「骨董商Kの放浪」(15)

 僕は再び椅子に座り、長い年月をかけて磨き上げられ、艶光りしている重厚な木製のテーブルの上に両手を置いた。そこへN婦人が、古い箱を持って現れた。そして中身を取り出して卓の上にのせた。

 それは、李朝(りちょう)白磁の角瓶だった。18~19世紀くらいか。この間、支店長の部屋で見たものと同じような形だ。ただ、これはちゃんと頸(くび)がともなっている完形品で、寸法もやや大きい。四面とも横15センチ、縦20センチほどの同サイズの板を張り合わせた造りになっていて、肩部は斜めにそがれ、上面の中央に2~3センチの短く細い頸が付く。面の取り方がシャープで、堂々とした風格を感じさせる。白磁の色も、この時期特有のやや青みのある白で、しっとりとしていて深い。「触ってもよろしいでしょうか」婦人はにこりと頷いた。僕は手に取る。造りががっしりしているせいだろう、程よい重量感が伝わってくる。そして、再びテーブルの上に置き眺める。「格好いいです」僕の感想に、「そう」と婦人は笑みをみせた。

 

 「実はね。この瓶が家にきたのは、ずいぶん前でね。わたくしがまだ20代のときかしら。お義父(とう)さまは自慢げに、いろいろな場所に飾って愉しんでいたわ。わたくしも、立派な白磁だと思って見ていた。その後戦争を挟んで、いろいろとモノが増えて、その度に陳列を変えたりして。そして、あるときから、ずっとしまったきりになって。わたくしが、時々この瓶のことを尋ねると、口元をゆるめ、あれは大事なものだからと言って、ご自分の部屋からお出しにならなかった。これは、義父(ちち)の貴重品とともに、机の引き出しのなかに入っていた唯一の骨董品。時々おひとりのときに出しては、小さく頷きながら、優しくて深い眼でご覧になっていたのを覚えているわ」

 婦人は白磁をみつめ「コレクターというのは、本当に大事なモノはあまり人にみせたがらないと、よく聞くでしょう。自分の世界のなかで、ひっそりと愉しむことこそが、骨董の醍醐味だと言うひとも少なくない。でも、その心境はわたくしなんかには全くわからない。愛蔵家にしか理解できないものなのだわ。この白磁は、お義父さまをそんな心境にさせたモノなのね」それから婦人は僕に目をやり、「だから、ちょっぴり恨んだこともあったかしら」と言って微笑んだ。「そう。この白磁は、義父(ちち)が誰にも見せたくないほど大事にしていたモノだったから、わたくしは、最後までどうしても手離せなかったのよ」

 

 婦人は力強い眼を白磁に向けた。「でも、そんな大切なモノを何で僕なんかに」僕が当惑しながら尋ねると、婦人は、優しい目で僕をみつめて言った。「わたくしは、あなたの若さがとても羨ましい。最後の一品は、あなたのような若いひとに託したいと思ったの。あなたは、これから長い骨董の人生を歩んでいく。その糧にしてください」その有り難い言葉に胸が詰まり、「でも」と言う僕に、「こればかりは、墓場まで持っていけないでしょ」婦人は深い笑みでそう答えた。

 

 陽の光がゆるやかになり、それがかえって白磁の膚(はだ)を艶やかに染める。僕が無言で白磁を見つめていると、婦人は僕の正面に体勢を向けた。「ただし、一つ、条件があります」すぐに僕の眼が婦人に注がれる。「条件っていうか。お願いね」「はい。何でしょう?」「これを、すぐに売ってきていただきたいのです」「えっ?」婦人の決意のこもったその口調に、僕は気をされる。「わたくしには、時間がないのよ。もう」僕は婦人をみつめたままだ。「昔から聞いてますが、美術俱楽部の市(いち)があるそうですね。有力な美術商が参加する大きな会が」「はい」「そこで、売ってきてほしいのです。これが、わたくしの最後のお願い」その低い力のこもった言葉に、僕は頷くしかなかった。

 

