「骨董商Kの放浪」(7)

 僕はその男の前にゆっくりと歩み寄った。僕に気がつくと、男は両膝を抱えたまま振り返り「こんにちは」と抑揚のない声で挨拶をした。「どうも」と僕も返す。40歳くらいだろうか。もじゃもじゃ頭の小太りな男は、上着の黒いジャージのジッパーを首まで上げて「この時間になると、ちょっと冷えますな」と僕を見つめた。座っている男の下には、青色のレジャーシートが敷かれている。それを見ながら、僕は全身の力が抜けていくのを感じていた。

 僕はゆっくりと男の後ろに座り、そして尋ねた。「飛天ですか?」「ひょっとして、あなたも」「はあ」と答えると、男は初めて笑顔をみせた。「お互い、バカですな」そう言って男はふくらはぎのあたりをかいた。

 男は、自分は山形に住む設計技師で、U氏のホームページでこの飛天のことを知り、初日にモノを実見し、今日までこの近くのビジネスホテルに宿泊。たぶん始発で到着する人がいるだろうと見込んで先にここに来た、と話した。「僕より前か、次に来る人は、きっとあなたのような若い人だと、何となく思ってました」「どうしてです?」「だって、持ってるエネルギーが違うでしょう。僕もあと10年したら、こんなことはできないと思う」と静かに語ると、また膝を抱えて背中を丸めた。月の光に照らされた男の黒いジャージが、僕の目にまぶしく映った。

 僕は、飛天について話しをしてみようかと思ったが、何だか野暮なことのように思えたのでやめ、他愛のない話を続けた。しかしその会話も時間の経過とともに断続的になり、そしておさまった。そのあとは、夜の帳(とばり)の静けさだけが、僕の耳を包み込んだ。ふと気がつくと、東の空がしらみ始めている。いつ以来だろう。昇る朝日を見るのは。あたりが徐々に明るくなっていくのを潮(しお)に、僕は立ち上がった。「失礼します」と彼に言うと、「帰りますか」と目を向ける。僕が「はい」と答えると「また会いましょう」と言った。そして、男は前を向き、膝頭に自分の顔をのせるようにして身を屈めた。僕は数歩歩み出してから振り返った。「何時から並んでいたんですか?」男はしばらく考えた風にしてから答えた。「そうですな。午前2時くらいですかな」「午前2時か…」僕はつぶやく。「ちょうど、あの夢を見ているときだ」僕は自転車に跨り、太ももの痛みを感じながらゆっくりとペダルをこいだ。

 

 家に帰って死んだように眠った僕は、西日が強くなり出した3時過ぎに起きると、先ずはネエさんの店に向かった。僕の話しを、ネエさんは、すぼめた膝の上で両手を合わせてしんみりと聞くと、「なるほどねえ」と、大きく息を吐いたあとくうを見つめた。僕は鞄のなかに手を入れ「と、いうことで、これはお返し致します。いろいろとありがとうございました。」お金の入った封筒を差し出して頭を下げた。

 ネエさんはそれを受け取ると、しばらく神妙な顔をしていたが、突然思い出したように立ち上がった。「あっ、そうだ。これ、ちょっと見てくれない?」ソファの後ろにある商品棚から小さな箱を一つ取り出すと、それをテーブルの上に置いた。「これよ」と言って箱を開ける。なかから出てきたのは、高麗(こうらい)青磁の小皿だった。そのきらめきに、僕は思わず手が出ていた。そしてじっくりと見る。径が10センチくらいの平たい皿で、サイドは、ほぼ垂直に2センチほど立ち上がっている。釉(うわぐすり)はしっとりとした薄緑色を呈していて、器胎(きたい)もけっこう薄くてシャープだ。文様のない素文(そもん)のタイプで、中国陶磁を意識した11世紀後半くらいの作だろう。

 「へえー、いいものですね!」僕が食いつくと、ネエさんは「このあたりは、わたし専門外だから。K君の方がわかるでしょ?」「いやいや、僕はまだ浅いですよ。全然」と否定すると「でも好きでしょ?」とみせる笑顔に「はい」と僕は頷いた。その顔を見るなり、「気に入ったら、安くお譲りしますわよ」とにこりと微笑んだ。「えっ、いいんですか?」僕の反応に、ネエさんはこくりと頷いた。

