骨董商Kの放浪(26)

 食事が始まり、三皿目の料理が出されたあたりから、閑散としていた広間のテーブルはいつのまにか人で埋められ、周りの声が賑やかに耳に入り出した。芝エビか何かだろうか、小さなむきエビを茶葉で炒めたこの料理の優しい味つけに、ぼくと才介は前のめりになってレンゲを動かした。その様子を見てチャイナドレスのマダムが目を細める。

 「美味しいでしょう? 杭州のお料理で、龍井蝦仁(ロンジンシャーレン)ていうのよ」「ロンジン……」才介は一瞬顔を上げたが、すぐにまたエビを口に入れた。「アハハハ、あんたたち、そんなに美味(うま)いか。あたしの、あげるよ」ママは自分の皿を差し出した。マダムも「どうぞ」と言ってぼくの目の前に置く。「ありがとうございます!」才介は一口食べてママに目を向ける。「しかし、ママ。さすがの人脈ですね」「そうか、あたし、そんな人脈あるかなぁ」「あるわよ」とマダムが微笑んだ。

 

 食事の開始とともに、僕らは同い年であるママとマダムの間柄を聞かされた。

 ママはもともと台湾のひとで、10代のときに香港に移住。25歳で、香港に勤務していた大企業の日本人重役と結婚し、30歳のときに夫の帰国にともない、ふたりの間にできた息子とともに日本へ。だが、40歳のときに夫に先立たれ、その後香港に戻ることになる。折しも、香港で中国美術の市場が活況になったことを契機に、この商売を始めることになり、今年で10年になるそうだ。一人息子は成人し、日本の大学にいっているため、今は香港で独り暮らし。ただ、根っからの社交性と世話好きから、オークションシーズンになると、様々な国からVIP層の人たちがママのところに集まって来るようで、この時期は毎日のように華麗な晩餐を愉しんでいるとのこと。

 マダムは22歳のときに香港に移住し、30歳で日本人と結婚。その後日本で暮らしている。香港に来た年にママと知り合い、それ以来昵懇の間柄。共に日本人と結ばれ、同じ30歳のとき日本に渡ったため、日本でもたびたび会いふたりの交流は途絶えることはなかった。マダムは毎年定期的に香港を訪れる。今日は4カ月ぶりの再会。当然話に花が咲く。

 「このひとはねぇ、お金持ちになったよぉ」ママが笑いながらマダムの肩を二度軽く叩いた。「何言ってんのよ。わたしじゃないって」マダムは口に手をあて、今度はママの肩を押した。ママの話しによると、マダムのご主人はIT関連の会社を経営しているようで、今の時流に乗って急成長しているそうだ。数年前に、都心の一等地に新築のマンションを購入し、悠々自適な生活を送っているとのこと。でないと、こんなレストランのメンバーズにはなれないか。そう思いながら僕は四品目の豚の角煮を頬張った。とろけるような甘さが口いっぱいに広がり幸せな気分。リッチなテイストに舌鼓を打っていると、「どうですか?お味は?」とマダムが尋ねた。僕は少し考えてから、「ヘン・ハオ・チー」と覚えたての中国語で返す。それに対し、ふたりは歓声をあげて拍手をした。

 

 食事は主に、ママとマダムの会話と、口数少なく料理を堪能している僕らという図式で進んだ。ママの右に才介。マダムの左に僕という配置。ふたりは、概ね中国語のやりとりなので、会話の内容はわからないが、いたって快活なママと、穏やかであるが凛としたマダムとの対照的な性格が、ぴったりはまっているようで面白く、僕はずっとふたりを眺めていた。

 

 ママの底抜けと言っていいほどの明るさは、矢印のような真っ直ぐさと、人に嘘のつけない誠実さをともなっており、それは、派手な原色の衣装と同化しているように思えた。そして、マダムの落ち着いた上品な笑顔は、高級なシルクのチャイナ服と大きな翡翠のブローチと相俟って、上流階級特有のオーラを放っていたが、会話中に時おりみせる眉根を寄せる表情と、僕の右手側からたびたび目に入る左手甲の傷痕が、そのオーラにくすんだ薄い膜を掛けているような気がして、僕を不安定な気分にさせていた。この親指と人差し指の付け根の間に残っている切れ長の深い傷痕が、何か彼女の生き様の一端をあらわしているような気がしてならなかったのである。

