「骨董商Kの放浪」(1)

 僕が骨董商になったのは、西暦2000年を数年過ぎたあたりの頃だっただろうか。ずいぶん前のことである。1年浪人して、さして有名でない私立大学の理工学部に入学し、ここで1年の留年を経て都合5年を過ごし、21世紀初頭の就職氷河期の真っ只中に、或るシステムエンジニアの優良企業に何とか就職したものの、自分はやはりアナログ人間であったことを悟り8カ月で退社、自問自答の生活に入ったのが、ちょうどその頃であった。毎朝起きると頭のなかに「人間失格」という文字が周回していたのを、今でもはっきりと覚えている。

 取りあえず僕は家の近くのファミレスでバイトを始め、深夜遅くまで「シンク」と呼ばれるどでかい洗い場でひたすら格闘しながら、これからどうしようかと途方にくれていた。このときぼくは、人生のどデカい壁にぶち当たっていたのだ。

 

 そんな僕が骨董屋を目指そうと思ったのは、「分析」の世界から真逆の「感覚」の世界に魅力を感じたからとでも云おうか。「理屈」で答えを追求していくことよりも、「感性」というものの度量の広さに憧れを抱き、これと向き合って答えを導き出したいと思ったのが本当の理由かもしれない。まあ、格好の良い言い方をすれば、である。実際はそれほどの次元で考えていたわけではなかったのだ。

 

 そんなぼんやりとした動機のなかで、ただ一つはっきりしていることがある。それは、犬山得二(とくじ)の存在であった。犬山は、中学からの同級生で、唯一同じ高校に進んだ人物である。高校時代は秀才で通っていたが、高三のまさに受験勉強の最中(さなか)に突如ゲームにはまり、東大受験に二度失敗し、二年浪人して早稲田の商学部に入学した。浪人中に、父親の死去にともなう家庭の事情から家を出て、独り住まいをしており、僕は時おり彼のアパートを訪ねては、もろもろの話をした。僕には友達がわりに多くいたが、彼には僕が唯一の友であったと思う。犬山は、大学卒業後小説家を目指し日々机に向かっている。

 

 性格的には全く異なるタイプであったが、馬があったのか、中学時代から仲がよかった。彼には、何かに興味を示すとそれを集めるという性癖があり、部屋のなかは、いつでも種々雑多なものでごった返していた。独り住まいをするにあたり、だいぶ片づけたと言っているが、それでもモノが溢れており、足の踏み場もないことも間々あった。時にはそれが、化粧品の試供用の小瓶であり、昭和のドリンク類の王冠であり、古い紙幣であったりした。

 「最近は、これだ」と言って、犬山は、高さ80センチほどの本棚の上に所狭しと並んでいるフクロウの置物に手を向けた。縫いぐるみ、ガラス、プラスチック、やきもの、大小様々な種類のフクロウである。それは本棚に収まっている本の手前のスペースまでひしめいていた。「これ、フクロウ?」僕が訊くと、「フクロウとミミズクだ」と自慢げに返す。もはやどっちでもよい。僕はそう思いながら「これじゃ、肝心の本がとれないだろ」と言うと、犬山は「そん時はそん時だ」と言って、実年齢よりも老けた笑みをのぞかせた。

 

 犬山得二の蒐集(しゅうしゅう)品のなかで、僕がちょっと気になったのが、やきものの欠片(かけら)であった。九州に行ったときに蚤(のみ)の市で手に入れたというもので、何だかよくわからない石の一群のなかに混じって、渋い茶色いものと、きれいな彩色の施された真っ白なものが十片ほどあった。最初は何の興味も出なかったが、見慣れて来るとなかなか面白い。その後犬山はその茶色い陶片を増やしていき、無理やり繋ぎ合わせた。「全然違うものじゃん」と言うと、「バカ、同じ窯(かま)のもんだ。上と下の部分が結構残っているから、こうやってつなぎ合わせると、形になる」と言って、僕の眼の前に差し出した。