 僕は、その貴重な白磁瓶をいったん家に持ち帰り、すぐさまネエさんの店に向かった。西空が茜色に染まり、駅周辺の商店街が賑やかになり始めた頃、僕はネエさんに今日の出来事を伝えた。僕の話しを聴き終えたネエさんは放心状態のまましばらく動かなかった。店内に、夕暮れ時の活気を帯びたひとびとの話し声や自転車のベルの音などのざわつきが、遠く近く聞こえてくる。ネエさんは、やがて深いため息を吐いて、「そう。あなた、N様のところにいってたの。不思議な縁ね…」床の間には、極端に首の細長いローマンガラスが飾られている。それを見つめるように、「李朝白磁のことは、初めて聞いたわ。N様がそんなに大事にしていたものじゃ、そりゃあ、奥様も手離せなかったんだと思う」そして、「でも、あそこの家も明け渡すことになって。ようやく決断したのね」と、ネエさんは小さく何度も頷いた。それを聞き、僕は得心する。婦人の覚悟のある眼の意味がわかったからである。ネエさんは、僕の方に向き直り、「でも、それを託してくれたのだから、よかったじゃない。おそらく大名品よ」僕はそれを受けとめ「はい」と元気よく答えた。

 

 次の日、僕は才介にコンタクトをとった。電話で事情を説明すると、才介はすぐに「今からそっちに行くよ」と電話を切る。それから1時間ほどでやってきて、いきなり僕の部屋にどかりと座るなり、早く見せろと催促。僕は箱を持って目の前に置いた。

 「いやー、古い良い箱だ。李朝角瓶。これも古い字だ」と先ずは箱を品定めする。中身を取り出すや否や、僕の手から奪ってしげしげと見る。「うーん。おれは李朝あまり詳しくないが、こりゃ、デカいし、風格がある。すげぇモノだと思う!さすが、名家の出だ」と興奮気味。早速、李朝に詳しい知り合いに電話をする。才介は「はい…あ、はい」と小刻みに頷きながら、「おい、K。高さ測って」と指示。測ると22センチあった。才介はそれを伝える。やがて、電話を切った。さっと僕の方をみるなり、「やっぱ、すげぇぞ!その大きさなら、1000万は確実にするってさ。美術俱楽部の市なら、1500万くらいいくかもって言ってた。やったな、おい!」と僕の肩を叩いた。まあ、それはそうだろう。値段はわからないが、モノが違う。僕は角瓶を取ってよく見た。形も色も抜けている。悪いが、支店長の部屋にあった頸(くび)の飛んだモノとは雲泥の差だ。

 才介は、「本当だったらなあ、安く買い取れたらいいんだけどな。無理なのか。買取り?」と訊いた。「うん。俱楽部の会で売ってくれというのが条件で」「そうか。残念だけど、まあ、それはそれでいいんじゃないか。高く売れるほど手数料も上がるだろうし。美術俱楽部の競りなら一番高いだろ」才介はそう言ってまた電話をかける。以前、熱海の市に来ていた「ブンさん」と呼ぶ同業者にしているようだ。才介は「じゃあ、よろしくお願いします」と言って切った。「おい、来週大きな会があって、ブンさんも荷物を出すらしい。そこに混ぜて出品するって。ちょうどよかったじゃん」美術俱楽部は入会に厳しい審査があって、誰でも参加できない。ブンさんはそのメンバーになっている。角瓶をその場で才介に預けた。N婦人の意向に沿って段取りが進められ、僕はほっとしていた。

 

 競りの前日に、才介から電話が入った。美術俱楽部の市は、今回は規模が大きいので、下見が一日設けられ、翌日が本番。今日は、その下見にあたる日であり、その状況報告の電話だった。「何だか、すげえ人だかりだってよ。あの白磁の角瓶。次々と、李朝専門の業者たちが、じっくりと見ていて。ブンさんも、今回の主役になるかもって言っている。1500万以上いくかもな!」

 僕もそんな感じがしていた。何しろ、あのN家にあった最後の品である。それは高く売れることだろう。そう思いながら、一方でN婦人の心境を慮(おもんばか)った。これが最後の品。一番大事にしていたモノ。それを売る決断。それは、僕には計り知れないものがあった。「これが、わたくしの最後のお願い」覚悟を決めた婦人の潔い姿が僕の目に蘇った。