 

 金木犀の香りのする熱い汁のデザートを食べ終えると、才介が満足気に腹をさすってうなる。「うん!どれも初めて食べる料理だけど、めっちゃ、美味しかったです!」それを聞いたマダムが嬉しそうに手を合わせ、「そうねぇ、明日もご一緒にどうかしら。楽しかったから、ねえ?」とママに顔を向ける。「あなたたち、予定入ってない?どう?」それに対し僕らは「まったくの、フリーです!」と速攻で答えた。

 

 ホテルの車寄せでマダムとママと別れた僕たちは、明日へと頭を切り替えた。「明日は、午前10時から、成化豆彩杯のセールと、午後は、おれたちの雍正の筆筒の出番だ」才介がスケジュールを告げる。「よし!」僕らはホテルをあとにして、自分たちの宿泊先へ足を向けた。

 「いよいよ、オークションかあ」「そうだな、ついに来たな」「どんな感じなんだろう」「世界の大金持ちが集まるんだろうな」「明日はさすがに、上着にネクタイしなくちゃな」「うん。同業の奴らに訊いたら、当日はちゃんとした格好がいいって」「O.K.!」そんな会話をしながら、僕らは尖沙咀(チムサーチョイ)の猥雑な脇道を軽快に抜けて帰った。

 

 翌日、セールは午前10時からだが、E氏から30分前までに来てくれとの連絡を受けていたため、僕らは早めにホテルを出発。予定時間より少し早めの9時過ぎに到着すると、すでに会場入り口付近でE氏が立って待っていた。「おはようございます」そして、「どうします?パドル取りますか?」と尋ねる。僕らの反応の鈍さに、E氏は笑顔で「今日何か競るモノがあれば、あちらで登録してパドルを取ってもらう必要があるので」と左手を横に上げた。みると、入口の右手には、いくつもの行列ができている。競りに参加するひとはここで登録して、番号の書かれたA4サイズほどの紙を受け取っている。「買うときはあのパドルをあげるんですか?」僕の質問に「はい。オークションは、この番号で買主がわかるシステムになっています」とE氏。「取りますか?」僕らはかしこまって手を横に振る。「いや、いや。僕らは見学で」「じゃあ、こちらへ」と、E氏は先導。

 広い会場内には、下見会場のVIPルームにあった白い布のかかったやや大きめの椅子が、真ん中の2メートルほどの幅の通路を挟んで左右に200ずつ計400くらいの席がつくられていた。正面ステージの中央には、司会者の席のような、高さ1メートルほどの重厚な木製の小さなテーブルが設置されている。この壇上にオークショニアが立つのだろう。両脇には、高めの位置に、二段にわたって細長い席がずらりと設営されている。ここはおそらくスタッフ用か。開始時間までまだあり、人はまばらであったが、世界的オークションハウスの威厳を感じさせる豪勢な大空間に、僕は既に高揚していた。

 「午前はメインセールなので、多くの人が詰めかけます。あと30分もしたら、席が埋まってしまうので、こちらに二つ取っておきました」向かって右手後方の端の席。ここからなら誰が競っているのかがわかりそうだ。E氏はステージを指す。「あそこのオークショニアの立つ台をロストラム(Rostrum)と呼んでいます。両脇には、電話で競る人のために、われわれスタッフの席が用意されています」先ほどの長いテーブルの上を見ると、等間隔で電話機が置かれている。左右に15台、計30台くらいか。かなりの数だ。僕らが目を丸くしていると、E氏は「テレフォンビッドはかなりありますので」と、大きく左右に首を動かしながら言った。「やはり、電話で競る人も結構いますか?」「はい。値の高いモノほど、電話が多いですね。やはり買う人も目立たないようにしたいのでしょう」オークショニアの立つロストラムという台とともに、ずらりと設置された「the telephone bids desk」と呼ばれる電話席は、いかにもここがオークション会場であることを示していた。