 直径5センチちょっとの盃である。どこで学んだのか、繋ぎ目の溝を樹脂のようなもので埋めてくっつけてある。遠目だと、色が暗いだけに完形品に見える。「唐津って言うんだよ」と言って、酒を注ぎこんだ。「おまえ、知ってるか?これが完品だったら、何百万もするんだぜ」犬山は、本棚の上から一つ小さなフクロウの置物を手に取り机の上に置き、その前にどかっと座った。そして片肘をつき満悦の笑みを浮かべながら、盃を口にあてなめるように酒を飲んだ。「お前にはわかんないだろうな、この気分」と言いながらこめかみを掻く。その時の犬山の姿が、僕は妙に好きだった。

 

 犬山の家は、父親が亡くなった後そこそこ遺産が入ったようで、彼の生活も余裕があり、特段何もせず、時折物書きのささやかな仕事を請け負って生活していた。「優雅なもんだな」僕がそう言うと、「遊んで暮らして趣味に生きるひとを、昔は高等遊民と言ったもんだが、おれの場合は、さしずめ低等遊民だ」犬山は自虐を込めてそう表現していたが、そのフレーズは、何となく彼のイメージに当てはまっているように思えた。いたってのんびりと構え、古めかしい六畳と四畳半の二間のアパートに住まい、限りある小遣いのなかから、少しずつ好きなものを集めている犬山の暮らしが、その頃の僕に、ある種の安らぎと憧れを抱かせていたことは事実であった。

 ちょっとした骨董趣味については、犬山曰く、祖父(じい)さんが骨董好きで、ちょいちょい買って来ては家に並べてあり、小さいときによく眼にしていたことから、自分も自然とこうしたものに興味がわくようになったのだそうだ。しかし、彼の父親は全く興味がなく、祖父さんが死んだ途端に全部売ってしまったらしい。大した金にならなかったと、以前犬山は笑いながら語っていた。

 

 ファミレスバイトでジリ貧生活を送っていた頃、僕はそれが恒例のように、犬山の家に通った。犬山はたいてい四畳半で机に向かっているか、六畳の間に置かれた円いちゃぶ台で酒を飲みながら、借りてきた古い昭和のドラマか映画を見ていた。昭和好きの犬山は、昔のことに詳しく、僕の知らない、いや相当年配者でないいとわからないレベルの事柄を日常のように語っていた。

 

 その日、僕が姿を現すと、犬山は中途半端に伸ばした髪をかき上げながら「おう」と言って立ち上がり、冷蔵庫からペットボトルを取り出して、茶の間のテーブルに置いた。「そっちにコップあるから勝手にやってくれ」と言った後、「酒にするか?」と目を向けた。「おまえさあ、空を見ろよ。日が沈むまでだいぶあるよ」僕が言うと、「ばかやろう、人間リベラルに生きんだよ」と訳の分からないことを言って、本当に酒瓶を持ってきた。そのあと例のつぎはぎの唐津の盃をテーブルに置いた。犬山は、「おまえもこれで飲め」と言いながら、目をしばたたかせた。その度に、彼の低い鼻の真ん中あたりに置かれた黒縁の丸眼鏡が忙しそうに動く。よくある犬山得二の癖であった。

 唐津の盃は、酒を容れると血が通ったように一瞬華やぐ。不思議なものだと思いながら口に含み続けると、器が掌(てのひら)になじんでくる。こうして唐津の盃でいただくのは何回目だろうか。何か得体の知れない魔のようなものがじわじわと身体のなかに入り込んでいくような気がした。

 「なかなかいいものだな」とつぶやくと、犬山は少しのけぞり軽く膝を叩いた。「おまえも何だか、わかってきたなあ。こりゃ、ええわ」と言ったあと、「よし、最近手に入れたものをご覧入れよう」とくるりと機敏に回って、机の右にある箪笥の引き出しを開けた。その箪笥は引き出しが左右五個ずつ十あり、そこに犬山の蒐集品の多くが納められていた。

