応接間の前に来ると、Saeが「こちらにご用意してあります」とドアノブに手を掛けた。その声を聞き、マダムは小さいが深い息を吐いた。そしてなかへ入る。ソファに囲まれた低いテーブルの上に、色絵の馬上杯が載っているのが目に入るや否や、マダムは足早に駆け寄った。「ああっ!」という声が室内にこだまする。ぼくも近づく。マダムはしゃがんで杯を両手に抱えるように持つと目を潤ませた。「ここに、あったのね」幾度となく吐く息が震えている。Saeが近づいて訊いた。「これ、でしょうか?お探しだったモノは」マダムはそれに答えず、じっと目を閉じ「ああっ!」と再び深い息をもらすと、杯を手にして俯いたまましばらく動かなかった。やがて吐く息が穏やかになると、マダムは瞼を開け、杯を掌(てのひら)のなかで包み込むようにして、少しずつゆっくりと回し始めた。まるで離れ離れになった我が子と再会した母親のような愛おしい眼を浮かべながら。そうなのだ。まったくその通りなのだ。本当に、待ち焦がれていた再会なのだ。マダムの手の温もりが杯に伝わっていく。そのしぐさを、僕とSaeはただじっと見つめていた。やがて、しんみりとSaeがつぶやいた。「よかったわね…」

 

 マダムはしばらくの間、杯を両の掌のなかでなでるように回していた。遠い日の記憶が蘇っているのだろう。ガラスケースのなかで、小さいながらも凛として佇んでいた在りし日の姿を、それが飾られていた居間の風景を、そしてそれを取り巻く家族のひとたちの笑い顔を、マダムは今、思い起こしているのかもしれない。

 

 ぼくが側にしゃがんで「マダム」と優しく声をかけたときであった。杯を見つめていたマダムの眼が突然険しくなったかと思ったら、急に何度も杯を繰り返し回し始めると、赤い花文のところで手をとめ、じっと目を落とし眉根を寄せた。そして言った。「違う」「えっ!」「これとは違う」「どういうことですか?」「違うモノだわ」マダムは信じられないというような顔をして、いったんぼくに目を向けると、すぐに杯に目を戻した。「祖父の持っていた馬上杯は、ここに少し緑色が付いていて」と言って、唐草文様で繋がれた赤い花の左斜め上を指さし、「よく覚えている。ここに、ちょこんと、緑色が飛んでいた。それが可愛くて。でも、これには無い。これじゃない」

 

 ぼくは、テーブルに載っている二つの箱に目を向けた。柾目の細かい桐箱とそれを容れる外箱は、赤茶色をした漆が塗られている。内箱は絹の、外箱は木綿の真田紐で結わいてある。戦前期の日本の箱であった。「これは、容れる箱?」馬上杯の向こうに置いてある箱に目を向けるとマダムは訊いた。「はい」とSaeは答えた。マダムが箱を見つめる。「わたしはまだ小さかったから箱のことまで知らなかったけど、こんな箱があったのなら憶えているはずだわ」「これは、わたしの祖父が1970年に手に入れたモノで、その前の持ち主が戦前期に所有していて、そのときにこのような箱に仕立てたと聞いています」「そう」とマダムは小さな吐息とともに肩を落としてうなだれた。「祖父はこの世に二つとないモノだと言っていたけど、もう一つあったのね」ただ、ぼくはにわかには信じられなかった。E氏も、宋丸さんも、世界で唯一のモノと言っていたわけで。「本当に違いますか?」ぼくは確かめるように訊く。「違うものだわ。それだけは、わかる」マダムのその表情を見てぼくは確信した。宋丸さんの言っていたとおり、この馬上杯は戦前期に日本に将来されたモノであり、そしてもう一点、この世に同じモノが存在するということを。

 