 

 開始10分前迄には全席が埋まったが、それからも次々と人が押し寄せているのがわかる。人の波は、会場入口あたりでいったん固まるが、押し寄せる人々でその固まりはすぐに左右に分散しながら幾重もの人垣ができ、徐々に立ち見の参加者たちの位置が定まっていく。気がつくと、後方にある僕らの席の右側にも人が立ち並んでいた。見回すと、スーツ姿はそれほどではなく、意外にラフな服装のひとが多い。なかにはサンダル履きの中国人も見受けられる。会場内には、挨拶や笑い声などがしきりと飛び交い、開始時間が迫るにつれその喧騒はどんどんと増していった。僕らは椅子から立ち上がって、目を丸くしながらその光景を見入った。

 「すげえ、人だかりだな」驚きの才介に僕も頷く。すると、反対側の左手の方から、こちらへ向かって手を振るひとの姿が見えた。「あっ、三代目だ」僕が手を振り返す。紺のスーツの三代目は、笑顔でもう一度手を振りそれに応えると、すぐに席に座って隣のひとと話し始めた。両脇の電話席にはスタッフが勢揃いし、いよいよ開会への準備がなされると、少しずつ喧騒はおさまっていき、徐々に空気が引き締まっていくような気がした。それはさながら、舞台演劇かコンサートの開始前のようだ。

 

 10時になると、会場はぎっしりと埋め尽くされ、入口付近に溢れていた人たちの動きが落ち着きをみせるのを見計らって、40歳くらいの様子の良い香港人らしきオークショニアがゆっくりとロストラムに立ち、ハンマーで卓面をコン、コンと二つ叩いた。その音で、がやがやとしていた場内が瞬時に静まりかえった。オークショニアは笑顔で挨拶をし、しばらく話しを始める。当然流暢な英語だ。僕は五分の一も理解できないでいた。「何だよ?」と全く理解できていない才介が横で尋ねる。「まあ、買ったときの手数料とか、なんかルールみたいなことを説明してるみたい」「ほおー」

 僕らがその話しにぼんやり耳を傾けていたら、「ロット501」というオークショニアの掛け声とともに、ステージ右手の大スクリーンにモノの写真が映し出され、セールがいきなり始まった。「始まったのか!」僕らは一気に緊張する。

 スクリーンには、ロット番号とそのモノの写真、その横には各国通貨が表示されている。一番上が香港ドル、下に向かって、USドル、ポンド、日本円、ユーロ、人民元、台湾ドルなどの価格が、オークショニアの発する香港ドルの値段によって目まぐるしく変わっていく。オークショニアは、会場内と電話席に巧みに目を配りながら、値段を繰り返す。僕らもカタログを開いて確認しながら、赤ペンで落札額を書き込んだ。

 

 セールは静かに始まったようで、最初の方は競り合うこともなく、評価額内で落札されていた。落札者も会場内の人が多いようで、オークショニアが右手を差し出してパドル番号を確認している。パドルを掲げて競る人もいれば、オークショニアの目線に応じて軽く手を挙げて競る人もいるようで、僕らは会場内を見回すが、誰が競っているのかわからないのがほとんどだった。「マジ、わからねえ」才介が笑う。「こんだけ人がいたらな。でも、おれらから10列くらい前のやつ、よく競ってるぜ」オークショニアがしばしばそちらに視線を向けるので、おそらくそうだろうと僕は思った。

 

 開始から30分程過ぎた。一番高額なモノは、雍正官窯の桃の図の描かれた一対の粉彩(ふんさい)盤。価格は、結構競り上がり550万香港ドル。日本円で8000万を超える。落としたのは電話ビッドだった。僕らは感嘆の声。

