――2006年5月15日。忘れることのできない一日が始まった。
ぼくはこの日のために新調した濃紺のスーツに白いストライプの入った水色のネクタイをしめ、まだちょっと早いかなと思ったが、Saeたちのホテルへと向かうため表へ出た。ひんやりとした空気を感じたが、空は青く澄んでいる。ポプラ並木の続く公園のなかの遊歩道を歩くと、両脇から目に入ってくるライトグリーンの芝が、朝の光を吸い込んで今日はいちだんと鮮やかにみえた。ロンドンに来て初めてといってよい爽やかな朝だった。
ホテルのロビーでは、すでにSaeとマダムが待っていた。Saeは黒を基調としたチェック柄のスーツに水玉模様のピンクのスカーフを首に巻いている。マダムは、トレンチコートの下にチャイナドレス。その左胸上に翡翠のブローチを飾っている。初めて会ったとき、Saeの家で馬上杯を見にきたときと同じ装いであった。集合時間は9時半だったが、皆気が入っているのだろう、早々の準備万端に「まだ早いけど、行きましょうか」のSaeの一言で、ばくらは出発した。
セールの開始時間は10時。会場はB社三階のセールルーム。ここから歩いて10分もかからない。B社までの道々、ぼくらは特段交わす言葉もなく淡々と進んだ。そして、B社入口の二階に吊り下げられているユニオンジャックを見上げたとき、ぼくは急に武者震いのようなものに襲われた。ぼくがふたりをみつめると、彼女たちも同じタイミングで目を合わせてきた。いざ出陣という顔つきでうなずき合ってから、ぼくらは玄関を通りエレベーターで三階へ向かった。
会場は既に設営がなされていた。香港ほどの広さではなかったが、百数十名ほどが座れる年代物の椅子が整然と並んでいる。ぼくらが一番乗りだったようで、他にはまだ誰も来ていない。ステージの中央には、オークショニアが立つロストラムという木製の台が置かれていたが、これはかなり長い間使用されてきたものだろう、歴史と格式を思わせるに充分な重々しい雰囲気を放っていた。
「おはようございます」Xiaがにこりと頭を下げて現れた。手にはパドルが握られている。「おはようございます」ぼくらも声を揃え挨拶をする。Xiaは持っていたパドルをマダムに手渡した。もちろん今日はマダムが競るのである。取っ手のついたパドルの中央には、「17」の数字が書かれていた。
「番号って、決まってるんですか?」興味本位でぼくが訊く。「特にはないですが、お好きな番号を選ぶこともできます」Xiaの返答にマダムが微笑んだ。「この17番は、わたしの選んだ数字なの」「なにか意味があるんですか?」Saeが訊く。「昔、家族が北京に住んでいた番地なの。17番地。わたしたちの家だけが、17番地だったのよ。だから、縁起を担いで、それにしたの」Xiaが「そうだったんですか」とうなずきながら、マダムの側に近づいた。「素敵なドレスですね」今日マダムは、明るい紫地に白、黄色、赤の花の切枝柄をあしらったシルクのチャイナドレスに身を包んでいた。「それに、すごい翡翠のブローチ」Xiaが眼を丸める。「20キャラはあるかしら?」「そうねぇ……、母の形見なのよ」「そうなんですか」Xiaは惚れ惚れとみるように首を少し傾けた。その話は聞いたことがなかったが、Saeもそのようだった。「お母さまの形見だったんですね」マダムは「そう」と答えた後、バッグから黄色いお守りを二つ取り出した。ママとマダムの絆である。「――今日は、総動員ね」マダムは皆の顔をみるとにこりと微笑み、まだ誰もいない椅子の上にパドルを丁寧に置いた。
開始10分前になると、会場内は人びとの声で賑わい始めた。設置された椅子も空席がどんどん埋まっていくと同時に、中国語が方々から聞こえるようになった。遠隔地ということもあり香港のような大人数ということはなかったが、それでもよく見るディーラーの顔がちらほらとあった。あとは、電話でビッドするのだろう、Xiaの他にも中国人のスタッフが7~8名テレフォン・ビッド・デスクに配備されていた。
椅子に座りカタログにもう一度目を通していると、軽く肩を叩かれた。栗色の長い髪のなかで、切れ長の綺麗な眼がぼくをみつめている。Lioである。「グッ・モーニング」と笑顔で挨拶され、ぼくもにこりと返す。昨日までの下見の様子では、確実に馬上杯を競ってくるにちがいない強敵の一人である。Lioもおそらくそう思っているだろう。ライバルの顔色を窺いにきたのか、単に挨拶にきたのか、ぼくはLioの自然体の笑顔をみていろいろ思考を巡らせた。――やはり、間違いなくぼくらの雰囲気を察しにきたのにちがいない。馬上杯の頁ではなかったが、手のなかのカタログを何か覗かれているような気がして、ぼくは身をよじりそれを隠すようにして硬い笑みをつくった。するとLioは図録ではなくぼくの顔をじっとみつめて言った。「馬上杯、とても魅力的なモノでした」「あっ、は、はぁ……」当惑気味のぼくに向かい、「頑張りましょう」と不思議なほど爽やかな笑みをみせて後ろの席に戻っていった。