 「この間、ここにハッダの名品があったでしょ?」ネエさんは床(とこ)を指さす。「はい、すごいやつ」「これは、その家から出たの。きっと、いいモノよ」僕は掌のなかの小皿を再び見つめる。なかなかの作だと思った。すると、急に元気が湧いてきた。「ありがとうございます!」僕は笑顔でモノを卓の上に戻した。その高麗青磁を見つめながら、「ねえ、K君。さっきの飛天の話しだけどね。これで終わりじゃないよ」僕はネエさんの顔を見つめる。「優れたモノは、絶対になくなったりしない。そして、思い続けると、またいつか、きっと出会える。わたしは、そう思う」言葉を区切りながらのその口調は、何か自分に言い聞かせているかのように感じた。

 

 僕はその夜、犬山得二の部屋を尋ねた。犬山は僕の話しを一通り聞いたあと、腕組みをして顔を傾けた。「んー、さすが、骨董の世界。そうでなくちゃな。おれもおまえも甘かった」犬山は晩飯につくった餃子を口に放り込む。僕もご相伴にあずかる。「午前2時かあ。それじゃ、その人は9時間待ったってことか」「ということだな」「いい話だ。まあ、お疲れさん」と言って、僕のグラスにビールを注ぐ。一口飲んだあと、今どきではないそのグラスに目をやる。「昭和初期だ」と犬山。テレビに目を移すと、また昭和のドラマが流れている。

 僕が前夜に見た夢の話しをすると、「それじゃ、おまえが見た夢は、お告げだったってことか」「あと2時間前に見てれば、間に合ったんだけどな」それを聞いて犬山は「ハハ、夢ってのは、そういうもんだ」と笑った。僕は、犬山お手製の餃子を次々と口に入れ「おまえ、相変わらず、うまいな」と言って、グラスのビールを飲み干した。犬山もビールを飲みながら「しかし、ネエさんは優しいな。おまえにそんな名品を分けてくれるなんて」確かにその通りだ。意気消沈しているこの僕をみて、救いの手を差し伸べてくれたわけで。「うん。今僕はネエさんのためなら死ねる」とテレビ画面に目をやったときである。僕の目が一瞬留まった。画面に映った女剣士の顔がReiによく似ていたからである。犬山は、これが昭和46年に放映された『おれは男だ!』というテレビドラマであることを教えてくれた。

 

 次の日、僕はネエさんのところで仕入れた高麗青磁の小皿を携えて、宋丸さんの店を訪ねた。宋丸さんはまだ来ていないようだったので、僕は先ずReiにそれを見せることにした。僕は風呂敷から箱を取り出し、応接間のテーブルの上に置き、箱から中身を出す。Reiの用意した袱紗(ふくさ)の上に、高麗青磁を置いた。袱紗の紫色が、いっそう青磁の色を引き立たせるようにみえた。

 Reiは、「わあ」と言って僕の横に並んで座った。僕は少しドキリとする。Reiはグッと近寄ってモノを手にし、かがんだ姿勢でしばし眺める。僕も一緒に低い姿勢で、彼女の手の動きに合わせて目を動かした。ネエさんの店で見たときより、きれいに見えるのは気のせいだろうか。

 Reiは小皿をゆっくりと袱紗の上に戻すと「いいです!とてもキュートです」と微笑んだ。キュート。なかなか素敵な表現だ。宋丸さんの影響か。僕は感心する。「Kさん、これいいモノだから、東京国立博物館に売りましょう!」とキラリと輝く瞳に、僕は吹き出した。「Reiちゃん、あのさあ。東博、たくさんあるじゃん、高麗青磁。新たにこんなん買わないよ」「でも、きれいだから。あのなかにあっても、全然いけますよ」と独りでうなずくReiを見て、やはり彼女は生粋のお嬢様なのかもしれないと、その時僕は思った。

 そこへ宋丸さんが登場した。「おい、何だか妙なものを持ってきたなあ、青年」宋丸さんは笑いながら「どっこいしょ」とソファに腰をおろした。と同時に、Reiはお茶を淹れに立ち上がる。宋丸さんの眼が、袱紗の上に置かれたままになっている高麗青磁に向けられると、さっきまでの笑顔が急に消え、険しい顔つきになった。あまりにも鋭い目つき、僕は何かを見透かされているような気になり、「すみません。今、片づけます」と慌てて箱を取り出した。すると宋丸さんは「ちょっと待てよ、青年」と言って、青磁を手許に引き寄せた。