 Saeがそっとマダムの手を取りソファに促した。マダムは腰かけ深く一息つくと、ゆっくりと背もたれに寄かかり身体を沈めた。やがて運ばれてきた紅茶に口をつけると、もう一度杯を見つめて言った。「やっぱり、もう出会えないのかしらね」左手で持ったカップがソーサーに置かれる、そのカタっという音が静かに耳に入った。ぼくはその左手を見つめた。そのときぼくの脳裏に、以前、骨董フェアで鍍金の飛天を逃したときに言ったネエさんの言葉が蘇った。「優れたモノは、絶対になくなったりしない。そして、思い続けると、またいつかきっと巡り合う」そして、宋丸さんが高麗青磁の小皿に向けて言った「百年待ったよ」のフレーズが浮かんだ。

 「マダム、そんなことありません。絶対に出会えます」ぼくの力のこもった声にSaeが続く。「わたしも、そう思います」「ありがとう。わたしもそれを信じているわ」マダムはようやく口元を緩めた。

 

 せっかくだからと言って、マダムは展示室を見て廻った。「どれも素晴らしいわ。オークションなんかに出たら、たいへんな値段になるわね」そして、足を止める。眼の前にあるのは唐三彩の壺。俗に万年壺と呼ばれる作品。胴部の豊かな張りと華麗な色釉が唐文化の華やかさをあらわしている。「わたしは好きだわ。唐三彩」「ぼくも大好きです」白、緑、褐の三色に藍が加わっているこの壺は、釉(うわぐすり)に透明性があって殊(こと)に美しい。Saeも近寄って「わたしもです」と微笑み、「古いものなのに、色が煌びやかで冴えていて、でもやっぱり落ち着いていて」と、マダムに顔を向けた。「どんなところがお好きなんですか?」Saeの問いかけに、マダムはじっと万年壺を見据えてから、「だって…」と発したあとやや間を置き、「自由じゃない」とつぶやくように言った。「自由…?」ぼくはふいをつかれマダムを見やる。「それぞれの色が、思うがままに発色して、それが何の縛りもなく気ままに流れていて。自由だわ」その言葉を聞き、ぼくは三彩をみつめた。清澄な色色が、特段区画されたなかに限って賦されているのではなく、一色一色が口縁部から幾条にも垂らされ、それが裾に向かって自在に流れている。それは時には入り混じり、胴の途中で止まっているものもあれば、底裏まで伸びているものもある。色も二色だったり、このように四色だったり、確かに自由さを奏でている。ぼくは三彩に対して「自由」という発想を持ったことがなかったが、なるほど、言われてみればその通りだ。ただそれが、マダムの口から発せられたことにぼくは重い意味を感じていた。流れている釉色は、淡い部分と濃い部分があり決して一定ではないが、そのためらいのない自然さが、息づくような力になっているようにみえた。横にいるSaeはどんな心境で見つめているのだろうか。ぼくたち三人はそれぞれの思いを胸に、しばらく唐三彩万年壺を見つめていた。

 

 数日後、ぼくはReiと「三丁目の夕日」を観に映画館へ。館内はほぼ満席。よほどヒットしているのだろう。ぼくらはポップコーンとドリンクの置かれたトレイを手に席に座る。先ずは本編迄に、次々と流れる様々な予告編と上映中作品の宣伝画面を目にする。そのなかの「ハリーポッター」シリーズの作品に、ぼくの気はそそられた。「こっちの方が断然オモロいだろうな」と内心そう思ったが、今回はReiのご所望。ぼくはポップコーンをつまみながらぼんやりと筋を追う。東京タワー完成間近、昭和33年の東京下町を舞台に繰り広げられる物語。VFXで当時の街並みがかなりリアルに再現されているのは見事だ。ぼくは話の経過とともについのめりこんでしまい、何と、クライマックスの茶川と淳之介が抱き合うシーンでは、不覚にも涙を流していた。Reiもハンカチを手にし鼻をすする。鑑賞後、ぼくらは歩きながら感想を述べあったが、今日感動の余り涙したことは、犬山には何としても話すまいと思った。鬼の首を取ったかのようなあいつの有頂天顔は見たくもない。

