「骨董商Kの放浪」(2)

 犬山得二の部屋で見たローマンガラスの破片に魅入られた僕は、さっそく彼に教えられた骨董店に向かった。そこにはローマンガラスの完形品があると聞いたからだ。その店は、僕の住んでいるところから二駅隣りにあった。案外近くにあるんだなと、もちろん来たことはあるが、意外に知らないその街の界隈をぶらついた。駅前はこじんまりしているが、近くの商店街は充分に機能しており、洒落たブティックやスイーツ店のなかは人で賑わっていた。10分近く歩けば、裕福そうな住宅地が広がっている。その骨董店は、駅から2~3分の、目印となるコンビニを曲がった細い路地のすぐ右手にあった。

 僕は生まれて初めて骨董屋というところに入った。5坪ほどの店内には飾り棚に小さな品物が並んでいて、奥は仕切りがあり小部屋になっている。僕は、扉を開けてすぐの三段になっている飾り棚を凝視した。その中段に3点のローマンガラスが並んでいたからである。小さいながらどれも完全な形をした瓶で、胴が丸いものと細長いものがあり、それぞれアクリルの台に飾られている。表面は、群青色が強いものと赤色が主調しているものとあり、それはやはり美しい銀化(ぎんか)で覆われていた。「なるほど」としげしげと眺めていると、その下に値札が置いてあることに気がついた。見ると、今のバイトをほぼ毎日こなしてもらう月額の三倍であることを知り、また「なるほど」と得心した。

 しばらく見ていると、店の主人らしき40代半ばくらいの女性が現れた。「いらっしゃい」若草色のスウェットにジーンズという軽装の女性は、親しみやすい笑顔をみせた。「すみません、観るだけなんですが」と軽く頭を下げると、さらに笑顔になる。「構いませんよ。ゆっくりご覧下さい」僕はその言葉に甘えて、ローマンガラスを皮切りに、並んでいるもの一点一点に眼をとおす。そのなかで、上段の隅に置いてある高さ10センチほどの小さな丸壺に惹かれた。球形の胴部に黒色で鳥のような絵が描いてある。図柄は、結構ダイナミックなタッチでありながら整っており、器形は、口部は厚みのある平縁で飾られ、丸い胴部を繋ぐ短い頸(くび)が付いている。ローマンガラスは触る勇気が出てこないが、これは見たところ陶器のようなので、触れたい衝動に駆られた。

 「これ、触ってもいいですか?」と訊くと、女主人は「はい」とにこやかに答えてくれた。僕は恐る恐るといった感じで手に取る。意外に軽い。こんなもんかと思いながら左手のなかにおさめ、右手の指で口の部分を持って少しずつ回して絵柄を確かめた。鳥の絵は黒色の他に赤紫色も使われており、表面が磨かれたように艶光りしていて眼に映え、両手におさまる丸い器形はとても愛らしく感じた。「これは何ですか?」僕の率直な質問に、彼女は簡潔に答えた。「コリントスという古代ギリシャ陶器。紀元前7世紀くらいかな」さっぱりわからなかったが、何か魅力的に思え気分がよくなった。

 その後、女主人と少し立ち話をした。「女の人だからびっくりしたでしょ?」と言われたが、そもそも骨董屋自体知らないのだからでぴんとこない。しかし、骨董屋というものは、確かに爺さんがやっているイメージがある。「最近多いんですよ。私みたいな女性の店主」と言う女主人との会話のなかで、この界隈には他に五つ骨董店があること、彼女の扱っているモノが「オリエント」という分野であることを知った。だから、ローマとかギリシャなのかと僕は思いながら、再びローマンガラスに眼を転じる。

 「銀化がきれいに出てるでしょう」という彼女の言葉を受けながら、僕はその玉虫色の表面をじっと見つめ、意識を集中した。それは犬山得二の言う「古いものしかない美」の境地であったが、僕には、犬山の部屋のあの破片を眼にした時のような衝撃が感じられなかった。なぜだろう。あの時の突き上げて来る何かが無いのだ。僕はその店を出ると、すぐに犬山の部屋に向かった。今の感覚を確かめたかったのである。