「宣戦布告ね」マダムを挟んで左側に座っているSaeがそう言った。ぼくはLioを振り返りながら、場内の様子に目を配った。Lioは一番後ろの席に荷物を置いていたが、香港のときと同じようにステージの正面に図録を胸に抱えて立っていた。中央の通路を挟んで左右対称に席はつくられていたが、テレフォン・デスクは左側だけ二段に設けられ、それぞれ10台ずつ計20の電話機が設置されていた。ぼくらの席は、そのテレフォン・デスクのある向かって左側やや後方で、その列の一番右端、つまり通路側がぼく、その左にマダム、そしてSaeである。マダムを挟んでふたりが座る。中央の通り沿いなので、オークショニアからはよく見える場所であり、電話ビッドもつぶさに観察できる絶好のポジションであった。ぼくらとは逆側の右端にDの姿が見えた。今日も濃紺のスマートなスーツですっきりとしたなりをしている。ダークグレーのスーツに白いポケットチーフのボロウが、椅子に腰かけずにうろうろと往来しながら、手の空(す)いているヴァイスプレジデントに近づいては、何やら意味ありげに笑いながら話しかけている。ギルはというと、まだ来ていないようだ。元染に合わせて登場してくるのかもしれない。前列あたりは中国人の集団が占拠しており、大きな声で談笑しながら開始時間を待っている。
ぼくの腕時計が10時を示そうとしていた。会場はほぼ満席で、右側奥と正面後方のスペースには座りきれない、もしくは事の成り行きを観察するためあえて座らないのか、主にディーラーと思しき十数人が立っている。ぼくはカタログの表紙にある漢宮秋の壺に目を落とした。いったいいくらになるのか。今回の出品物は正直特に目立ったモノはなかったので、ここにいるひとたちのほとんどが、漢宮秋の落札額に注目していることは疑いのないことであった。表紙にある壮麗な衣装を纏った王昭君の沈鬱な表情をみつめていると、ステージの右の端から音がした。みると、中央のロストラムへ向かって英国紳士がゆっくりと歩いている。昨日挨拶をしたB社のチェアマンだった。チェアマンが重厚な木製の机の上に手をかけると、一気に場内が水をうったようにしんとなった。
「チェアマン自ら、オークショニアをするのね」Saeが驚いたように声を漏らした。「珍しいわ」――オークションハウスには、部門ごとに資格を持ったオークショニアが何人かおり、彼らがその役割を担うことになっている。ロンドンにもこうしたスペシャリストがいるにもかかわらず、チャアマン自らがその任を務めるということは、いかに今日のセール――つまりは元青花壺の売上高に重きを置いているかがわかる。
銀髪の紳士のゆったりとした口調で発せられた「レディース・アンド・ジェントルメン――」の、フォーマルなイベントの開始を告げる常套句によって、オークションは幕を切って落とされた。チェアマンは、大きな鼈甲縁の眼鏡に手を添え手許の資料を確認すると、「ロット・ナンバー・ワン」と述べた。と同時に、ステージの右に設置された回転式の陳列台が動き、重厚な紺色のベルベッドの台座に載せられた新石器時代の彩陶(さいとう)と呼ばれる土器が現れた。背景の高く白い壁面が、作品を際立たせている。香港では、後方のスクリーンに作品の写真画像が映し出されたが、ここでは近代的な方式がまだ導入されていないのか、従来のやり方を尊重してむしろ採用していないのか、そのあたりはわからなかったが、競りの度ごとに目の前に生の作品が登場するのは、買い手の奮起を促す効果はあるように思われた。プライスは香港同様左手のスクリーンに表示され、一番上に大きくあらわされたポンドの下には、主要八カ国の通貨が示されており、日本円は上から5番目であった。最初の作品の落札額からレートを換算すると、1ポンド207円で計算されている。表示額はハンマー・プライスで、実際の支払い金額はこの1.2倍である。
出だしは高額な品物もなく、ほとんど売れてはいたがエスティメートの範囲内であった。したがって、順調に時を刻んだかのような進み具合だった。その様相に変化が現れたのは、ロット30番の北宋時代「青白磁刻花鉢(せいはくじこっかはち)」が始まったときであった。テレフォン・ビッド・デスクに配されたスタッフ全員が、各自手前の電話機を取ったのである。これは、この5番後に登場する最大の目玉、元青花壺のビッドに向けてのものであった。電話ビッドは、その競りの5番前になると担当者が先方に連絡を入れ、状況を報告しながら順番を待つというのがほとんどであった。デスクにある20台の電話が一斉に取られる異様な光景をみて、ぼくの胸も自然と高まった。その中央に座っているXiaも、受話器を片手に話をしていた。チャアマンのハンマーが叩かれ落札額が確定するごとに、ぼくは手許のカタログに赤いペンで数字を記していたが、近づくにつれだんだんと気もそぞろになり、競りの状況に身が入らず、ハンマーの音を聞いてから慌てて数字を書き入れるという具合であった。