 「ねえ、Kさん」会話が途切れたタイミングを見計らうかのように、Reiが覗くように訊いた。「万暦豆彩の馬上杯って何のこと?」「ああ。うん…」先日の宋丸さんとの会話のなかで、耳にしたと思われる「万暦豆彩馬上杯」。宋丸さんの答えに対しがっかりした、あの時のぼくの反応をみて、Reiは、その日の帰り道あえて尋ねてはこなかったが、やはり気になっていたのだろう。「それが…」と、ぼくは考え込んだ。マダムの一件をReiはどう感じるだろうか。Reiに話したいのはやまやまだったが、事があまりにも大きすぎて、ぼくはどう伝えてよいかまだ整理できずにいた。軽々に口にすることではないし、話すのなら真剣に語り合いたい。「ごめん。まだ、ちょっと、うまく言えなくて…」Reiがにこりと微笑む。「いいの。ごめんなさい。変なこと訊いて」「いや、そんなことなくて」「でも、話したくなったときは、聴かせてください」「うん。もちろん!」一枚の黄金色の落ち葉が、Reiの紺色のコートの肩に舞い降りると、滑るように落下していった。それは藍のなかに流れ込んでいく黄色い釉(うわぐすり)のようにみえた。

 

 翌日、ぼくはLioの店で仕入れた漢時代の緑褐釉蝉炉を携えネエさんの店を訪問した。ネエさんは正月用にディスプレイの模様替えをしている最中。「でも、無事帰って来れてよかったじゃない」香港での出来事は、おおまかネエさんには伝えてあり。つまり、ぼくが所持金を取られたり、筆筒がバカ売れしたりしたことなど。ただ、マダムの一件に関しては喋っていなかった。Reiに対してと同様、ある程度先が見えてから相談しようと思っていたからである。

 応接間で風呂敷包みを解く。現れた蝉炉を見てネエさんがうなった。「へえー、初めて見るわ。確かに、蝉のバーベキューだわ」「でしょ!」「考えてみれば、猿の脳みそも食べる人種だから、これもありね」と笑う。そして、「絶対に、喜ぶ!」とネエさん。「でしょ!」とぼくは再び言った。今、二人の頭のなかでは、これを目にした時の総長の崩れるような恵比寿顔が浮かんでいた。

 出された紅茶を一口飲んだところで携帯が鳴った。出ると犬山だった。「なんだよ」「で、どうだった?」「何が?」「だから、映画の感想だよ」「!?」「良かっただろ?」「…何、言ってんだよ…」「昨日、観に行ったんだろ?」ぼくは激しく頭を回転させた。何故、知っている…。まさか…、Reiと繋がっていることは…、ないよな。無い、それは、絶対無い!「帰り際おまえの姿を見かけてさ」何だ、こいつも昨日行ってたのか。「何やら、お連れさんとご一緒だったから、お声をお掛けしなかったんだけど、さ」嫌な笑い方で続ける。「あの女が、カリスマの娘か?」カリスマの娘?骨董商Z氏のお嬢のMiuを指しているようだ。どうやら、ReiとMiuを勘違いしているらしい。犬山には結構、ReiとかSaeの話しを伝えているはずだが、こいつは女のこととなると、とんと勘が鈍い。「しかし、おまえ、何回観に行くんだよ」「ハハハ、昨日で11回目だ」「飽きれたもんだな」「まあ、年内迄だろうから、あと二、三回は行かんとな。お前ももう一度行け。そして感想聴かせろ。ハハ」と言うなりプツンと電話は切れた。

 「何?犬山君?」ネエさんが訊く。「とんでもなく無意味な電話でしたよ」ぼくが携帯をかざして軽く笑うと、ネエさんがソファに置いた僕のリュックに近づき、「あなた、ずいぶんと可愛らしいものつけてるじゃない?」と白いお守りを手に取りじっと見つめる。そして、さっと僕の方に目を向けた。「これ、どうしたの?」「これですか?」「そう」「もらいました」「…誰から」ぼくはやや間を置いてから、「Reiちゃんに」するとネエさんは目を見開き、「それで、あなたは、どうしたの?」「どうしたのって…、ありがとう、ってお礼を言いましたが…」「それだけ?」「はあ…、まあ」それを聞くなりネエさんは、深く息を吐き目を閉じると俯いて、小刻みに拳をテーブルに打ちつけた。そしてボンと強めに一つ叩くと顔を上げ、「あなたさあ」と睨んだ。「本当に、鈍いわね」「はっ?」ネエさんが詰め寄る。「この神社、知らないの?」「知ってますよ。そのくらい」お守りには「開運厄除」の裏に、神社の名前が書いてあり。「意味よ!」「意味?」「この神社はね、縁結びで、超、有、名、なの!」「…はあ、そうですか…」「はあ、そうですかって?ああー、もう!帰れ!女ごころのわからないやつは!」と言うなりリュックを投げ返すとぼくの背中を押す。「女ごころって?」「いいから、もう!はい、メリークリスマス!」「えっ?」「はい、はい!良いお年をー!」と、ぼくは店から追い出されてしまった。