 そして、いよいよメインイベント。本セールの目玉「成化豆彩葡萄文杯」の登場である。その前に、オークショニアは一息入れるかのように、卓上の水を飲む。一瞬周りが水を打ったようにしんとなった。同時に両脇にいる電話スタッフのほとんどが、受話器を片手にスタンバイする。オークショニアはゆったりと会場を見回した後、この作品のロット番号を口にした。

 評価額は、下見のときに聞いた2000万から3000万香港ドル。日本円で3億から4億5千万だ。これまでの競りを見ていると、スタートの値段は、評価額下値の1割から2割下の値段から始まることが多い。これも同様に、1600万香港ドルから始まった。オークショニアは会場と電話に目を走らせながら、捲し立てるかのように、1800、2000、2200、2500、2800、3000とあっという間に上値までの数字を発した。僕は、昨日三代目が競ると言っていたのを思い出し、彼に目を向けた。するとパドルを掲げている。「おい、すげえ、三代目、競ってるぜ!」僕の視線に才介も興奮する。「よし、行け!」しかし、値段はどんどん上がり、3500万で三代目は降りた。「あーあ」僕らはがっかりしたが、それはほんの序章にすぎなかった。

 

 5000万までは会場、電話が複数いたが、やがて、一人そして一人と脱落し、7000万からは電話同士の一騎打ちとなった。才介が僕の肩を揺する。「おい、日本円で10憶越してるぞ」スクリーンの日本円表示は「JP¥1,060,500,000」となっている。僕はもはや桁がわからなくなり、数字を呆然と見つめるだけだ。100万刻みの競りが進む。だんだんお互いが限界に来ているのだろうか、それとも策略か、二人とも時間を掛けながら競りを続ける。電話を取っているのは、中年の男女のスタッフで、両者とも中国人のようである。つまり、その電話口で競っているのは、おそらく中国人であろう。オークショニアの左手に男性、右手に女性。その戦いが優に15分を超えたところで、女性の電話が急にペースダウンした。迷っているようだ。女性は受話器を握りしめてしきりと喋り続けている。オークショニアは、男性の電話ビッドの値段を言って、この上の値段を提示し促す。それは、9800万であった。

 女性の電話時間が長くなる。オークショニアは「NO?」と何度も訊く。女性は左手を真っ直ぐ前方へ出して、ちょっと待ての姿勢を崩さず電話のやりとりを続けている。「ついに、降りそうだな」才介は電話を注視したまま僕にささやく。「うん。さすがに、この値段だと」僕は答える。既に日本円で、15憶円近くになっている。会場内の全員が女性の一挙手一投足に集中している。そのときであった。水平を保っていた女性の手がすっと上げられた。と同時に「おおっ」という声が一斉にあがる。オークショニアは「サンキュー、エディ」と笑顔で応えた。エディとは女性スタッフの名前らしい。そしてオークショニアは、右側の男性の電話に顔を移し「ナインティナイン(9900万)?」と右手を向けた。今度は電話の男性が受話器に向かって喋り出す。遠目でわからないが、こころなしか口調が強くなった気がした。

 「どうなるんだろう?」その光景を見て才介が訊く。先ほどからの競りの様子から、僕は何となく、この男性スタッフの電話の方が強いように思えた。一定の時間内で答えを出す余裕が感じられたからである。それでもこれまでよりも少し間を持った対応であった。

 「ナインティナイン(9900万)?マーク?」オークショニアが再度促す。マークと呼ばれた男性スタッフは、受話器に喋り続けながら、じっとオークショニアを見つめている。そして、一つ強めに頷いた後「ワン・ハンドレッド!(1憶)」と左手の人差し指を高らかに突き上げた。「おおおっ!」と大きな歓声が沸く。一気に200万上げ、相手を征しにかかったようだ。

