骨董商Kの放浪(29)

 帰国して翌日、ぼくは仕入れた品物を部屋のテーブルの上に飾った。葉(イエ)氏のところで買った定窯白磁の碗。現地で見るより一段と輝いて見えるのは気のせいであろうか。いや、気のせいではない。やっぱり良いモノなのだと、ぼくは再確認する。それと、ママから買った黒釉碗。素性はまだ知れぬが、宋時代の雰囲気があって面白い。そして最終日に、Lioのところで手に入れた漢時代の蝉の炉。これはあとで送金をしなければならないが、けっこうな珍品。

 ぼくは独り悦にひたりながら、卓の上に置かれた三点を眺める。そして端に置かれたピンクのリボンに目を向けた。これは、Saeへのプレゼントのガラス玉。ぼくは、その小さな箱と、定窯を鞄に入れた。今日はこれからSaeのところに行くことになっている。展示室に飾られている万暦豆彩の馬上杯が、マダムの祖父の旧蔵品かどうかを確認するためである。

 

 午後一のエリタージュ・ハウスは、ランチタイムということもあり少々賑わっていた。いつものように、バー・カウンターで待っていると、Saeが手を振りながら近づいて来るのが見えた。「おかえりなさい」一週間ぶりであったが、香港での日々があまりにも濃すぎたためか、その笑顔に懐かしさすら覚える。先ずは御礼を述べる。「本当に、ありがとう。まったくみっともない限りで」頭を下げるぼくを、Saeはゆったりとした表情でみつめ、「捨てる神あれば拾う神あり、だったでしょ?」と柔和な笑みを向けた。「うん」ぼくはSaeのあたたかな大きな瞳をみつめた。

 着いた早々所持金を失ったとき、ぼくは呆然自失の状態で、Reiのくれた白いお守りに目が留まった。このときぼくは、Reiの顔を思い浮かべたにもかかわらず、なぜかSaeに電話をしていたのだった。自分でもよくわからなかったが、Saeの悠揚とした雰囲気と、包み込むように発せられる彼女の言葉つきに、ぼくは心の拠り所を求めたのかもしれない。とにもかくにも、Saeに救われたのだ。 

 「これ、つまらないモノだけど」ぼくは鞄の中から、小さな箱を取り出してカウンターに置いた。水色の包装紙の中央で派手に主張しているピンクリボンの蝶々結びを見るや、Saeの大きな目がさらに広がった。「えっ、これ、わたしに?」「うん。何が良いかなと思ったんだけど…。何か気の利いたモノがなくって…」「プレゼント?」「うん!」「嬉しい!」Saeは無邪気な声を上げて両手で箱を取り上げる。「開けていい?」どうぞ、とぼくは手のひらで示す。Saeはニコニコ顔で、リボンを解くと包みを丁寧に開いていく。そして出現した白い革のケースを手にしたまましばし見つめる。真剣な目つきだ。それを見て、「あっ、いや、大したモノじゃないんだ。何か成り行きで」ぼくの一言にSaeが強い眼を向けた。「何でそんなこと言うの?成り行きだなんて。そんな風に言わないで!」「えっ?」「お願いだから…」と、みつめるSaeの眼が若干うるんでいるのを見て、ぼくは、はたと思い出す。そうだ、これは指輪用のケースだった。「ち、違うよ。Saeさん。ちょ、ちょっと、なか、見て!」ぼくは非常に焦る。Saeのきつい眼差しがまだぼくをとらえている。一瞬浮かんだママの顔に舌打ちをして、「早く、なか、開けて!」ようやくSaeが、パかっとケースを開いた。「ん?何、これ?」Saeがつまみ上げる。「それ、中国の古代のガラス」「…」「トンボ玉って言うんだ。紀元前3世紀くらいかな」「…、なあんだ」「ごめん、渋いモノで」「あーん、もう。わたし、勘違いしちゃった。こんなケースに入ってるんだもん」「いや、ごめん。入れるものがなくて、店のひとがそれに入れたんで」ぼくはもう一度ママの顔に舌打ちをした。「そうよねぇ、おっかしい。わたし、てっきりKさんが彼女に振られて、わたしに申し込みにきたのかと思っちゃった」「いや、いや、ぼく、彼女いないし」