 

 次の日の朝Saeから、急に時間が空いたのでランチでもしましょうと、誘いの電話をもらった。待ち合わせのレストランで昼食をとった後、Saeは映画でも行かないかと提案。「何観るの?」ぼくの問いに「うん。ハリーポッター」。「いいね!」とぼくは賛同し映画館へ。そこでは、様々な映画が上映されている。ハリーポッターの上映時間はちょうど過ぎたところであった。「なんだ。次の回まで3時間近くか…」Saeが口を尖らせる。「どうする?」「うーん」とSaeは他の映画の上映スケジュールに目を向け考えている。そして「あっ!」と指をさした。ぼくは嫌な予感がした。「わたし、あの映画も観たいと思ってて」まさか…。「ちょうど良かった。あと15分で始まる。あれにしよう!」Saeの指先には「三丁目の夕日」のタイトルが。「ああ、マジかあ…」小さなつぶやきに、「どうしたの?嫌?」その黒い大きな瞳に見つめられ、「いやあ、そういうんじゃなくて」「じゃあ、観ましょうよ。Kさん、しばらく映画観てないんでしょ!」と腕を引っ張られると、「良かったあ、まだ空席ありって出てる」Saeは笑顔でぼくの腕を何度もゆする。まさか、三日で二回観に行くはめになるとは…。

 ぼくは周囲を窺いながら席に着くと、さらに後ろを振り返る。「どうしたの?」「いや、いや、別に、気にしなくて」「何か変ね。そわそわしちゃって。あっ、ひょっとして彼女が観に来てたりとか」「違う、違う。そういう方面のひとではなくて」そしてSaeが尋ねる。「今日、Kさん、いつものリュックじゃないわね」そうだ。リュックにお守りが付いているのを何となく指摘されるのもと思って。「ふふふ。まあ、いいわ。縁結びのお守りは大切にしなきゃね」えっ、知ってるの?目まぐるしい展開に頭が整理されないまま、上映が始まった。にもかかわらず、ぼくはまたしても同じシーンで不覚の涙を流していた。あのテーマソングにやられたのだ。

 上映後、Saeが「ああ、おもしろかった。でもKさんて、意外に感激屋さんなのね」と笑う。「いやあ」ぼくが気まずい顔をして首筋をなでると、「わたし、明日からハワイだから。今日会えてよかったわ」Sae一家は、クリスマスから年始までハワイで過ごすようだ。さすが、ヴイ・アイ・ピー。外の冷たい空気に、Saeはボルドー色のコートの襟を上げて言った。「今年は、いろいろと楽しかったわ。Kさんにも出会えて」その横で、ぼくはジャンバーに手を突っ込んで「うん」と答えた。ここのところ急に冷え込んだせいか、厚着姿の人たちが往来している。乾いた青空にふと目をやりながらぼくは思った。確かに。この2005年は、一生のなかでも忘れ得ぬ一年になるだろうと。

 駅前でSaeが「じゃあ、Kさん。良いお年を」と微笑んだ。ぼくも「良いお年を」と言って軽く手を上げた。その手を再び手をポケットに入れると、ぼくは、人混みに紛れていくSaeの後姿をしばらくみつめていた。雑踏の中で、ボルドー色がいったん止まり振り返る。そして、もう一度「良いお年を!」と、何度も大きく手を振った。そのSaeの姿が、まるで映画のラストシーンのように映った。

 

(第31話につづく 1月13日更新予定です)

唐三彩万年壺 7-8世紀



 

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