 

 競り当日の開始前、出品者の売り順が抽選で決められる。ブンさんは午後の3時くらいになるだろうと、朝一で才介から連絡を受けた。僕はその日、さすがに気が気でなかった。時間が経つのが非常に遅く感じられる。高く売れるだろうが、売れた瞬間にN婦人の、尊敬して止まないお義父(ちち)うえの最後の愛蔵品が、あの婦人のもとから完全に去っていってしまうのだ。「墓場まで持っていけないでしょ」そう言った時の婦人の、和(やわ)らかであるが決意のこもったまなざしが脳裏に浮かんでは消えた。それはやはり切ないものであり、僕は複雑な心境になっていった。

 

 やがて、午後3時になった。まだ連絡はない。それから30分が経過する。しかし、才介からの電話はかからない。思いのほか市の進み具合が遅く、時間がかかっているのだろうか。ひょっとしたら、かなり競り上がって高く売れ、興奮状態で電話をし忘れているのかもしれない。そして4時になった。僕は才介に電話をかけることにした。呼び出し音が鳴る。出ない。6回目の音でようやく出た。僕の声に才介は静かに言った。「8万だったよ」「えええっ!」

 

 そのあと言葉の出ない僕に、才介は説明する。「李朝モノに詳しい業者が言うには、戦前につくられた滅茶上手(うま)い贋物(がんぶつ)らしい」「…」「最近はないらしいが、昔はよく騙されたって」「…」「残念だったけどな。仕方ないよ。取りあえず、売上はおれが預かっておく。気を落とすなよ」「…そうか…、わかった。ありがとう」力なく僕は答えた。

 

 二日後、僕はお代を持ってN婦人の家を訪れた。この間の居間に通されると、そこにはすでに婦人が座っていた。僕が正面に腰かけると、軽い笑みをみせ、落ち着き払った眼を僕に注いだ。僕は、その視線をはずすようにうつむきながら、低い声で全ての結果を報告した。ほんの何秒かの後、椅子が引かれる音とともに、すっと立ち上がる気配が感じられた。それに応じて僕が顔を上げると、そこには、ゆっくりと庭に面した大きなガラス戸に向かっていく婦人の後ろ姿があった。しばらく婦人は庭を見つめていたが、やがてその背中がわなわなと震え出したと同時に、「うっ、うっ」と嗚咽が聞こえてきた。後ろからなのではっきりとわからないが、左手を胸の方に当てているようだ。おそらく、十字架を握りしめているのだろう。その嗚咽はしばらく続いた。そして、ようやく口を開いた。「やっぱりね…」そしてまた背中を震わせたあと、「やっぱり、お義父さまは、真の蒐集家(しゅうしゅうか)だったんだわ」 

 

 しばらくして婦人は振り返る。右手で涙を拭い、左手で十字架を握りしめて。「お義父さまの口癖がね、本物を見なさい。とにかく本物だけを見なさい。美しいモノを見たときに生まれる感性は、そのひとを美しい人間に育ててくれる」

 婦人は、左手をそっと胸からはなし、うつむいてまた涙を流した。「これで、わたくしや他のひとに一切見せなかった理由がわかったわ。わたくしがお願いしても、頑として見せなかった理由が。時々ひとりで見ていたのは、そっと確認していたのね。モノに迷ったときに」

 婦人は右手で涙を押さえながら続ける。「普通のひとだったら、偽物(にせもの)は手離して終わりにするのでしょうが、お義父さまは、それすらせず、その穢(けが)れたものをご自身で封印したのね。誰の目もけがさぬように」

 

 婦人の話しを聴いて、僕は何の言葉も出てこなかった。当然である。僕は、言葉を口にする資格などないのだ。たった一点の骨董品から発せられた、長い時間をかけて身体中にしみわたっていく、重く深い意味の前に、僕はただの傍観者にしか過ぎないのだ。ただ、無能な自分がここにいるというだけの話なのだ。

 

 僕は、呆然とうなだれていた。その姿を見て、婦人はゆるやかな笑みをみせた。「ごめんなさいね。別にあなたを使って確かめたわけではないけれど、結果的にそうなってしまって」「いえ、僕もいい経験をさせていただきました」「そう。それは、よかった」婦人は晴れやかな顔を取り戻し、「これでわたくしは、心置きなくここを出ていける」と静かに言った。