 Saeは笑いながら、改めてガラス玉を掌にのせた。そして、「へえー、可愛い」と言うと指でつまみ上げ、「これ、紐で通せるようにつくられているのね」Saeはそれを胸の中央に置いて「どう?」と首を傾げポーズをとった。空色の衣装に群青色が映えている。「カッコいい」ぼくの感想に、Saeはさらに笑みを増す。「アンティーク・ジュエリーやってる知り合いのひとに頼んで、ネックレスに仕立ててもらおうっと」そう言ってガラス玉を箱に戻した。

 「ねえ、Kさん。うちの馬上杯のことで訊きたいことがあるんでしょう?」「うん。そうなんだ」「じゃあ、2階の個室でお茶飲みながら話しましょう」ぼくらは、前に食事をした個室に移動し、出されたケーキと紅茶を飲みながら、話しをすることに。

 

 ぼくは、かいつまんでではあるが、マダムの壮絶な体験談と、文革で奪われた祖父の愛蔵品である万暦豆彩の馬上杯のことを話して聴かせた。話が進むにつれ、徐々にSaeの表情から緩やかさが失われていくのがわかった。一通り聴き終えたSaeはしばらく黙っていたが、紅茶に二度口をつけると静かに口を開いた。「なんて、悲しい話…」Saeはカップの取っ手に指をかけたまま再び黙り込んでしまった。

 「そうなんだ。だから、ここの馬上杯がマダムの祖父のモノなら、マダムのために何とかしたいと思って。だから、いつ頃Saeさんのところに入ったのか知りたくて」「そういうことだったのね。でも、あのあとすぐパパに訊いたら、それは、わたしのおじいさまがずっと前に日本で手に入れたモノだと言ってたわ」「ずっと前?」「そう。戦前くらいって」「本当?」「それは間違いないって。当時の古い箱もあるって」

 マダムの話しによると1966年に奪われたということだから、戦前から日本にあったということが本当なら、年代的に符合しないことになる。「世に唯一点のモノ」マダムの祖父も、そしてE氏も言っていたが、それは違うってことか。

 ぼくが考え込んでいると、「Kさん。まずは、マダムに確認していただきましょうよ」その言葉でぼくはわれに返り、「うん。そうだね」「そうしましょう。わたしも、とても興味ある」マダムは、ぼくらが帰国したあと、もうしばらく香港に留まって来週戻ると言っていた。あとで電話をして段取りを決めよう。

 

 「よしっ!そういうことで」とぼくが立ち上がると、Saeがきょとんとした顔を向ける。「えっ?Kさん。名品見せてくれないの?」その一言で思い出す。「あっ、忘れてた。持ってきたんだ。定窯」Saeには滞在中の電話で、良さ気な定窯をゲットしたと伝えてあり。今日はそれを見せることになっていたのだ。ぼくは鞄のなかから紺色の支那(しな)箱を取り出し、「ジャーン!」と言って白いテーブルカバーの上に置いた。と同時に「わぁー、すてき!」Saeの弾んだ声が耳に入る。場所が場所だけに、何か格好いい、と自賛する。「どう?」「蓮の花の線が伸びやかでいきいきしてて。釉(くすり)も澄んでいて」と言って顔を上げ、「きれい!」。Saeの的確な感想に、ぼくは少々驚きながら、感心する。「うちのもきれいだけど、これもいいわ」Saeのところにも当然定窯白磁があり、これより二回りくらい大きい優美な作品が展示室に飾られている。「いや、こちらのと比べちゃうと、そりゃ、見劣りするよ」そう言うとSaeは目を輝かせて、「でも、吊りケースに入れたら、絶対きれい!」なるほど。確かに、瀟洒な小品が陳列されている中央の吊りケースのなかに並べたら、きっと映える!とぼくは感じた。「ちょっと、パパに訊いてみる」「えっ?ちょ、ちょっと、待って」「どうしたの?」「いや、でも、今日は持ってきただけで、値段も決めてないし…」「大丈夫よ、絶対、パパ気に入るって!」慌てるぼくをよそにSaeは興奮気味に話しを進める。「パパが見てから値段言えばいいじゃない」と言ってSaeは携帯を耳に当てる。瞬間、長い髪がやや宙を舞った。