 「ワン・ハンドレッド・ミリオン!サンキュウ、マーク」オークショニアはマークを指し、大きく頷いた。それを見て才介が「決まったな」と声を出した。僕もそう思った。オークショニアは、再度エディの方を向く。「ワン・ハンドレッド・ファイブ(1憶5百万)?」1憶を超えると、次の値段がいきなり5百万跳ね上がる。このくらいの額になるとそうなるようだ。エディの口調がより烈しくなるが、なかなか答えが出ない。その反応を見て、皆は、勝負ありと思ったのだろう、会場が少しざわつき始めた。そのなか、エディは間を置きながら話しを続けている。オークショニアは、微笑みながらロストラムの卓上に両肘を置いて上体を屈め「ワン・ゼロ・ファイブ?エディ?」と優しく尋ねる。「NO?」その問いに、エディは受話器を手にしたまま何度か頷いた後、左手を前に水平にかざした。「えっ?まだ行く気?」才介がエディに目を向ける。エディは喋りながらまた二三度頷いて声を張り上げた。「ワン・ゼロ・ツー!」「おおっ!」と再び歓声。オークショニアは姿勢を正し、「O.K.!エディ。ワン・ハンドレッド・ツー・ミリオン。サンキュウ」それに応じてスクリーンの数字が「HK$102,000,000」と表示。「刻んできたかぁ」確かに、この数字までくると、200万でも日本円にすると3000万である。「だな?」僕らは納得。両者の戦いはすでに20分を経過していた。しかし、会場内は誰もその場を動かない。当然ながら、皆この行く末に注目しているのだ。

 「ワン・ファイブ(1憶5百万)?」とオークショニアは、マークの電話に手を向けた。マークはのべつ喋り続けている。おそらく、相手が刻んできたことで、もう1ビッドすれば勝てますよとでも言っているのか。1分ほどの後、マークが左手を上げそれに応えた。再び会場内がどよめく。そして、人々の目はエディに注がれる。

「ワン・エイト(1憶8百万)?エディ」オークショニアは、ロストラムの端を左手でつかみながら、右手をエディに向ける。エディは間を置きながら話を続けている。800万がきついなら、600万で刻みましょうか?ここまで来たら、もう1ビッド頑張りましょう、という会話がなされているのだろうか。その間オークショニアは微笑みを絶やさない。1分が経過しオークショニアが「NO?」と問いかける。それに対しエディの左手が再び水平に。「おっ、まだ行くのか?」僕らは固唾を吞んでいると、まっすぐ前方に伸びた左手が力なくすっと下に降り、エディが笑顔で首を横に振った。ついに降参だ。それを見てオークショニアは「サンキュウ、エディ」と応え、「ワン・ハンドレッド・ファイブ香港ダラーズ」と、手にしたハンマーを初めて上げ、何回かその数字を繰り返しながら、会場内を見回した。最後の確認をしているのだろう。そしてハンマーを少し高く掲げて「ラースト・チャンス」と言って、もう一回り見回した。一瞬の静寂の後、テーブルにハンマーを力強く打ちつけた。

 「コーン」という乾いた高音が場内にこだまするや否や、大きな歓声と拍手が怒涛のように押し寄せる。「ブラボー」の大きな声が聞こえ、立ち上がって拍手をしているひともいる。大歓声を沈めるように、オークショニアがマークを指さし再び落札額を口にした。マークは、パドル番号を掲げ、オークショニアはその番号を読みながら、手許の書類に書き込んでいる。「すげえ、すげえや」まだ人々の興奮が冷めやらぬなか、才介が「結局、いくら?」と疲れた声を出した。スクリーンの日本円の表示には「JP¥1,590,750,000」と出ている。それを見ながら僕は「15億9千7十…」と言ったところで、次のロットに移ったようで、数字が「0」に変わった。僕は先ほどの数字をカタログに記入しながら、改めて感じていた。あの小さな色絵の杯が、なんと16億円!僕はどう受け止めてよいかわからなかったが、才介も同じ心持ちのようで、スクリーンを見つめたあとで、「ふうー」と大きな息を吐いている。僕らは中国陶磁の巨大マーケットを肌で感じ、完全に打ちのめされていた。

 

 豆彩杯が終わったところで、場内は急にがやがやとなった。午前中のセールはまだ残っているが、高みの見物的な参加者たちが、早々と席を立ち始めたからである。僕らも正直力が抜けた状態になっていた。しばらく続く喧騒のなか、セールは淡々と進んでいく。そしてそこには、当然のごとく真剣に競い合うひとたちの姿があった。派手さはないが、確実に売れていく様子を見つめながら、僕らはその都度落札額をカタログに記していく。