そして、前ロットがあっという間終わり、ロット35番がやってきた。場内は開始時よりずいぶんとひとが増え、右手側には連なるような人垣ができていた。そこからも、また他のところからも、もうすでにざわつきが始まっていた。チェアマンがいったんコップの水を口に含み会場を見回してから、「ロット・ナンバー、サーティ・ファイブ」と言った。陳列台が回り、元青花漢宮秋図壺が気高いオーラとともに現れた。これまでの作品とは明らかに異なり、超然とした気風を纏っている。――評価額は、250~300万ポンド。本日のレートで、5億1千7百万円~6億2千1百万円。
すぐに開始をせず、チェアマンが壺に手をさし向け、何やら話をし始めた。細かい内容まで聞き取れなかったが、これがいかに名品であるかの説明をしているのだろう。これは、緊張の昂まりを落ち着かせるためか、それともあおるためなのか、あえて入れた勝負の前の一呼吸にも思えた。
そして、「――スリー・ミリオン・パウンズ(£3,000,000)」と静かながら強い口調で発した。それを聞き会場がどよめく。たいていの作品は、評価額の下限のやや下あたりから始まるのが通例である。低い値段から始まる方が、競り者(bidder)の参加がしやすくなり、流れに乗って額が高くなることも間々あるからである。それがいきなり、評価額の上限からのスタートだった。それはすなわち、多くの注文がすでに上限額を超えていることを意味していた。
会場から、電話から、複数の手があがった。パドルの応酬に価格は短い時間で、500万ポンドをあっさりと超えていった。日本円では、早くも10億を超えている。ぼくはXiaをみつめていた。受話器に語りかけているが、まだパドルを掲げていない。会場内の中国人二人と電話の三人が、かわるがわるビッドを繰り返していた。電話の内の一人は、ヴァイスプレジデントの英国人である。チャアマンは丁寧に目を配り金額を確認しながら、ビッドをしたひとに向け右手をさし向けている。その数字が1000万ポンドになったところで、ついに競り者は、ヴァイスプレジデントの電話と会場内の中国人の二人となった。
「――テン・ミリオン・パウンズ(£10,000,000)」チェアマンの声が場内に響く。日本円の表示は、「JP¥2,070,000,000」。もう少しで、最高記録の23億円に達する。「――テン・ミリオン」とチェアマンは数字を繰り返すと、その権利を持った電話へ向けて手で合図をし、それから前列の中国人に目をやった。前列に陣取った5人のうちの一人が競っているようだ。ひょっとしたら彼らの「乗り」かもしれない。それぞれが話していながら時間をかけているようにみえる。やがて、ひとりが手をあげた。チャアマンがうなずく。「サンキュウ」そして、「イレブン・ミリオン・パウンズ(£11,000,000)」と言った。価格表示が動く。日本円のところを見ると、「2,277,000,000」となった。22億7千7百万円。手数料を入れると、27億円を超えている。
チャアマンが、今度はヴァイスプレジデントの電話に顔を移した。「ネックスト。――トゥエルブ・ミリオン(12,000,000)」次の価格を提示する。ヴァイスプレジデントは小刻みに頷きながら、受話器を片手にしきりと話をしている。やや間があったのち、チェアマンが微笑みかけるように言った。「トゥエルブ・ミリオン? ポール?」ポールと呼ばれたヴァイスプレジデントは、左手を前に水平にかかげた。ちょっと、待ってのポーズである。その間ポールは捲し立てるように口を動かしている。もう1ビッドで、記録更新の数字であった。ここまで来ると、時間がかかるのは仕方のないことだろう。チャアマンも沈着冷静な笑みを浮かべそれをみつめている。ポールの口数が少なくなった。手は水平に保たれたままである。やがて、ポールは数度大きく頷いたあと顔を緩め、手を水平に切るような仕草をし競りの終了を示した。それを見てチャアマンがゆったりとうなずいた。「――サンキュウ、ポール」そして、会場内に向け、「イレブン・ミリオン・パウンズ(£11,000,000)」と言った。