 まあ、ファーザーが買ってくれるのなら、それはもちろん、喜ばしいことで。しかし、こんなに早く決まるとは、予想外の展開で。値段は…、どうしよう。130万で買っているとはいえ、最低200万は言いたいけど、300万は言い過ぎかなあ。でもそのくらいの価値はありそうだし。まあ、そうか。値段はあとでもいいんだ。口に手を当てて思案しているぼくの横で、Saeが軽快な口調で話し続けている。「うん、うん。…そう、わかった!じゃあ、そう伝えておくわね」と言って電話を切った。と同時に、ぼくの顔が硬直。それを見てSaeは、「Kさん。パパがね、定窯はたくさんあるから、要らないって」「…」「ごめんね」「…、いや、別に。そ、そうだよね。ここ、たくさん、あるしね…。ハハ」ぼくはけっこうがっかりする。Saeは再び定窯を手にすると、「これ、とっても良いモノだから、高く売ってね。何たって、わたしのお金で買ったんだから」と言って、ふふふと笑う。「あっ、そうだ。あとひと月すると、筆筒の代金入るので、そうしたら返せるから」「そういう意味じゃなくて」と、ぼくの口元に手をかざした。「わたしのお金が役に立って、嬉しいの。良かったね。名品買えて」Saeは、口元を左にキュッと上げて微笑んだ。

 

 エリタージュを出ると、あたりはすでに薄暗がり。香港時間に慣れてしまったのか、日の短さに驚かされる。ぼくはいったん家に戻ってから、定窯をクローゼットの奥にしまうと、食事を取ろうと表へ出たところで、犬山の顔が浮かんだ。「そうだ。今日は、あいつのところでご相伴に預かろう。今日あたりは、肉じゃがかな」ぼくは軽い足取りで犬山の家に向かった。

 呼び鈴を鳴らすが、反応がない。いないのか。残念と思ってドアノブを回すと扉が開いた。明かりがついているので、「おーい!」と声を出すが応えがない。「?」いないのかな。ぼくは勝手に入る。右手の台所を横目に六畳の間に入ると、いつものように物が散乱している。「相変わらずだな」ぼくは、部屋の片隅にある座布団を取ると、卓袱(ちゃぶ)台の脇に置いて座った。卓上には、何やら古めかしい本が斜めになって積み重なっている。戦前期のものだろう、和綴じになっている本の一群は、薄いもの、けっこう分厚いもの、大きさも様々、表紙も色とりどり種々あって、それが十冊ほど、おそらく積み重ねた下の本を抜き取ったのであろう、そんな崩れ方をして載っかっていた。「何だよ。今度は、古本か」ぼくはそうつぶやきながら、その内の一冊を手にしてぱらぱらとめくっていたら、ばたんとドアが開き犬山が帰って来た。