 そのとき、軽く背中を叩かれた。振り返ると、そこに三代目の姿があった。その笑顔を見て、「びっくりしました!」「すごいっす!」僕と才介の声が思わず重なる。「いやぁー、まさか16憶とはね。10憶ちょいかなと思ってたけど。歴代三番目に高い金額だ」三代目の苦笑いを見て、「誰が買ったんですかね?」と才介が訊いた。「おそらく、マークの電話だったから、今一番強い上海のコレクターだと思うよ」「やっぱ、中国人ですか?」「今は、滅茶苦茶、大陸の中国人が強いからな」そう言ったあと、三代目は「でも、まだまだ高くなるよ。中国陶磁は」とつけ加えた。「じゃあ、僕は午後の便で帰るので、お先に」三代目はそう言って出口に向かった。僕らはその場で立ち上がり、深々と頭を下げる。そして再び椅子に腰かけセールに目を向けると、ちょうど品が落札されたところであった。評価額の上限をかなり超えている値段を書き込みながら、先ほど三代目が口にした「まだまだ高くなるよ。中国陶磁は」の一言が現実味を帯びて耳に残った。

 

 昼を挟んで、午後2時から再びセールが始まった。こちらは、一般的なセールと位置づけられ、午前に行われた高額商品を主としたセールとは異なり、比較的リーズナブルな値段が多いのが特徴。数は多く250点くらいある。よって図録も厚め。ロット701番から始まり、僕らの雍正筆筒は775番。午前の部のような大物がないので、スムーズに競りが進めば、だいたい3時過ぎくらいに順番が回ってくる予想。会場は、空席がちらほら見られるが、椅子に座らずに立っている人も結構いて、それなりに賑わっている。長丁場ということもあり、談笑しているひとなどリラックスムードが漂っており、午前中のような緊迫感は感じられない。電話ビッドの席にはE氏の姿が見える。日本からの注文も入っているようだ。そんななか、セールは着々と進められていった。

 

 始まって20番目に、以前熱海の市(いち)で出た「堆朱屈輪盆」が登場した。カタログを見ると、評価額は「HKD500,000-700,000」とある。当然ながら僕らは注目。髭をはやしたまだ30代の若いオークショニアが、40万から50万まで滑るように数字を述べる。そのあと、少しペースが落ちたが、ほどなく60万を超え、評価額上値の70万で止まり落札された。「おおっ」と僕らは反応。すぐに、日本円の表示に目を向ける。「JP¥10,605,000」。その数字を見て才介は膝を叩いた。「ちっ、儲けやがったな」市では300万だったので、700万以上の利益だ。「こういう舞台に出すと、やっぱ売れるんだな」才介は何度も首を縦に振った。

 

 午後のセールが始まり1時間を過ぎた頃、ようやく筆筒の出番が回ってきた。その3番前くらいから、僕らは落ち着きを失い、落札額を書き忘れていた。「おい、おい、次だぞ」774番の商品の競りが始まると、才介は激しく両膝をこすって小刻みに身体を揺らしている。僕も自分の胸が烈しく波打つのを感じていた。そのロットがあっという間に終わり、ついに雍正筆筒がスクリーンに映し出された。「ロット775」のオークショニアの掛け声とともに競りが開始された。僕らに緊張感が走る。

 画面に映し出された数字は「HK$100,000」。これが評価額の下値で、リザーブ・プライスである。この額で手を上げるひとがいたら、すなわち売れたことになる。僕は腹に力を入れ見つめる。「ワン・ハンドレッド・サウザンド(10万)」と、先ずオークショニアが発した。「頼む!」才介が強く目を閉じる。