 犬山は、玄関を入ってすぐ右側にある、決してきれいとはいえないキッチンで夕飯をつくっていた。「何だよ、こんな時間に。飯でも食っていくか?」とせわしげに支度をしている。「これからバイトだから暇はないんだ」僕は、夜7時から午前4時までのシフトで、いいように使われていた。犬山は、見た目のわりに、料理の腕はなかなかだった。手際よく夕餉の支度に没頭している犬山に、「あれをもう一度見せてくれ。ローマンガラス」と言うと、「ずいぶん気に入ったんだな」と、料理の手をいったん止めて、奥から段ボールの箱を取り出してきた。僕は立ったままそれを両手で受け、綿の敷布団に横たわっている壊れたガラス片をじっと見つめる。見入りながら、ふぅー、と息を吐きいったん眼をつむったあと、もう一息吐いてから、瞼を開けガラスに集中した。

 その瞬間僕のなかに、釈然とする何かが芽生え始めた。それは、数字ではあらわせない、しかし間違いなく正確な何かであった。それが突然胸を突き抜けたとき、僕は「これだ!」と確信した。どう表現したらよいか。あえて言葉であらわすとしたら、それは、一瞬の「冴え」とでもいうのだろうか。昨日の陽の光りの下でも、今のこの部屋の薄暗い黄色い電灯の下であっても、決して変わることのない「冴え」であった。僕は腑に落ち、何となく安堵した気分になった。犬山は何事かという目で僕をみつめていたが、すぐにフライパンに目を戻した。「ありがとう」と言って、僕は段ボールの箱をテーブルに置き玄関に向かった。「和風ハンバーグだ。食べていってもいいぞ」その声を背中で聞きながら「ありがとう」と僕は再び言った。

 

 次の日、僕はいつものように、部屋に西日がやや入り出した頃に目覚め、適当に食事をとった後、昨日の骨董店に足を運んだ。すみませんという風に扉を開けると、仕切りの向う側からかすかな笑い声が聞こえ、やがて女主人が顔を覗かせた。「また観ていいでしょうか?」と尋ねると、「どうぞ。今お客様だけど、ゆっくりどうぞ」と笑顔で返答してくれた。僕はローマンガラスの前に立ち「よしっ」と腹に力を入れ腕を組み、「かっ」と眼を見開きしばしにらみ合う。そして「なるほど」と小刻みに頷いた。

 ショウウインドウから夕日が射し込み、陳列された品々はまた違った顔をみせている。仕切られた部屋からは、男女の大きな笑い声が聞こえてくる。どうやらお客は男性らしい。すると入口の扉が開き若い女性が入って来た。それに気づくと女主人は「まあ久しぶり、どうしてた?」と軽く両手を上げて近寄って来た。僕はそれを潮(しお)に扉に手を掛ける。「あら、もう帰るの?」と訊かれ、「はい、ありがとうございました」と、頭を下げて外へ出た。日が暮れるまでまだ時間があるなと思い、僕は、昨日女主人から教えてもらった周辺の骨董店に足を向けた。

 

 犬山得二の部屋に着いたのは、ちょうど7時のNHKニュースが始まったときだった。犬山はテレビを見ながら食事をしていた。僕はちゃぶ台に置かれた皿を見て「おまえ、またハンバーグか?」と訊くと、「ばかやろう、昨日の残りだ」と言って箸を動かした。「うまそうだな。おれにもくれよ」と皿に顔を近づけたら、「おお、そうか、ちょうどよかった」と言って台所へ行くと、皿に盛った大きなハンバーグを持ってきた。「しかしおまえ、ずいぶんとたくさんつくったな」と言うと、「料理ってのはなあ、たくさんつくるほど美味しくなるんだ」と、缶ビールをテーブルに置く。僕は一口ほおばり、その絶妙な味付けに舌鼓を打つ。「さすがですね」の僕の反応に、犬山は無言でビールを飲み続けた。