――ついに新記録ならずかあ、とぼくは少々残念に思った。チェアマンが前方にいる中国人に手を向け、「――イレブン・ミリオン・パウンズ」ともう一度数字の確認をした。そして、会場をぐるりと見回す。すべての電話はまだ繋がっていた。降参したひとたちも事の成り行きを知りたいのだろう、スタッフが受話器に向かって話しを続けている。チェアマンが少し間をおいて、再び「――イレブン・ミリオン・パウンズ(£11,000,000)」と発した。それを聞いてから、電話の一人が、「――ビッデイング!」と手をあげた。Xiaであった。よく通った高く綺麗な声の方向へ、皆の視線が一斉に動く。チャアマンが指をさす。「サンキュウ、シア。――トゥエルブ・ミリオン・パウンズ(£12,000,000)」プライス表示が動く。日本円で、24億8千4百万円。ついに記録更新だ。周りがどよめいた。背筋をぴんと伸ばしてチャアマンを正視しているXiaの姿は、満を持してのビッドのようにみえた。――このときぼくは、ついに上海のウー氏が来たのだと思った。
しかし、ここからが本当の勝負だった。前列の中国人が「――ファイブ」と手をあげた。「12,500,000ポンド」それから、50万ポンドずつ値が吊りあがっていく。つまり、一度ビッドするごとに、約1億円を超える額が上積みされていくのである。まじかよ……と、ぼくはその一対一の攻防を、固唾を吞んでみつめた。前列の中国人グループは、依然として同じように言葉を交わし合いながら時間をかけ、最終的には真ん中の一人が手をあげている。Xiaはオークショニアにまっすぐ身体を向けたまま、よどみない会話をしているかのような口ぶりで一定の時間が経つと、「――ビッデイング」と細い腕を伸ばした。
スタートから20分ほどが経過した。50万ポンドのやりとりは、「14,000,000」に達していた。日本円で「2,898,000,000」。手数料を加算すると、30億円を優に超える驚異的な金額である。その1400万ポンドの権利を持ったのは、Xiaの電話だった。
チャアマンは、上半身を軽く揺らして体勢を整えると、デスクに肘をのせ少し屈んだ状態で、前方の中国人の集団に話しかけるようなしぐさで問いかけた。「ワン・モア・ファイブ?」何人かが首を捻っているのがみえた。金額的にもかなりきついところなのだろう。そのうちの一人は先ほどからずっと携帯電話を手に話をしている。他にも「乗り」の仲間がいるのか、金主と直接やりとりしているのか、携帯電話の指示に従うようなそぶりを皆がみせていた。やがて時間をかけながらも、パドルを持っている一人がようやく手をあげた。「サンキュウ。――フォーティーン・ポイント・ファイブ・ミリオン・パウンズ(£14,500,000)」ついにハンマー・プライスで、30億円を超えた。ワン・ビッドするごとに、会場のどよめきは増していく。そして今度は、皆の視線がXiaに注がれた。Xiaは体勢を崩さずチャアマンを見据えたまま同じリズムで口を動かしている。次は、1500万ポンドである。チャアマンが笑みを浮かべながら、落ち着き払った物言いで、「ネックスト。――フィフティーン・ミリオン・パウンズ、シア」と彼女に向かい手をさし出した。
それに対しXiaは二三度うなずきながら、右手を水平にかざした。観衆は皆、その右手の行方に注目をする。左手で受話器を持っているので、こちらからXiaの口の動きがよくわかる。それは特に早口になっているわけでもなく、気負っているわけでもなく、いたって冷静な口調で会話がおこなわれているようにみえた。おそらくビッドするだろうと思われたが、これまでより時間を要している。
「ワン・モア。シア?」チャアマンが優しく問いかける。Xiaはまだ手を水平に保ったままである。Xiaの口の動きが止まり若干うつむいた。――えっ、降参? と思ったとき、Xiaがひとつ首を縦に振ってから、右手をすっとあげた。「――ビッデイング!」その細い腕がしなやかに伸びあがる動作には、威風すら感じさせた。
前列の中国人たちをみると、いつの間にかもう一台携帯電話が増えており、二つの携帯で忙しそうにお互いが声を出しあっている。それぞれ意見が分かれているのか、首を横に振る者もあれば携帯を片手にしきりと頷いている者もあり、かなり時間がかかっている。チェアマンが乗り出すように、「――ノオ?」と問いかけた。それを無視するようにお互いが喋っている。ぼくはその間ステージの飾り台に載っている漢宮秋の壺をみつめていた。心なしか、王昭君の顔が和らいだような気がした。
――やがて、決断が下された。真ん中のパドルをもった一人が、首と手を左右に振った。あきらめたのである。それをみたチャアマンが柔和に微笑み「サンキュウ、サー」と敬意を払うと前を向き、「――フィフティーン・ミリオン・パウンズ(£15,000,000)」と低いながら強い口調で言った。もう一度数字を繰り返しながら周囲をみまわす。誰も反応しないのを見て、チャアマンは初めて掌におさまる小ぶりなハンマーに手をかけた。そして、叩いた。「コァーン!」という、今日一番の甲高い音が場内に響きわたった。同時に場内から割れんばかりの大きな拍手が沸き起こった。何人もの人びとが立ち上がり、感嘆の声をあげ称賛している。中国古美術品のレコード・プライスが表示されているスクリーンを携帯電話で撮影しているひともいる。――1500万ポンド。日本円にして31億。手数料を入れると、実に37億円を超える驚愕の数字である。