 「おう、来てたのか?」「おまえ、無用心だぞ」犬山は、はははと笑いながら、冷蔵庫を開けビールの缶を二つ手にして居間にどかっと座るなり、「いやー、行ってきた、8回目!」と言ってぼくの目の前に缶を置く。「何が?」「映画だ」「映画、行ってたのかよ?」「そうだ」犬山は深い笑みをもらしながら、ビールをひと口飲んでふぅーと息を吐き、「何遍観てもいいな」と首を傾げ目を閉じる。「何なんだよ。何の映画だ?」「なんだ、おまえ、知らないのか?」「だから、何の映画だよ?」「三丁目の夕日だ」「何それ?」「知らないとは、愚かもんだな。大ヒット、上映中だ」そういえば、帰りの機内の映画プログラムのなかにその映画があり、ぼくは概要を読んだことを思い出す。それは、昭和33年の東京の下町を舞台にした「オールウェイズ 三丁目の夕日」というタイトルの映画で、昭和オタクの犬山が、ど真ん中ではまりそうな内容のものであった。「そういえば、飛行機のなかでやってたな」「観たのか?」「観ないよ」「ばかやろう、何やってんだ」不機嫌そうな犬山の顔を見てぼくはあきれる。「8回目って、8回も行ったのか?」「あたりまえだの、クラッカー。ハハハ」「おまえも、相当アホだな」ぼくは手にした古本を戻すと台所を見やり、「飯の支度はこれからか?」と訊く。「おれは、もう食って来たぞ」「なあんだ。ここで何か食べようと思って来たのに」「そうか。まあ、昨日の残り物だが、温め直すか」犬山は立ち上がると台所に向かった。「ろくなものないぞ」「わるいな」「おれも、おまえの土産話訊きたいからな」

 犬山はおかずの入った皿を持ってくると、テーブルの上にある本を素早くどかして、何品かぼくの前に並べた。そのなかに肉じゃがを見つけた僕はにっと微笑んだ。さっそく一口。「うん!」安定感のある旨味だ。ぼくは小刻みに首を上下に動かす。香港で超豪華な食事をして来たが、やはり犬山の肉じゃがにはかなわない、とぼくは称賛の眼差しで肉じゃがを見つめる。と、その向こうに、先ほどまで卓を覆っていた古本が一冊目に入った。犬山が一気に片付けたせいか、これだけが、今にも落ちそうな状態で端に載っている。「いったい何だよ。その古本?」すると犬山は膝を軽く叩き、「あっ、そうだ。おまえがいない間に、ちょっとおもろいことがあってな」と言って立ち上がると四畳半の間に向かった。「ちょっと、来て見ろよ」「何だよ。これから食べようとしてるのに」ポテトサラダの皿にのばした箸を止め、ぼくは仕方なく腰を上げた。

 入ると、犬山の仕事用の机の左手に、小さな空間がつくられていた。和箪笥を50センチほど横にずらして区画された壁に、いつぞやの犬山の祖父(じい)さんの書が記された軸が掛けられおり、その下には奥行き、高さ、ともに30センチほどの木製の台が置かれていた。その台は手製のようで、黒い敷板が載りそこには長さ15センチほどの平たい石のパレットのようなものが飾られている。ちょっとした床の間風に、「何だか床の間みたいだな」ぼくが感想をもらすと、「その通り!」と犬山は指を一本勢いよく立てた。「残念なことに、今日本では床の間が消滅しつつある。おれも祖父さんの書を軸にしたからには、床の間を設えようと思ってな。簡易的ではあるが、つくってみた」ぼくの眼が床飾りの石の板に向く。「ところで、何だよ。この石?」「それだ」と犬山はしゃがんで手にする。「硯だ。古いぞ、唐時代、9世紀だ」犬山は興奮気味に僕に手渡す。

 硯と言っても長方形ではなく、前の部分が曲線を成し左右が後ろに向かって広がる形状。前部の墨の溜まる部分は地につき、後方へ向かって面が斜めに上がっており、下半部には二つの支え脚がつき、側面部は広がるように短く立ち上がっている。右から左へ向けての傾斜が、いかにも墨を擦るのに適した角度になっていることにぼくは気づいた。