 飯を食べ一息ついた頃僕は言った。「昨日今日と、おまえに教わったオリエントの店に行ったよ」すると犬山は「ネエさんのところにか?」と訊いた。「ネエさん?」僕が問うと、「ほうよ。骨董屋にしては珍しい女店主で、姉御肌で、それでネエさん」僕が頷くと「何だ、二回も行ったのか?」と訊いてきたので、「今日はあの界隈にある骨董店、全部見て来た」そう言うと、犬山は目をしばたたかせ、急に深刻な顔つきになった。「何だおまえ、骨董屋にでもなるのか?」と直球で来たので、僕は少しのけぞりながら「いや、そういうことではないんだけど、な」と言葉を濁した。犬山は冷蔵庫から缶酎ハイを取り出しテーブルに置いて、「やめとけ、悪いことは言わん。あれじゃ、飯は食えねえぞ」と言いながら缶のプルタブに指を掛けた。「眼が利くまで10年は修行だ。まあ、おれくらい下地があれば、3~4年でものになるけどな、ハハハ」と嫌味な笑い方をして、勢いよく酎ハイを流し込む。「まあ、そういう世界だってのは覚悟しているけどね」僕の返答に、犬山は急に姿勢を正して「どこがいいんだよ。骨董屋って」と直視した。それは僕の奥底を覗くかのような目つきだった。僕は、額に指を押し当てながら「何ていうかなあ。まだよくわからんけど…。1+1が2じゃなくて、10×10が100じゃないってところかなあ」とぼんやり答えると、犬山は体勢を崩し、一瞬天井に目を向けたあと「おまえも、なかなか変人だな」と言った。おまえにだけは言われたくない台詞だ、と思いながら、僕は、そうかもしれないと思っていた。

 犬山はリモコンのボタンを押してテレビを切ってから「まあ、それはそれで面白いかもな」と言うと、「ネエさんに相談してみろよ」と身を乗り出す。僕は、それはそれでありかもなと思いながら、缶のなかに僅かに残っていたビールをすすった。

 

 僕はその後、しばしばネエさんの店を訪ねた。ネエさんは、お客でもない僕の訪問に、毎回快く応じてくれ、骨董品を前にしていろいろな話しを気楽にしてくれた。こうした話は、時おり応接間でも展開された。しかしながら、僕は自分の進路について、なかなか切り出せないでいた。

 

 それからしばらく、僕はシャカリキになってバイトに精を出す毎日を送った。何故かわからないが、とにかく身体を動かしたかったのだ。その間、ネエさんの店にも犬山得二の部屋にも寄ることがなくなった。僕は、頭と身体とは別の動きをしているようで、どこかで繋がっている、そんな日々を過ごしていた。

 

 梅雨が明け、いつもの年と同じような暑さが連日続き、突如として秋の気配が感じられるようになった頃、僕は久しぶりにネエさんの店を訪ねた。ようやく、何となく、そんな気になったのだ。「あら、お久しぶり」といつもの親しみやすい笑顔が迎える。ぐるりと陳列品を眺めると、ローマンガラスが一つとコリントスの小壺がないことに気づいた。「売れたんですか?」と訊くと、「おかげさまで」という柔らかな返答とともに「暑いでしょ。冷たいものでもどう?」と、仕切られた小部屋へと通された。ここに入るのは三回目である。するとそこに先客がいた。にこにことほほ笑んだ70歳前後の小柄な男性が「どうも」と言って頭を下げた。「うちのお客様の内科の先生」とネエさんは紹介した。僕はどぎまぎしながら頭を下げる。「人形町で開業してまして」と先生は、この上なく人のよさそうな笑顔をつくって名刺を差し出した。「恐縮です」僕が固まって受け取ると、「学生さんですか?」と訊く。「いえ」と答えると「何のお仕事ですか?」と、先生は笑顔を向けた。僕は、両手でつかんだその名刺に目を落とした時、ある衝動に駆られて言葉が出てしまった。

 「あの、この仕事をやりたいと思っているんです!」瞬間、驚いた顔をしたネエさんの姿が横目に入った。僕は下を向き、「あっ」ともらして訂正しようと再び顔を上げると、そこには、いっそうにこやかになった先生の顔があった。「いいですよ。このお仕事は。僕は生まれ変わったら、こういう仕事に就きたいと思っています。愉しいじゃないですか。答えがいろいろあるんだから」

 1+1の答えが、決して2だけではないという深遠な世界の入口に、僕は立ったのかもしれないと感じていた。

 

(第三話につづく 3月11日に更新予定です)

コリントス小壺

 

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