 そのあと少し間が空いた。オークショニアが会場を見回す。誰も競らないのか?一瞬僕は焦って、場内に目を向けたそのとき、オークショニアの動作が突如忙しくなった。それにつれ、1万刻みの数字は、あっという間に20万になった。既に評価額の上値を超えている。「えっ!」僕らは顔を見合わせる。そのあと、ゆっくりと数字は上がり、やがて30万となった。日本円で「JP¥4,545,000」。才介が思わずボールペンを下に落とした。僕も同様の心境。だが、それで終わりでなかった。そこから、電話と会場との一騎打ちが始まったのである。

 

 オークショニアの左手の電話ビッドと、誰だかわからないが、会場で競っているひとがいるようで、お互いに譲らない。1万刻みで、値がどんどん上がっていく。それにともない、当然僕らの心臓は高鳴る。50万を超え、やりとりはスローペースになった。電話が時間をかけ始めたのである。会場の一人はすぐにビッドしている。オークショニアの目は、正面の入口付近に向かっているので、僕もそのあたりの席に目を動かすが、競っているひとが誰かわからなかった。ようやく手を上げた電話ビッドの額にお礼を言ったオークショニアは、52万の値を提示し、正面のひとに顔を向ける。その後まもなくオークショニアは、「サンキュウ、レィディー」と言った。

 「女のひとか、競ってるの」と才介が訊く。「そのようだな」僕はまだ確認できないでいた。皆の目は、相手の電話の方に向かったが、僕はずっと入口正面の一番後ろの席に目を注いでいた。あのあたりのひとが競っているような気がしたからだ。ただ、女性らしき姿は見当たらない。やがて、53万の値を受けた電話の合図とともに、オークショニアは会場に目を向ける。僕は集中した。そのときである。ちょうど入口正面で立っている人混みのなかに、昨日出会った若い女性店主の姿が目に入った。Lioである。すると腕を組んでいた彼女の左手がわずかに開いた。と同時にオークショニアが「ファイブ・ハンドレッド・フォーティ(54万)、サンキュウ」と反応。どうやら会場で競っているのは、Lioのようである。「おい、昨日の女性だよ。競っているの」「えっ!ひょっとして、Lioちゃん?」と才介も後ろを向く。「本当だ。あそこに立ってる。そう言えば下見でじっくりと見ていたもんな」

 

 その後二人の競り合いが続き、58万でLioが手を上げ、時間をかけながら59万で電話が応えた。オークショニアは、60万の数字をLioに向ける。そこで、Lioが初めて首を傾けて思案に入った。その様子を見て才介は、「頑張れ、Lioちゃん」と拳を握る。僕らの関心は、値段はもとよりであったが、ここまで来たらLioが買うのか買わないのかにあった。薄いピンクのジャケット姿のLioは、口を真一文字にして考えた後、さっと左手を開いた。「サンキュウ、シックス・ハンドレッド(60万)」「よっしゃあ!」才介は小さくガッツポーズ。Lioの値に対し、電話はあきらめたようで、受話器を持つスタッフが首を横に振った。それを見てオークショニアは、ハンマーを下ろした。

 「シックス・ハンドレッド・サウザンド(600,000)香港ダラーズ」。スクリーンに表示された日本円「JP¥9,090,000」に目を向け、僕らは放心状態。ようやく才介が「あれって、いくらで買ったんだっけ?」と訊いた。「10万円」僕が答えると、一瞬フリーズした才介が、いきなり僕の両肩を掴み、「マジかよ。ばっきゃろー!」と言いながら激しく揺さぶった。周囲の人々の目が僕らに目を向けられる。「待て、待て、才介。そんなことしたら、おれらが出品してることばれちゃうよ」「あっ、そうだ、そうだ。まずい、まずい」と言ったあと、「違います、違います」と慌てて日本語で連呼する。僕が電話席にいるE氏に目を向けると、E氏はにっこりと微笑んだ。才介は、手が震えるからと言って、落札額の記入は僕の方ですることに。筆筒のエスティメート・プライスの下に、僕は、「600,000」と書き込む。そのとき、Saeの言った「捨てる神あれば拾う神あり」というフレーズが頭をよぎった。

 

(第27話につづく 11月25日更新予定です)

 

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