 僕がお代をテーブルの上に差し出すと、婦人はゆっくりと奥へと下がり、再びリビングへ戻ってくると、「御礼」と書かれた厚めの白い封筒を僕の前に置き、そこに、僕が差し出した封筒を添えた。「いえ、これは受け取れません」僕が拒むと、婦人は「わたくしの最後のお願いを聞いてくれたのですから、当然のことです」「そんな…」戸惑う僕の顔をみて、「さあ、あなたの歩みはこれからよ。わたくしは、ずっと見ていますよ」と芯の強い気高い笑みを僕に注いだ。そして、婦人は庭の方へと歩み、外を眺めた。「ここね、よく鳥がくるのよ。ほら、あそこにいるでしょう」庭の左側に建っている茶室の屋根の上を指さした。そこには二羽の鳥が仲良さそうに並んでいる。N婦人は、それを穏やかな眼でみつめながら、「ここからの景色も見おさめね」とつぶやいた。

 

 僕は、やるせない思いを胸に、数日後ネエさんの店を訪ねた。僕のその話しを聴き、ネエさんはしばらく虚空をみつめていた。そして深く長い息を吐くと、「いるのねえ。そういう聖人君子」とつぶやいてから、「コレクションというものは、その人となりを示すって言うけど、そうかもしれないわ。N様は、高い美意識と強い信念を持ってそれを貫いた。お医者様としても、きっと人格者だったんだと思う」ネエさんは深くうなずいてから、「やっぱり、そういう人のところに、あのハッダのような名品が集まってくるのね」と力強く言った。「今回、ハッダを買われた方もそういう人ですか?」僕は訊く。「うん。確かに人徳のあるひとだわ。名品は、そうした人たちの手から手へ、受け継がれていく。モノは、そのモノに相応しい道を進む。決して間違った方へ動かない」

 

 ネエさんは、姿勢を正しそう言ったあと、前を向きかみしめるように次の言葉を発した。「まるで宿命のように」「宿命?」「そう。骨董の持つ宿命」その言葉は僕のなかに打ち響いた。それが何か価値のあるような気がして、僕は心のなかで反芻する。「骨董の持つ宿命」。まだ、何となくではあったが、その意味がわかるような気がした。

 

 ネエさんはゆっくりと僕の方に向き直った。「ニセモノを買わないコレクターなんかこの世にいない。世に名を遺す大蒐集家(しゅうしゅうか)であっても、必ずニセモノを手にする。骨董は証明書のない世界。ニセモノの方が圧倒的に多い。だからこそ、本物は美しく、そして貴(とうと)くなければならない。それを判(わか)っていたN様は、あえてその白磁を残したのかもしれないわ。高みを目指す糧として。道標の決め手として。自分への戒めとして。優れたモノと出会ったときの喜びを、より一層強いものにするために」

 

 ネエさんはそう言って「ふーっ」と一つ深呼吸をした。そして、ちょろっと舌を出し「何てね。格好いい言い方しちゃったけど」と言ったあと、突然「あーあ」と、天井を見上げるなり、がくっと急に体勢を崩し、長椅子に身体を沈めた。「どうしました?」と訊く僕に、「はあー」とため息を吐いて、辛子色のセーターの袖に顔をうずめた。そして、「そういう話し聴くと、反省しちゃうわ」と顔を上げる。「何がですか?」の僕の問いに「だってえ、そのN様のコレクションから出た、あの漢時代の青銅坐人(ざじん)、わたし、めっちゃ、けなしたんだもん!」「ああ、総長が買ってくれたやつですね」「そう」「僕もです!」の答えに、ネエさんは姿勢を戻し、額に手を当てた。「はあー、今回の件でよくわかった。わたしって、本当に、俗人だってことが」「僕もです」僕らはお互いの顔をみつめ、情けない笑い方をした。

 

 しかし、このN婦人にまつわる一件は、実は、これで終わりではなかったのである。

 

(第16話につづく 7月25日更新予定です)

李朝白磁角瓶




 

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