 「これだ」と言って持ってきたのは、女の子の絵が描かれたトランプのようなカードだった。おそらく昭和のアニメだろう。若い女性が顔を上げ、楽しそうに歌っている場面が描かれている。「何じゃこれ?」と訊くと、「『さすらいの太陽』のカルタだ。虫プロだ。新品だぞ」「さ、さすらい…?」すると犬山は「レアもんだ」と言って大きくうなずいた。『さすらいの太陽』というのは、昭和46年に放映されたテレビアニメで、密かにヒットしたマニアな作品だと犬山は説明した。それは犬山得二の、昭和オタクの本領発揮といった品だった。

 この「さすらい」はどうでもよかったが、テーブルの下に置かれた小さな段ボール箱のなかにある、5センチほどのガラスのような瓶の破片に眼が奪われた。表面が虹色に輝いている。「これは何だよ?」と問うと、犬山は「ほう」と言って目を細めた。「これがお眼に留まりましたか?」そう言うと犬山は、ティッシュを一枚折りたたんでテーブルの上に置いた。そしてそのガラスのような瓶の端を、彼の利き手の左手の親指と中指で軽く挟んで、ティッシュの上にそおっとのせた。僕はその破片に眼を近づけた。午後の太陽の日差しが窓から入り、表面がキラキラと光っている。その色は、これまで見たことのない美しいものであった。

  「何だよこれ、ガラスか?」僕はじっと見入りながら尋ねた。「ローマ時代のガラスだ。3~4世紀。ローマンガラスというものだ」犬山はそう言うと、また左手の指でつまんでやや高く持ち上げ、左右にゆっくりと傾けたりした。その度に、ガラスの表面はいろいろな色彩に変化した。あるところは艶やかな銀色に、あるところは強いオレンジ色に。まるで異常なほど繊細な刷毛でさらっと塗り付けたような膚からは、非現実的な光彩が放たれている。

 「この表面の煌めく色の膜は、銀化(ぎんか)といって、長年土中にあると、ガラスの成分と地中の成分が化学反応してできている。一種の風化現象のようなものだ」「きれいだな」僕のつぶやく言葉に、犬山は怪しげな笑みを浮かべ断言した。「これが、古いものしかない美だ」

 僕は、犬山の持つガラスの破片に顔を近づけ、彼の手の動きに沿うように、深い虹色を眼で追った。しかしそれは一定の距離で止まった。その美しさの裏には、何か脆(もろ)いものが潜んでいて、これ以上近づいて見てはいけない気がしたからである。一息つくと、犬山はまたそおっとティッシュの上におろした。

 「おまえ、今よく触ろうとしなかったな」と感心したように訊いた。「何だか、それが正解のような気がしたからだ」僕の返答に、犬山は何回も小さく頷いた。「この銀化は見事だ。でも風が吹いたら消えてしまうかもしれない。そんな美しさだ」そう言ったあと、犬山はティッシュの端を持って、段ボールのなかへ閉まった。よく見ると段ボールには、綿が敷き詰められている。その中央に寝かせられたローマンガラスの破片は、はかないが永遠の美しさを湛えているように見えた。犬山は、テーブルに置いてある唐津の盃を引き寄せ、僕の飲み残りをぐいと喉に押し込んだ。「これは壊れ物だけど、美の基準から見りゃ、そんなことは無関係だ。おれはそう思う」

 その言葉を聞きながら、僕は会社員だった八カ月の生活を思い浮かべていた。そこには、自分を含め一生懸命優秀になろうとしている人間たちがいた。机上の正解に向け、マニュアル通りのやり方で、緻密な理論を振りかざしながら、同じ顔をして取り組んでいる、真面目でおとなしい、そして空虚な群れが、この時僕の瞳の奥で行進していた。犬山得二のその一言が、僕をその群れから引きずり出そうとしていた。

 

(第二話につづく 2月25日更新予定です)

ローマンガラス破片



ブログランキングに参加しています。

応援してくださる方、ぜひクリックをよろしくお願いします。

 

ブログランキングに参加しています。

応援してくださる方、ぜひクリックをよろしくお願いします。

 

にほんブログ村 美術ブログ 古美術・骨董へ にほんブログ村 美術ブログ 創作活動・創作日記へ にほんブログ村 美術ブログ 美術鑑賞・評論へ にほんブログ村 美術ブログへ