「とんでもない金額になったわね……」Saeは表示板を睨むようにして言った。昨日のXiaの台詞が、彼女の表情をこわばらせているように感じた。――「電話ビッドのうちの1件は、強いビッドをしてくる可能性は高いです……」。隣にいるマダムが「はあぁー」と、はっきりと聞こえるため息を漏らした。マダムもまた、この最高値に恐怖を感じているようだった。
興奮は、しばらく冷めやらなかった。そのがやがやとしている人ごみのなかから一人、背を丸めたスーツ姿の老人が離れていくのがみえた。ギルであった。微笑んでいるのか、驚いているのか、何も浮かべていないのか、ここからではその表情まで窺うことはできなかったが、その後姿は、なにか誇らし気にみえた。――――傘立てが、31億円……。これもまた、「骨董」なのである。ギルは湾曲した背中を伸び上がらせるようにして、悠然と遠ざかっていった。
チャアマンの緩やかな声で再び競りが開始された。そのあとはかかる時間も一定で着々と落札されていき、40分ほどでロット75番の馬上杯まで、あと5ロットのところまできた。すると、テレフォン・デスクに動きが出た。5台の電話機がスタッフの手にゆだねられたのである。すべてが馬上杯に参加するためではないだろうが、このタイミングで電話を準備しているところをみると、可能性は高い。昨日の終了時では、3件の電話ビッドが入っているとXiaは言っていたが、寸前に増えたのかもしれない。そして、5台繋がっているなかには、Xiaの姿があった。それをみて、ぼくは急に緊張が走り唇をぐっとかみしめた。ロット71番があっけなく終わると、ぼくはいてもたってもいられなくなり、カタログに落札額を書きうつす手が止まってしまった。Saeもマダムも、図録を閉じて陳列台の方を見やっている。やがて、74番が始まった。「――いよいよね」とSaeが低い声をこぼした。ぼくは先に馬上杯の頁を開いて時を待った。
始まってから、ちょうど2時間が経過している。ぼくの腕時計は12時をさしていた。――「ロット・ナンバー、セブンティ・ファイブ」声を出しながら、チェアマンがジャケットの中央の浅いグリーンのネクタイを締め直した。回転台が動き、小さな可憐な杯が姿を現した。それをみて、マダムがハンドバッグのなかからひとつ黄色いお守りを取り出して膝の上に置いた。これは香港ママからのものだろう。そこに左手を添えて右手でパドルの取っ手を握る。Saeもその様子をちらりと窺っている。チェアマンは会場内に目を配ると、「――テン・サウザント(10,000)」と声を発した。その静かな一声で、馬上杯の競りが始まった。これは評価額の下限である。ぼくは即座に会場内を見回した。何人かのパドルがあがっている。正面後方に立っているLioも図録をかかえながら、掌を広げていた。
金額は、その後飛ぶこともなく、£2,000ポンドずつあがり、ほどなくして、£50,000となった。日本円で、1000万を超えた。5人ほど競っていたが、5万ポンドの声を聞きビッダーはぐっと減り、電話とLioの二人になった。ビッドが進むにつれ、パドルを握っているマダムの右手に力が入り、甲の傷痕が鮮明にぼくの目に映った。やがて電話が降り、会場内のLioだけとなった。Lioはこちらに目を向けず、いつものように軽く手を開いてオークショニアの定めた値段に応えている。画面表示の額は、「£80,000」となっている。日本円では「16,560,000」で、コミッションを入れると、2000万近くになる。マダムが用意できる3000万まではまだ余裕があったが、相手はLioであり、またこれから電話ビッドが参加するだろうことを考えると、まったく気が抜けない状態だった。
「――エイティ・サウザント・パウンズ(£80,000)」チャアマンが一度会場を見渡す。それをみてSaeが言った。「――いきましょうか」その合図で、マダムが深呼吸を一度したあとパドルをあげた。右側で立っている会場係がこちらに手をさし、「ビッデイング!」と叫んだ。チャアマンがこちらに顔を向ける。「サンキュウ。――エイティ・ファイブ(85,000)」。スクリーンの表示が変わる。日本円で「17,595,000」。今まで2000ポンドで推移していた加算額が、8万を超えると5000になるようだ。――つまりワン・ビッドすると、100万円強が自動的に上積みされる。