 「こんな形、見たことないけど。確かに硯だな」ぼくの答えを受けて犬山は解説。「これは、鳳池硯(ほうちけん)という。正面が“鳳”の字にかたどられていて、背面に二本の足が施されていることから、そう呼ばれている硯だ」なるほど。言われてみれば、上から見ると全体のラインが鳳の字形を描いている。側面部の広がりも鳥の羽のようで、二本の脚部も鳥の足にみえる。「鳳池硯は、古い時代にしかない硯だ」その言葉を受けてぼくは硯に目を落とす。墨池と墨堂(墨を擦るところ)を明確に分ける一線と、薄く仕上げられた造りが鋭さを放っていて、古いながらも新しさを覚えた。「モダンだな」ぼくの発した一言に、犬山は一瞬驚いたように目を丸くした。「おまえ、知らない間にずいぶんと目利きになったんじゃないか?」そう言うと、ぼくの手から硯を取り敷板の上に戻した。

 「しかし、よくそんなもんが手に入ったな」ぼくの問いに犬山はニヤリと歯をみせ、机の上に置いてある本を掴んだ。「それで、これだ」それは、先ほど卓袱台を覆っていた古本と同様のものだった。ぼくはめくっていた頁を思い浮かべる。古いモノクロ写真で、掛軸や茶碗、茶入などの茶道具類が載っていた。「戦前の何かの図録か?」「大正14年の入札図録だ」「…?」反応の薄いぼくを見て、犬山は含み笑いをしながら鳳池硯を指さした。「掘り出しだ。ハハ」そのしたり顔を見て、さっぱり意味はわからなかったが、話が長くなりそうなことだけはわかった。ぼくはげんなりとした顔で卓袱台に目を向ける。その姿を見て「そうか、そうか。まあ、食え。おまえは食いながら聴け」犬山は図録を手にし、ぼくを卓袱台へと促した。ぼくがようやくポテトサラダを口に入れるやさっそく、犬山の話しが始まった。

 

 犬山がこの硯を手に入れたのは二週間前の日曜日のこと。中央区の神社で毎月一回開かれる骨董市に出向いたとき、雑多な古道具に混じってこの硯があり、それを見た瞬間に買おうと思ったそうだ。「ビビっときたね。ただモノじゃないってことがね。ハハ」こういうときは、小憎らしいほど自慢気な笑みをみせる。そして、その箱を見て確信したという。この硯はどうやら、明治の著名な元勲の持ち物だったらしいことを。当時の政治家は少なからず文人趣味があり、優れた文房具を集めたことは知られているが、これもそうしたモノの一つ。箱の上蓋裏には、この硯に関しての解説文のようなものが、後の所有者の自筆で墨書きされているとのこと。それによると、これはその元勲の旧蔵品で、世に珍しくはなはだ貴重なモノである、という内容のようだ。そこで犬山は、この元勲がたいそうな古美術蒐集家であったことを知り、それから調べに調べた。

 「そこで行き着いたのが、この売立図録だ」と言って褪せた紫色の表紙を数回叩いた。表紙の貼紙に元勲の名前と「御所蔵品入札」の文字が書かれている。「これに出ている」と犬山はまたもや自慢気な顔つき。「出ていると良いのか?」「出ているのと出ていないのとでは、評価が大きく違ってくる」犬山は、ビールを勢いよく一飲みすると、目をしばたいてぐいと身を乗り出した。「骨董品は来歴が重要だ。贋物が山ほどある。本物の証明の一つとなるのが、こういった売立図録だ」

 

 売立図録とは、明治後半期から大正、昭和戦前期にかけて、東京、大阪、京都などの美術俱楽部で頻繁におこなわれた「入札(にゅうさつ)会」と呼ぶ売立をするときにつくられたもの。この時期、旧大名家や華族らが、財政難により代々受け継いだ所蔵品を手離す事態が相次いで起こった。その売立が美術商たちの組織である美術俱楽部で開催され、当時の数寄者たちがこぞって買入れたのである。由緒正しい名家の御蔵に深く眠っていたモノから、明治の新興成金たちが集めたコレクションが、この時期に一斉に市場に流入しとことで美術市場は活況を呈し、こうした売立会が毎週のように行われた。その重要なアイテムが売立図録なのである。規模が大きくなるほど名品が多々出品されるので、おのずとそれは分厚くなり、装丁も立派になる。ぼくは数日前のオークション図録を思い浮かべた。