 立ち上がりの口の部分を右手の指でつまんで、裏を返す。高台(こうだい)は無く、平たい底裏全体に釉(うわぐすり)が掛かっている。そこに目跡(めあと)と呼ぶ、焼くときに地面にくっつかないよう、器を支える支具の跡が三箇所ある。ただ、それが極めて小さく、且つ均等に置かれているのだ。高麗青磁の目跡は、たいてい大きめでラフなものが多い。僕は、この整然と配された小さな目跡が、何かこのモノの品格を示しているような気がしていた。

 「おい、青年。きみの名前は何だった?」「Kです」これで何回目だろう。名乗ったのは。と思っていると「おい、K君。これを、どこから持ってきたよ」と真顔で訊く。僕は尋問されているかのような気分になり身体が硬直。「えっ?どこからかと言いますと…」瞬きもせずに見据える宋丸さんの目に気おされ、僕の声は縮こまる。「…僕がお手伝いしているオリエントの店の主人から分けてもらったもので…」。宋丸さんの眼(まなこ)は動かない。「その主人の話しだと、名コレクターの家から出た、とか言ってましたが…」

 

  宋丸さんは、もう一度しげしげと皿を見てから、袱紗の上に置いた。そして横にある箱を取り上げ、蓋に付いている古い貼り紙と、紐を入念に確認している。僕もその箱に注目する。確かに、かなり古い箱であることは間違いなかった。宋丸さんは再び小皿を見つめ、しばらくそのまま動かなかった。僕も再び小皿に眼を向ける。

 青磁は、ネエさんの店で見たときとは、また違った顔をみせている。それは、窓から射し込む柔らかな午後の光りのせいなのか、宋丸さんの異様な眼の光りのせいなのか、僕にはわからなかったが、何かこのモノの本性が浮き彫りにされていくような気がしていた。暫しの沈黙のあと、宋丸さんは深く息をつくと、いきなり「かあー!」と吠えるような声を出して天を仰いだ。お茶を運んできたReiが立ち止まりびっくりしている。僕も同様に椅子から飛び上がる。すると、宋丸さんが叫ぶように言った。「百年待ったよ!」百年!?なんだそれは。どういうこと?僕はReiと顔を見合わせる。「おい、青年」「Kです」「K君。これを置いてけ!」と宋丸さんの重低音が響く。言ってる意味が分からない。僕のフリーズ状態を見て、Reiが袖を引っ張り、耳元に顔を近づけて小声で言う。「置いてけって言うときは、買ってくれるってこと」僕は得心する。しかし、なぜ?それにこれは、ネエさんから譲ってもらった一品である。僕が迷っていると、宋丸さんは指を三本立てた。かすかな笑みから見えるその眼光が僕に圧を加える。まあ、相手が宋丸さんだしと思い、僕は「わかりました」と伝えた。すると宋丸さんは例のごとく、カカカと高笑いをして「お嬢さん、コーラ出して」と言った。何か嬉しいことがあるとき、宋丸さんは酒が飲めないので、代わりにコーラが出てくる。それも瓶のままでだ。Reiが栓を抜いたコーラを僕と宋丸さんの前に置く。宋丸さんは、それを掲げて「乾杯」と言ってごくりと飲む。思わぬ急展開に、僕も続いてごくりと飲むしかなかった。

 

 一瓶飲み干すと、宋丸さんは奥の商品庫に引っ込んで、何やらビニール袋のようなものを出してきた。「お嬢さん、ちょっと大きい封筒」と指示をする。Reiがそれを渡す。何が始まるのかと僕は注視する。宋丸さんは袋をまさぐって、お札の束を取り出し「お代金だ」と言って封筒と一緒にテーブルの上に置いた。そこには100万円の束が三つある。「えええっ!!」あまりの衝撃に、僕の身体がソファから一瞬浮く。僕はこの小皿を、ネエさんから10万円で譲ってもらっていたので、宋丸さんは30万で買ってくれたのだと思っていた。僕は気を落ち着かせて、「宋丸さん、さ、30万じゃないんですか??」さっきの炭酸が急に逆流してくる。それを聞くなり宋丸さんが睨む。「30万?どこが30万なんだよ」「いや、実はこれ、僕は、その、ずっと安く買ってるので、30万かと思って」と言うと、宋丸さんは少し怒気を含んだ表情で「おい、青年。それはモノに失礼だろ!」と低い声を響かせた。「はい!」と僕は背筋を伸ばす。「それじゃあ、モノが可愛そうだと言ってるんだ」やや強い口調で、宋丸さんはそう続けた。