チャアマンがLioに視線を向けた。「ネックスト。――ナインティ(90,000)」Lioはこちらには目を向けずに、パドルを胸に抱え左手を顎に据え考えている。「――ナインティ?」再度の促しにLioはじっと正面を向いたままであったが、やがて顎にあてていた左手をぱっと開いた。「――サンキュウ」チェアマンはいったんLioに微笑むと、こちらに同じような笑みを向けた。「――ナインティ・ファイブ(95,000)?」あまり間を置かず、マダムがパドルをあげた。「サンキュウ。――ナインティ・ファイブ」。
ビッドの仕方はひとそれぞれである。最初はパドルをあげ、二回目から手を使って合図をしたり、うなずいたりするのが一般的であるが、欧米人の常連のなかには、オークショニアと目が合うと、親指だけを立てたり、片目をつぶってビッドの意思を示すひともいる。周りから競っているのを悟られないようにするやり方である。しかし、こうしたしぐさに慣れていないマダムは、17の数字の書かれたパドルをその度ごとに、オークショニアに向けはっきりとわかるように高く掲げていた。
「――ワン・ハンドレッド(100,000)?」この言葉を、チェアマンは長い間を置いてから二度Lioに投げた。二度目の問いかけで、Lioは顎にあてていた左手をこめかみに移し、少し首を傾けた。かなり迷っているようだ。――ここで降りてくれたら有り難い、と思った。今のところ電話の動きもない。彼らは皆喋ってはいるが、参加をするというより相手に状況を説明しているだけのような気がした。なので、ひょっとしたらこれで決まるかもしれない――。ぼくは期待した。Lioはまだ動かない。もうワン・ビッドしてくるのか――。ぼくはLioの左手を凝視した。まもなくして、かすかに動くのがみえた。しかしそれはまた、頬のあたりで止まった。「――ワン・ハンドレッド(100,000)?」三たびチェアマンが尋ねる。その声でLioの左手が顔から離れた。すると、結んだ唇の端を少し上げながら手を水平に切り、顔を横に振った。――Lioが降りた。その瞬間、チェアマンは「サンキュウ、レイディ」と言うと、現在の数字を述べた。
「――ナインティ・ファイブ・サウザント・パウンズ(£95,000)」。周囲を見回す。会場内からは誰もビッドする様子がない。あとは――、電話だ。ぼくの目線はXiaにあった。Xiaは、今度は右手で受話器を持っている。いつものようにオークショニアに正対する姿勢をとっているので、その右手に隠れて口の動きが確認しづらかったが、話をしていることはわかった。ぼくは祈った。どうか、来ないようにと……。
チェアマンがテレフォン・デスクにちらりと目をやった。「――ナインティ・ファイブ(95,000)」沈黙が何秒か続く。よしっ、このまま行けば手に入る、と思った瞬間だった。そのなかの一人が反応した。Xiaの左手がすうっと伸びたのである。「――ビッデイング!」会場がざわつく。ぼくは顔をしかめ大きく肩を落とした。――ついに、来たかぁ……上海ウー氏。マダムが隣で「ああぁ……」と喉の奥から悲鳴のような吐息を漏らした。チェアマンがXiaに手のひらを向け切れの良い口調で、「――ワン・ハンドレッド(100,000)」と言った。――日本円の表示は、「20,700,000」に変わった。これで、評価額下限の10倍になった。
マダムは、パドルを持つ手に力を入れてから、ぐいとあげた。すぐにチャアマンが反応する。「サンキュウ、レイディ。――ワン・ハンドレッド・テン・サウザント・パウンズ(£110,000)」鼈甲縁の眼鏡が左へ動く。Xiaは姿勢を崩さずすぐに左手を上に伸ばした。「サンキュウ。――ワン・ハンドレッド・トェンティ(120,000)」チャアマンは深い笑みを浮かべた。――12万ポンド。日本円は「24,840,000」。手数料を含めると、ほぼ3000万である。これは、当初マダムが用意できる限度額であった。そして、その権利を持ったのは、Xiaの電話の方である。――「いざとなったら、もう1ビッド。13万ポンドまでは覚悟するけど、それ以上になったら……無理だわ」昨夜の食事のときにマダムはそう言っていたが、その金額まで来てしまったのである。
ぼくはマダムをみつめた。額が汗で光り、唇が小刻みに震えている。マダムはいっそう深く眉間に皺を刻むと、左手で黄色いお守りを握りしめ力を込めてパドルをあげた。「――お願いっ」という声がぼくの耳を打つ。ぼくも思いきり両目を閉じると祈りを込めた――。
時が一瞬止まり、大きな静寂が場内を包み込んだ。しかし、それはほんのつかの間であった。チャアマンが優しい顔でこちらに「サンキュウ」と言いかけたとき、「――ビッデイング!」というXiaの声がそれを打ち消してしまったからである。ぼくらの最期の望みは、なんとも非情なXiaの美声によって、容赦なく打ち砕かれてしまったのだった。