 見るとその元勲の売立図録は、結構な厚味があり、表紙の紫に金銀で折枝文が散りばめられていて、その名に恥じない豪勢な設えをしていた。めくってみると、最初の方にある中国古画や名物茶碗などは原色刷りとなっており、この時期にしてはかなりの豪華版だ。ぼくは感心しながら一枚一枚めくっていく。「ところで、どこに出てんだよ、その硯?」犬山は僕から図録をとりあげると、かなり左の方に指を入れ一気に右に動かし頁を開いてから、「これだ」と示した。そこには中国の墨や紫檀の筆筒など5点が一緒に載っている。皆小さなモノクロ写真だ。犬山の指すところに目を近づけると、先ほど見た硯のようなモノがあった。「本当にこれかよ?」決して鮮明でない小さな写真に訝しんで問うと、「間違いない!」と犬山はさした指に力を込めた。「鳳池硯は、そうないからな」とまた自慢気に頬を緩めた。

 

 そのあとぼくは、大正時代の売立がいかに盛大であったかという、長たらしい犬山の話しに聞き耳をたてつつ食事をしながら、側にあったB5版ほどの小さな売立図録をめくっていたところ、見覚えのあるモノに目が留まった。「これ、国宝の曜変天目じゃない?」「おう、そうだ。誰でも知ってる曜変だ」犬山の反応を受けながら、以前世田谷の美術館でこの茶碗を見たことを思い出していた。あれは、あいちゃんとMiuが来ていたときだ。すると、MiuとZ氏の癒しの笑みが目に浮かんだ。そうだな、今度また寄ってみよう。そう思って図録に目を落とすと、写真の下に何やら数字が書き込まれていることを知る。

 「これって、売れた金額?」ぼくが指し示すと犬山は即座に反応。「そうだ。落札額だ。売立図録にはそうした数字が記されているのが間々ある。参加した美術商らが書いたのだろう」なるほど。先日ぼくもオークションカタログに落札額を書いた。今も昔も一緒だ、とぼくは薄く褪せた万年筆の跡を見る。「16万7000」とある。「16万7千円か」つぶやくぼくに、「すごい値段だ」と犬山は腕を組んでうなった。「今でいうと、いくらくらいなのかな?」それに対し犬山は上目遣いで考えてから、「大正7年の16万は、今でいうと、うーん、16憶くらいかね」と二、三度首肯したあと、「まあ、おまえには、まったく縁のない金額だけどな」と顔を近づけ笑うと、空いた皿を手にして台所へ向かった。

 16憶か…。この間の「成化豆彩杯」くらいか。今も昔も同じだな、と少し考えてから「しかしあながち、縁のない数字でもないかも」と、片づけをしている犬山の後姿に目をやりながら、ぼくはふとそう思った。

 

 家に帰り、これから寝ようかと横になったとき携帯が鳴った。Saeからだった。「ごめんね。おそくに」「全然。どうしたの?」「うん。例の馬上杯の件、少しわかったからすぐ知らせようと思って」ぼくは跳ね起きた。ちょっと間を置いてからSaeは喋った。「前に言ったでしょ。古くにおじいさまが買ったって」「うん」「パパが帰って来てから箱を調べたら、なかにそのときの領収書が入ってて。昭和45年の日付」「戦前じゃなかったの?」「みたい。京橋にあった老舗の名前が書いてある」その名前を聞いたとき、ぼくはどこかで耳にしたような気がしていた。記憶を辿り、思い出す。そうだ。宋丸さんの勤めていた古美術店だ。昭和45年というと1970年。1966年に奪われたのだから、そのあとすぐに日本に入ってきたのだとしたら…。可能性はある。「もしもし、Kさん、もしもし」Saeの声にわれに返り、「ありがとう。また連絡するよ」と電話を切った。ぼくは再び横になり天井を見上げた。マダムの一件が、確実に動き出しているように感じていた。

 

(第30話につづく 12月29日更新予定です)

鳳池硯 唐時代(9世紀)



 

 

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