 

 結局僕は、その300万を封筒に入れ、持ってきた風呂敷で包んだ。僕はその風呂敷を自分の隣りのソファに置いた。しかし、どうしても解せない。骨董屋の走りだとはいえ、この小皿がそんな値段がしないことくらいはわかる。でも、何か理由があるに相違ない。まだ袱紗の上に置かれた青磁の皿を見ながら僕は想像する。

 あの端整極まりない目跡と関係があるのか。器形は高麗特有であるが、中国陶磁の気分も持ち合わせているような。そのとき、前に読んだ宋丸さんの短歌の文句が頭をよぎった。僕は頭が整理されない状態で、ふっと思ったことを口に出した。「この青磁は…、高麗、ですよね?」それに対し、宋丸さんは、にやりと笑いながら、「その答えは、そうだな、このモノしか知らないかもなあ」宋丸さんは、再び青磁に眼を向け「ここでようやく、やってきたかあ」と言って、カカカと爽快に笑った。僕はその顔を見て、何だか自分も嬉しくなっていくような気がした。

 

 それから僕はしばらく宋丸さんと雑談し、帰ろうとするとまた話しかけられ、気がつくと7時になっていたので、僕は帰り支度を整え、大事に風呂敷を抱え、ドアノブに手をかけたところで、また話しが始まる。いつものパターンだ。ようやく解放されたのが、それから30分が経過してからだった。

 僕とReiは駅に向かって銀座通りを歩く。「宋丸さん、今日も独りで残っていくんだ」それにReiは笑って答える。「たぶん、これから、あの高麗青磁と愉快な時間を過ごすんじゃないかしら」それから僕の上着を引っ張る。「何?」と訊くと、「だから、東博に売ればよかったのよ。宋丸さん、東博に売っちゃうわ」と膨れた顔が可愛らしかった。「別にいいよ。宋丸さんの自由じゃん」「ふーん、そういう考え方なんだ」その顔を見て僕は「こいつ意外に商売人かも」と密かに思った。

 

 次の日、僕はネエさんの店を訪れ、昨日の顛末を話し、茶封筒をネエさんの前に差し出した。「ということで、ネエさんの取り分です」と言うと、「冗談よしてよ。あれは、あなたのお金で買ったんだから、わたしは貰う筋合いはない」と突き返す。「でも」と言うと、ネエさんはビシっと言い放つ。「商売とはそういうものよ」続けて「K君。これからあなたも、この仕事をやっていくなら、元手が必要じゃない。いくらあってもいいんだから」僕はその言葉をありがたく受け入れ「ネエさんのためなら死ねる」と、また思った。

 

 応接間にはいくつかの箱が積み重なって置いてあった。「また来週、お願いね」とネエさん。そうだ。来週は骨董イベントがある。あれから一年が過ぎたのだ。「はい」と僕は答える。

 床(とこ)に目をやると、そこにはエジプトのブラックトップという表面が黒光りしている先の尖った古代の土器が飾られていた。それを見て僕は思い出す。「そういえば、前ここに飾ってあったハッダ、売れたんですか?」と訊くと、ネエさんは深い笑みをみせて答えた。「あのあと、すぐにね」。

 ネエさんは穏やかな顔で、しばらくブラックトップをみつめていた。優しい時間が流れるなか、ネエさんは「うーん」と大きな伸びをした。「そうかあ、百年待ったか」と、宋丸さんの言葉をかみしめるように口にすると、すっと立ち上がった。そして「いつかきっと、めぐり会う」と、感慨深げにつぶやくと、「宋丸さん、おめでとう!」と言って拍手をした。ネエさんの力を込めて叩き続けるその音が、小さな応接室に高らかに響きわたった。

 

(第八話につづく 5月6日更新予定です)

高麗青磁小皿

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