チェアマンは、少し驚いたようにXiaの方をみると「――サンキュウ」と言ったあと、「ワン・フォー(140,000)」と声を高めた。周囲がぼくらに注目する。マダムが、がくりと首を折り曲げた。コミッションを入れると総額で、3400万を超えている。チェアマンの声が遠くに聞こえた。「――ワン・ファイブ?」それを聞きマダムはじっとうつむいたままだった。ぼくもうなだれた。――相手が悪い。いくらでも来る成金中国人なのだ。「ちぃ」とぼくは運の悪さを嘆くように握り拳で膝を叩いた。そのときいきなりマダムが、「はあーっ」と、まわりに聞こえるほどの大きな息を吐いた。そして跳ねるように首をあげると、「――お願いっ!」とパドルを高く掲げた。――えっ、という言葉が思わず出たが、それは周囲から起こる「おおぉっ……」という声にたちまちかき消されていた。チェアマンが、指先に力を込めさっと掌を開く。「サンキュウ、レイディ。――ワン・ハンドレッド・フィフティ・サウザント・パウンズ(£150,000)」。評価額上限の十倍である。スクリーンに「JP¥31,050,000」と表示される。手数料を入れると、3700万を超える額となっていた――。
しかしそのマダムの願いは、すぐさま発せられた「ビッデイング」というXiaの声によって、再び虚しくつぶされてしまったのである。Xiaが、指先をぴんと立てまっすぐに手をあげていた。30何億買った人間にしてみれば、3000~4000万は、考えるに及ばないのか――。こうなると、あまりにも機械的なXiaの動作が、憎々しく思えてきた。まったくかなわない相手とわかっているなら、なぜ昨日の時点でそう言ってくれなかったのか……。ビジネスとは、かくも冷酷なものかと、ぼくは奥歯を深くかみしめていた。
「サンキュウ、シア。――ワン・ハンドレッド・シックスティ(160,000)」チャアマンが、Xiaに向けた顔をこちらに移す。マダムは眼をとじ荒い呼吸を繰り返しながら、パドルを握りうつむいている。会場にいる全員の目がマダムに注がれていたが、その大半は勝負ありとみているようだった。チャアマンはいったん眼鏡の縁に手を添えると、柔和な眼で投げかけた。「――ワン・セブン(170,000)?」まるでそれが聞こえていないかのように、マダムは左手でずっと膝の上のお守りを握り、右手でパドルをつかんだまま石のようにかたまっていた。「――ワン・セブン(170,000)?」再びチェアマンが問いかける。マダムは眉根を寄せじっと眼を閉じたまま反応しない。しばらく沈黙が会場を包み込んだ。やがておそらく、もうこれが最後だろうというような顔つきで、チェアマンがゆっくりと口を開いた。「――ワン・セブン(170,000)?」
このとき、マダムの眼がかっと見開かれ、顔が正面に向けられた。その先にあったのは、チェアマンではなく、その右の陳列台に飾られている馬上杯だった。マダムは、パドルをつかんでいる右手に左手を、掌にある黄色いお守りごと合わせ両手で拝むようにして、「ティアンナァ、チィイン!」と叫ぶと、馬上杯に向け思い切りパドルを差し上げた。チェアマンがすぐに力強く応える。「サンキュウ、レイディ!――ワン・ハンドレッド・セブンティ・サウザント・パウンズ(£170,000)」。「おおおっ……!」場内に活気が戻る。後ろの方から小さな拍手が聞こえた。Lioが叩いている。おそらく最後のワン・ビッドであろうと、わなわなと震えているマダムの右手の甲の傷痕をみつめながら、ぼくはそう思った。
しかし、この渾身の願いも無情に打ち砕かれた。「――ビッデイング」判を押したように、まったく変わらぬ姿勢から、Xiaが手をあげたからである。プライス表示が動く。――£180,000。日本円は、「JP¥37,260,000」となっている。手数料を入れると、4500万近い。「あああぁっ」というマダムの悲痛な声とともに、両手からパドルがこぼれるように落下した。マダムが顔を覆った。ぼくの左足の脇に、小さな黄色のお守りが転がるように落ちてきた。マダムの様子をみてチェアマンが優しく微笑んだ。
「――サンキュウ、レイディ……」そこには、これまでの果敢なトライアルに対してのねぎらいの気持ちが込められていた。チェアマンは改めて、「――ワン・ハンドレッド・エイティ(180,000)」と言うと、Xiaに手のひらを向けた。その声を遠くに聞きながら、ぼくは足元に落ちている黄色いお守りを拾い上げようと身体を前に屈めた。ぼくにできることは、もうこれくらいしかないのか――。そう思うと自分が情けなくなったが、どうしようもなかった。お守りに記されている「心想事成」の赤い四文字が、沁みるように目に入った。その小さな袋を取ろうと手を伸ばしたときであった。ぼくと反対側に落ちたパドルを勢いよくつかむSaeの右腕がみえた。そしてそのまま上に掲げると、「トゥー・ハンドレッド(200,000)!」と叫んだ。「おおおおっっ!!」場内が騒然とする。――ええっ、まじかよ! ぼくが驚愕の表情を浮かべる。マダムも顔を上げ呆然とSaeをみつめた。誰かが「ピィーッ!」と指笛を鳴らした。Lioが大きく手を叩く。
「サンキュウ、レイディ!――トゥー・ハンドレッド・サウザント・パウンズ(£200,000)」チャアマンの大きく開かれた右手が、こちらに向けられた。そして、ぼくはXiaに視線を移した。全員の目が彼女に注がれている。しかし、Xiaに動揺の影はなかった。チェアマンの方を向いたまま同じ調子で話をしている。やがて、左手があがるしぐさがみえた。ぼくは思った。相手は30数億円を買ったひとである。もはやどうあがいても勝ち目はないのだ――。Saeの「ふうーっ」という荒い呼気が一つ耳に入った。そのとき、Xiaの左手が動いた。しかし「ビッディ……」と言ったところで、その手が途中で止まった。「――んっ?」と思ったそのときである。一糸乱れぬXiaの姿勢が、初めて崩れた。右手に受話器を持ったまま、慌てるようにぼくらの方へ顔を向けたのである。それまで僅かにも揺れ動かなかったショートヘアが大きくなびいた。ぼくらをみつめながら受話器に話しているようにみえる。右手で隠れてみえなかったその口の動きを、ぼくはじっとみつめていた――。
20秒ほどしてXiaは元の姿勢に戻って前を向いた。左手は水平に保たれたままである。その体勢でしばらくXiaは喋り続けていた。チェアマンが、どうした? という表情で問いかけた。「ネックスト。――トゥー・ハンドレッド・テン(210,000)? シア?」それにXiaが何度もうなずいているが、まだ決まらない。おそらく、相手がなかなか降りないので、思い切り値段を上げましょうかという相談をしているような気がした。25万ポンドとか――。最初の段階ではともかく、最後に値を上げるというのは通常の競りではあまりみないが、潤沢な予算を持ちなんとしても買いたいと思っているひとが、相手を振り切る手段としてはあり得ることではある。
「――トゥー・ハンドレッド・テン(210,000)?」チャアマンはそう言ったあと、「オア・トゥー・ゼロ・ファイブ(205,000)?」と、むしろ刻んでもよいよ、という提案を出した。チェアマンは、中国人の競り方として、高値まで来ると少しずつ刻んでいくスタイルがあることを熟知しているようだ。しかし、刻むことはないだろうとぼくは思った。きっと飛ぶにちがいない。――いったい、いくらだ? Xiaと電話口の重要顧客(プロミナントコレクター)との話し合いは意外に長かった。Xiaに向けるぼくの目線の前に、パドルを持つSaeの右手があった。それはかすかに震えていた。やはり彼女も並外れた緊張に包まれているのだ。
「――トゥー・ハンドレッド・テン(210,000)?」再度チェアマンがXiaに促した。その声を聞いてほどなくしてからだった。水平にかざしていたXiaの腕が、すうっと下に降りたのである。「――えっ?」ぼくは思わず声を漏らした。すると、Xiaはチェアマンに向かい首を横に振ると、「……アウト」と言って、外へ向け左手を緩やかに切ったのである。「おおおっ……!」という驚きの声が場内から湧き上がった。チャアマンがXiaの顔をみて大きくうなずいた。「――サンキュウ、シア」そして正面を向くと、「――トゥー・ハンドレッド・サウザント・パウンズ(£200,000)」とコールした。会場を見回す。「――トゥー・ハンドレッド・サウザント・パウンズ(£200,000)」チャアマンはプライスを繰り返すと、場内に一切の動きがないのをみて、ハンマーに手をかけ、そして叩いた。「コォーン!」という木の響きが終わらないうちに、万雷の拍手が会場を包んだ。指笛と重なるように「ブラボー!」というDの叫び声が聞こえる。Lioが盛大に手を叩いている。場内の歓声は、先ほどの元染以上かもしれなかった。
マダムが身体を預けるようにしてSaeの肩にもたれかかった。「ありがとう。ありがとう……」最後は涙声になっていた。Saeは放心状態で、この現実をまだ受け止めきれないような顔をし、マダムの思うがままに肩を揺らしていた。ぼくは、驚いていた。Saeがパドルをあげたこともそうだったが、Xiaが降りたことをである。あれだけ迷いなくパドルをあげていたXiaの電話が、なぜ急にやめたのか? しかし――――。そんなことは、もうどうでもよいではないか。買えたのだ。マダムの宿望が天に通じたのだ。――「答えは一つよ。あの馬上杯は、本当に欲しいと思ったひとのところにいくということだけ」Saeの言葉が、このときぼくの頭のなかを縦横無尽に駆け巡っていた。
まだ場内がざわついていた。それを穏やかにおさめるように、チェアマンがこちらにゆっくりと手をさし向けた。「パドル・ナンバー?」その声に、Saeははっとわれに返ると、いったんおろしていたパドルを掲げた。それをチェアマンは柔らかい眼で確認した。「サンキュウ。――セブンティーン」







